鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏(ⅩⅩⅡ) 没落・三浦氏

宝治合戦の収束した直後に、将軍頼綱は鶴岡八幡宮に相模国谷部郷を寄進している。  寄進状には、謀逆の輩が誅されたのは神道の御加護によるという文章が添えられていたという。 この谷部郷とは、三浦の矢部と考えられ、衣笠城一帯を含む三浦氏の本拠地であるから、この寄進は、三浦氏が本領を没収されたことを意味しており、三浦氏の没落を象徴していることになる。
三浦氏の居城・衣笠城址   (桜の名所・衣笠公園付近)
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しかし、三浦一族の中には、族滅を免れた一族もあった。佐原氏である。  佐原氏は三浦義明(miura・yosiaki)の子義連(yositura)から出た一族で、次男盛連(moritura)は北条泰時の前妻である矢部禅尼(yabezenni)を娶って光盛、盛時、時連らをもうけている。  彼らは北条時頼と叔父と甥の関係にあり、その関係で北条方についていた。

さらに彼らとは異母兄弟にあたる佐原経連(tunetura)も、一族の泰村に同意することなく、時頼の父である北条時氏(tokiuji)の旧好を選び、時頼の陣に参集し北条氏方についたのである。  一方、佐原氏のなかでも家連(ietura)や光連(mitutura)のように、三浦氏と運命を共にしたものもあったが、彼らは北条氏との族縁を選び、生き残ったのである。  宝治合戦の後、三浦氏を再興したのはこの佐原氏である。

その後、佐原氏の惣領は光盛が継いだが、「三浦介」の称号は盛時が継承したらしい、しかし以前のような相模国の守護を意味するようなものではなく、その後守護は置かれなかった。 盛時は宝治合戦以前から得宗家の被官であったようで得宗・時頼は陸奥国糠部郡(nukabegun)五戸の地頭代に盛時を補任している。  このような関係が、北条氏の許でのその家の存続が許された要因の一つである。 一族から検非違使なども輩出したが昔日の面影はなく東国の雄三浦氏は葬り去られたのである。 (続)

平成二十七年乙未・戊寅・丁丑

***祝・新年・・・・・今年も健康で元気な年を迎えられたことに感謝します。 ブログを通じての記事が四年を越え600回を経過しました。これも皆様方からの励ましによって継続出来ていると考えています。 今年もまだまだ続きますので宜しくお願いします。・・・・・mituuroko
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鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 ( ⅩⅩⅠ)  宝治合戦

北条時頼の意に反して、軍を出動させてしまった安達景盛以下の御家人たちによって三浦泰村邸は包囲された。時頼もここに至っては合戦を決意し、軍を泰村邸に向けた、永福寺で奮戦していた弟の光村に使いが出され、頼朝の墓前に集まり、泰村以下三浦勢276名を含む500人余りが自刃して果てたという。
法華堂近くの源頼朝墓所(鎌倉・雪ノ下)
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この事件に巻き込まれた人々の中には毛利、大隅、宇都宮、春日部、関政泰らとその一族の名があった。  関政泰は妹が三浦氏に嫁いでいた縁で泰村の陣に加わった。 また毛利は、一時は時頼に加勢したが、泰村の妹である妻に叱責され、最後には三浦氏と運命を共にした。  こうして親類の縁などにより三浦方についた多くの人々がいるものの、佐原氏の一族のように、三浦氏方につく者と北条方についた者とに別れた家もあった。  一方、幕府御家人の中にも、北条氏や安達氏の専権に反発する勢力もこの合戦に加わっていた。

*佐原氏・・・・・三浦氏の一族で、現在の横須賀市・佐原の地名が残る?

さて、下総・上総を領した千葉氏一族の場合はどうでしょう、当時の下総千葉氏の当主は千葉頼胤(yoritane)で、僅か九歳でした。千葉氏では当主の早世が続き、年若い頼胤、叔父の泰胤(yasutane)が補佐するような体制となっていた。それに対して、上総(千葉)秀胤(hidetane)は権力を維持していた。  秀胤は滅亡した上総介広常(hirotune)の遺領を引き継ぎ、三浦泰村の妹を娶っていた。そして千葉一族の中で唯一、評定衆にも名を連ね、三浦泰村らと共に将軍頼経の側近であった。 しかし、宮騒動の際に評定衆を罷免され、上総に蟄居させられていたため、宝治合戦には直接参加していない。

