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知識・情報

大仏師・運慶と鎌倉

大仏師・運慶は平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した、日本でも最高位の仏師だろう。
その運慶と鎌倉の関係を調べる事になったのは、現在横浜・金沢区の県立金沢文庫で「運慶展」が開催されているからだ。  専門講座や特別講演会なども開催され盛り上がりを見せている。  先日ようやく「運慶展」に行ってきた、平日だと云うのにかなり混雑していて、さすが「運慶」さんだと感心している。
金沢文庫には鎌倉幕府や鎌倉北条氏関係の展示はよくあるので閲覧に行くが、このように混雑する事はあまり見たことが無い。
[特別展」神奈川県立金沢文庫80年  「運慶」s-2011_0303_091556-DSC01471.jpg
大威徳明王像
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平成十九年の春に、約50年ぶりの確実な運慶作品の発見として話題となった、金沢区・称名寺子院の光明院が所蔵する「大威徳明王像」を保管する博物館として有名になった。

その運慶の作品だが鎌倉にほとんど見当たらない、仏師運慶は文治年間後半から、建久年間前半にかけての10年位は鎌倉にいたとの記録があるが、作品が出ない。どういうわけなのか、  少し勉強してみようと云う訳だ。

まず自分の知識では(鎌倉関係)北条氏の本貫地伊豆国北条、現在の静岡県伊豆の国市にある、願成就院に数体の像があること、又横須賀の淨楽寺に数体。  後は鎌倉・円応寺の閻魔十王像等である。 その他、運慶作と伝えられる諸仏を記すると・・・・
  

1)光触寺(kousokuji)・・阿弥陀如来像(三尊) 鎌倉市十二所
2)杉本寺      ・・源頼朝寄進の十一面観音像・脇立地蔵菩薩・山門仁王像   鎌倉市二階堂
3)教恩寺      ・・阿弥陀三尊像   鎌倉市大町
4)延命寺      ・・地蔵菩薩像(身代わり地蔵)  鎌倉市材木座
5)補陀洛寺(fudarakuji) 日光・月光菩薩像   鎌倉市材木座
6)来迎寺      ・・阿弥陀三尊像   鎌倉市材木座
7)英勝寺      ・・阿弥陀三尊像   鎌倉市扇ヶ谷
8)円応寺(ennnouji) ・閻魔王坐像    鎌倉市山ノ内

以上8ヵ寺に典拠不明の運慶仏が鎮座されている。
次に現存しない運慶仏を吾妻鏡などから推定してみた。

建保四年(1216)・・・源実朝・持仏堂本尊・釈迦像を京都より移し、開眼供養す。雲慶(運慶)作
建保六年(1218)・・・大倉薬師堂薬師像供養  仏師雲慶(運慶)
承久元年(1219)・・・勝長寿院・五仏堂五大尊像供養  仏師運慶
貞応二年(1223)・・・北条政子の新御所持仏堂に本尊安置供養   運慶作  この年運慶没
以上4件吾妻鑑より推定した。(鎌倉関係のみ)

鎌倉幕府関係の運慶仏(典拠の有るもの)を記述する。
願成就院の諸像
現在、願成就院には、阿弥陀如来挫像と不動三尊像と毘沙門天立像が伝来する。吾妻鑑よれば「本尊者阿弥陀三尊」とある。阿弥陀如来挫像には当初、観音・勢至の二菩薩像も付随していたと思われるが現存しない。
阿弥陀如来坐像は、胸前に両手を掲げて指を捻じて、説法印を結ぶ。衣文(emonn)は深く刻まれ流動的な表現となる。 それまで主流の定朝様(jixyoutixyouyou)と隔絶した表現は、運慶の古典学習により採用されたものと考えられる。>(像内銘札)
不動三尊像も二童子像
も、肥満し堂々としている。  衿羯羅(konnkara)・制乇迦(seitaka)の二童子は、「従順」と「悪性」の性格を表現したのか。
像内銘札)
毘沙門天像
は、その体躯に皮鎧をはち切れんばかりに纏って、前方を見据えて立つ。まさに臨戦態勢にある、武将の姿をとらえている。
(像内銘札)
願成就院は源頼朝による「源氏の氏寺」に対して北条時政による「北条氏の氏寺」として発足した。しかし実際は「北条政子の寺」願成就院だったようだ、その意向を反映して採用されたのは、鎌倉時代初期には珍しい説法印形式の阿弥陀如来像だった。奈良法華寺・阿弥陀浄土院像の説法印を結ぶ形式は、後に宮邸女性関係の造像の規範となった。



浄楽寺の諸像
浄楽寺は三浦半島の西側、横須賀市芦名にある。三浦大介義明の孫にあたる、和田義盛は鎌倉幕府・侍所の初代別当を務めるなど三浦一族の当主と目されていた。その和田義盛の意向により浄楽寺は建立されたようです。
阿弥陀如来像(三尊)は、願成就院と同じく圧倒的な量感が表現され、同じく衣文も深く動きのあるものとなる。一般的な阿弥陀如来像の形式である来迎印を結ぶ。両脇侍の観音・勢至菩薩像も量感豊かに表現されている。(像内銘札)
不動明王像と毘沙門天像
は、これも同じく、堂々とした体躯となるが少し減じられた感がある。平安時代後期以来の形式にみられるものとなる。(両像共・像内銘札)

この浄楽寺と願成就院の諸像の違いは、運慶工房の状況の違いと思われるが、近世の追納品の銘文や地詩類で、勝長寿院の諸像を移座したものとされることに興味がある。
   浄楽寺の諸像は銘札により運慶作で、一方「吾妻鑑」から勝長寿院像は成朝作の皆金色阿弥陀仏であったことが判明している。したがって移座の可能性は全くないのだが。

金沢文庫(称名寺・光明院)
大威徳明王像(daiitokumeiouzou)は運慶作と確認される。
横浜市金沢区の称名寺・光明院に所蔵されている、かつては弘法大師作として安置されていた。本来は六面・六手・六足で、水牛の台座にまたがった姿だったとみられる。平成十九年の春、保存修理の為に像内納入品が取り出された。そのうち大威徳種子等及梵字先手陀羅尼の奥書から、本像は「源氏大弐殿」の発願により、大日如来・愛染明王・大威徳明王のうち一躯として、「法印運慶」により造像されたことが判明した。「大弐殿」とは将軍・源頼家・実朝兄弟の教育係を務めた「大弐局」と思われる。
運慶の現存する真作は数少なく、同時代の資料から確かに裏付けられる作品は、5作品だけである、6件目の発見でありその価値は極めて大きい。

願成就院・浄楽寺の運慶による造仏事業の事実が、鎌倉幕府と運慶の関係の足掛かりになっただろう。その後の運慶は建久七年(1196)から父康慶とともに東大寺大仏殿内・緒像の造像を行い、翌年には京都・東寺講堂緒像の修理をはじめとする東寺復興事業に一門の棟梁として従事する。
東大寺と東寺の復興事業は、院をはじめとする朝廷の依頼に、頼朝が協力しておこなわれた。運慶がこの事業で、造仏の中心的役割を果たせたのも、鎌倉幕府周辺の事業を行なってきたからであろう。  横須賀・浄楽寺の造像(文治五年・1189)から大仏殿の再興事業が始まるまでの七年間、運慶造仏の事蹟は確認できず「空白期」となっていた。    この空白期を埋める作品が、真如苑所蔵の「大日如来像」である。 有力御家人・足利義兼が、建久四年に供養した旧樺崎寺下御堂像にあたる可能性が高い。この新発見は、この時期運慶が関東に拠点を持っていた可能性を高める。
「吾妻鑑」によれば永福寺の造営は文治五年から建久五年に行われていいいたことは注目される。運慶はその「空白期」に、鎌倉幕府の最重要寺院である永福寺の造像に、鎌倉で従事していたのではないだろうか。
永福寺・石塔・・跡地
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永福寺・発掘再現絵図
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永福寺は、頼朝が奥州征伐を行い、平泉で目の当たりにした諸寺院を模して、その犠牲者を弔う事を目的に建立された。この大事業に運慶が関わっていれば、その後の鎌倉幕府との密接な関係も了解されよう。 しかし
鎌倉三大寺院に挙げられる永福寺・鶴岡八幡宮寺・勝長寿院に運慶作品の記録が無いのは、どうも、よくわからない、勝長寿院は成朝作で了解されるが?。

その永福寺は火災など度重なる災害などで、室町時代後半に廃寺となったようだ。  「吾妻鑑」にも関連する記述はないようだ。
八幡宮寺も建久二年の大火で焼失したが、頼朝は早々に再建に取り掛かり建久四年には舞殿も新造され、再建なったようだ。  この時期に運慶は関東で活動しているはずなのだが・・・宮寺としての八幡宮はもう少し時代が下るのか?
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