しかし、宝治合戦の余波は、上総に蟄居していた上総秀胤にも及んだ。  幕府は秀胤の追討を大須賀胤氏(oosuga・taneuji)と東素暹(tou・sosen)に命じている。 ほかに上総国の御家人らが数多く加勢にまわり、合戦となったが秀胤と嫡男・時秀、次男・政秀、三男・泰秀、四男・秀景らは心静かに読経を行い自害したという。

この上総千葉氏の滅亡のくだりは、宝治合戦の直後の事件として「吾妻鑑」が特に詳しく述べている。 おそらく上総千葉氏の追討は大きな事件として何らかの記録が残されていたのであろう「吾妻鑑」はそれを参照した形跡が見られる、「吾妻鑑」の表現が文学的であり、合戦の陰惨さが欠如しているからである。  三浦氏は、本来安房・上総に拠点を有しており、三浦泰村は宝治合戦に際してもこの両国から甲冑を運び入れたりしている。

その背景には上総千葉氏との連携があったことは間違いない。 その上総千葉氏を滅亡に追い込むことは、北条時頼にとって重大な課題であったに違いない。  千葉氏の多くの一族が三浦方として掃討されていることは、北条氏にとって房総方面への足掛かりとして重要であった。  まさしく、これ以後上総・安房方面には北条氏の所領が増し、北条氏の基盤と化してゆきました。   (続)

平成二十六年甲午・丁丑・丙寅

***今年一年間の来訪を感謝いたします、来る新年も皆様にとってより良き年でありますようにお祈り申し上げます。新しい未(ひつじ)年も「鎌倉の石塔」をよろしくお願いします。  ゆるりとした更新になりますが。・・・・・mituuroko

更新延期のお知らせ

*ブログ「鎌倉の石塔・周辺の風景」の更新、暫くの間不定期の更新となります事をお知らせいたします。  いつも訪問頂きありがとうございます。  少し忙しくなりましたことが一因ですが、週一くらいのペースは維持できると考えています。今回のテーマは長期戦なのでゆったりとお付き合いいただければ嬉しいです。・・・・・突然ですがよろしくお願いいたします。                                                                   mituuroko

鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏(ⅩⅩ)  城氏(安達氏)の動向 続き

次に、景盛の子義景(yosikage)に関しては、垸飯(ouban)について考えたい。

*垸飯・・・・・年始に臣下の者が将軍を自邸に招き、食事を献上する儀式。
鎌倉幕府三代執権・北条泰時菩提寺・・粟船山・常楽寺山門(鎌倉・大船)
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執権・泰時、経時、時頼の時代、城氏では義景の時代に、特に重要な行事として行われたようだ。  垸飯を主催したのは前記三執権をはじめ、北条氏ばかりであって、例外的に足利義氏(asikaga・yosiuji)が一度あるだけである。  垸飯に次いで、剣、調度(弓矢)、などを献上する役がある。この順番は各家の格の序列を示すものと思われる。 剣の役では北条一門のほか足利氏が五回、三浦氏が四回、毛利氏が一回と記録される。  義景は調度を六回勤めているが、剣の役を勤めた事は無い。  このような点から家格は北条・足利・三浦・城の順と考えられる。  ただし、足利は幕政にあまり関与していないから除くと、北条氏に次ぐナンバー2の三浦氏が、ナンバー3の城氏、にとって目障りなのは当然だったでしょう。

城義景が初めて評定衆に名を連ねたのは延応元年(1239)の事。  三浦義村が没した為の交代であり、義村・泰村父子が評定衆に並んでいたのが、三浦泰村・城義景が並ぶことになる。 同時に引付(hikituke)の改革に功績をあげ、新設の五番引付頭に任命されており、官僚的武士の性格が強かった。

引付・・・・・裁判の迅速化をはかるため、御家人の所領に関する訴訟を担当する機関。

評定衆の正式の会議に代わり、執権・時頼の屋敷で「内々沙汰」・「神秘沙汰」(sinnpisata)「寄合」(yoriai)などという少人数の会議が開かれ、重要事項がそこで決定された。 得宗専制政治の現れだとされるが、将軍頼経を更迭した政変に関する二度の神秘沙汰のメンバーを見ると、北条一門三名(時頼・政村・実時)、御内人二名(諏訪盛重・尾藤景氏)、外様御家人二名(城義景・三浦泰村)であり、 三浦は追放されたので、城氏こそが得宗の信頼する御家人であったことになる。

**得宗専制へ

安達氏(城)はもと頼朝の側近であったが、頼朝没後は、政子との親密な関係を通じて北条氏に接近し、そのもっとも信頼できる盟友となり、婚姻関係をも結び、北条氏の外戚の地位をを占めるにいたった。  鎌倉幕府の歴史は、北条氏が権力を掌握する過程であるが、城氏は常に北条氏と提携し、その制覇を助けてきた。

得宗専制政治の成立には、霜月騒動(simotuki・soudou)を発端とする説が一般的である。  北条貞時(houjixyou・sadatoki)が執権になって間もなく起こったこの事件によって、一般御家人勢力を代表する安達(城)泰盛(adati・yasumori)と、得宗被官勢力を代表する平頼綱(taira・yorituna)との対立が、後者の勝利に終わり、ここに得宗専制政治が確立したとされる。   (続)

平成二十六年甲午・丁丑・己未

鎌倉北条氏の時代

**将軍にならなかった北条氏 ⅡⅩ  城氏(安達氏)の動向続き

頼朝の死後、幕府内では、将軍頼家を推す比企氏と、弟の千幡(senman)(実朝)を推す北条氏とが対立。  城(安達)景盛の母は比企氏の出であり、本来景盛は頼家・比企方に付くべきところ、政子との親密な関係を通じて、千幡・北条方についた。
安達氏(城氏)の祖、安達盛長邸跡・現甘縄神明社・・(鎌倉・長谷)
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多くの鎌倉武士は、幕府の内紛の中で、岐路に直面し、選択を迫られるが、景盛は常に幸運で賢明な選択をしている。  安達氏は頼朝の側近から、北条氏の盟友に巧みに転換することが出来たのである。

源実朝が暗殺されたとき、景盛は出家したとみられるが、それほど密接な関係があったのだろうか。 「吾妻鑑」等によれば実朝側近の動きをしていたようだ。  建保六年(1218)、順徳天皇に皇子(懐成親王)(kanenari)が生まれたとき、景盛はお祝いの為京都に遣わされた。これらの事から、景盛が実朝の厚い信頼を受け、そのうえ、都の事情に通じており、素養のある人物であったことが解る。

景盛が重用されていたことを示すのは、建保六年、実朝の推薦で秋田城介(akita・jiyounosuke)に任命されたことである。秋田城介は蝦夷経営の為、秋田城に常駐した出羽介(dewanosuke)であり、久しく空職になっていた名誉職であるが、景盛は大いに喜んだという。   「吾妻鑑」

その後、安達氏は秋田城介を世襲し、秋田城の由緒で城氏を称した。   承久三年正月、法華堂で実朝三年忌の追善供養を営んだが、その奉行は景盛と二階堂行村が務めた。  景盛は出家して大蓮房覚智と号し、高野山に籠った。   正確な時期は不明であるが、景盛の高野山における事績として、金剛三昧院(kongou・sanmaiin)の創建が目立つ。

景盛は出家後も世俗を捨てず、高野山のみに住んだのではなく、たびたび鎌倉に現れている。この様な出家は当時は珍しくなく、嫡子義景はまだ十歳、景盛はまだ世を捨て得る状況ではなかった。

その世俗活動の一端を見ると、承久三年、承久の乱の際、政子が頼朝の御恩を説き、御家人たちの決起を促したことは「吾妻鑑」などに詳しいが、それについて、政子が直接御家人に呼びかけたとする資料もあるが、景盛が政子の言葉を取り次いでいる。  さらに、宝治合戦では、子の義景、孫の義盛を叱咤し、時頼を説得し、北条・三浦の和解を阻止して、三浦氏を破滅に追い込んだのは景盛であり、これが出家者の所業かと訝るほどだ。

とくに、承久の乱後、景盛の娘が北条時氏(houjiyou・tokiuji)(経時・時頼の父)の妻となったことは重要である。  時氏は僅か二十八歳で没し、執権職に就いていない。  景盛娘は出家して松下禅尼と呼ばれた。夫婦生活は七年程度にすぎなかったが、時氏は執権泰時の嫡男であり、将来は執権を予定されていた人物であったし、夫妻の間に生まれた経時・時頼は相次いで執権となり、女子の檜皮姫(hiwadahime)は将軍の室になっている。  このことは城氏と北条氏との関係を一層緊密にし、執権・将軍の外戚としての城氏の地位を飛躍的に向上させた。
 (続)

平成二十六年甲午・丁丑・丙辰
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