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名門・安達氏

霜月騒動

霜月騒動の原因  (続)

事件の経過は、殆ど判っていない。 僅かに奈良・東大寺の学僧の残した文書の紙背(紙の再利用)文書中に僅かな手掛かりを残してくれた。「奥州入道は17日の巳の刻まで松ヶ枝に居り、その後塔の辻の屋敷に出かけた。」云々。・・・

泰盛は当時すでに家を嫡子宗景に譲っていたから、甘縄の本邸も宗景に与え、自分は松谷に隠居していたとも考えられる。霜月騒動の当日巳の刻まで松谷の別宅にいた泰盛は、なにやら不穏な情勢を感じ、午後に塔の辻の安達氏の館に出かけたと云う。 塔の辻とは小町大路と横大路との交わるあたり、将軍の御所や貞時の館の間近である。
松谷寺・佐助文庫跡石塔 (鎌倉・佐助)  この辺りを安達氏・松谷別荘と推測する(本宅・甘縄邸とは1㌔圏内)
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おそらく情勢に対処して、まだ幼い貞時の身柄を抑えようとしたようだが、ここで頼綱側の攻撃を受ける破目に陥った。  東大寺の史料では、貞時の館に参入した安達氏側が攻撃を受け、大きな損害をうけたことを示している。  以後、戦いは主として塔の辻の館付近で戦われ、やがて将軍御所まで火が掛かって焼失してしまった。
(鎌倉年代記)

申刻までには勝敗は決し、安達一族の他、有力御家人約五百人が戦死したと云う。泰盛の女婿であった金沢顕時も、この事件に連座したとして、上総国に流されている。 また、九州でも岩戸合戦で泰盛の子盛宗(morimune)や少弐景資(siyouni・kagesuke)も討たれた。(保暦間記)

泰盛派の構成について

「保暦間記」・「鎌倉年代記裏書」の他、前述した東大寺文書から、泰盛派として滅亡した武士達の構成を知ることが出来る。

①  安達氏の一門についていえば、前陸奥入道・泰盛をはじめとして、その嫡子・秋田城介宗景、泰盛の弟前美濃入道・長景、城太夫判官入道時景、城五郎左衛門入道重景、・・・。甥の城太郎左衛門尉宗景、三郎・次郎義宗、・・・。他に一族の城左衛門太郎、左衛次郎、城七朗兵衛尉らの名がみえる。   また安達氏の分流に当たる大曾根氏一族には前上総介・大曾根宗長、大曾根左衛門入道義泰の二人。

次に、泰盛の母の実家にあたる甲斐源氏小笠原氏の一族では、惣領の伴野出羽守長泰、伴野三郎、同彦次郎がおり、小笠原十郎、同四朗、武田小河原四朗、他に甲斐武田氏の出身の者。

宝治合戦後も三浦氏の家名を伝えた三浦芦名氏、は北条時輔(時宗・兄)の後を受けて伯耆守に任命された当時の有力者である。泰盛との関係は深ったようで、他の守護クラスの御家人と共に名を連ねている。その他、守護ではないが御家人武士として名のある一族が網羅されていることに注目したい。 (詳細・省略)

しかも「此外武蔵・上野御家人等自害者、不及注進」とあり、自害したり、討たれた者「五百人」昇ったと云う。
その事から泰盛派の勢力の大きさを覗う事とが出来よう。   曾祖父・盛長以来安達氏が守護の地位を世襲してきた上野国に於いて、多数の泰盛方の武士が加わった事は当然であろう。しかし、関東平野の中心部に位置する武蔵国は、かつて安達氏が統治したことのない国であり、この国の御家人多数が泰盛派に与したことは、彼の政治的基盤がどこにあったかを明確に示すものと言えよう。


これ以外に、泰盛派として事件に連座し、あるいは失脚し、あるいは流罪にされたりした者多数。  北条氏一門で金沢文庫の主人北条(金沢)顕時(akitoki)は、泰盛の娘婿にあたるため、流罪となっている。また、大江広元の子孫で当時、評定衆・引付衆の要職にあった長井時秀・宗秀父子も失脚した。

以上、霜月騒動をリポートしてきましたが、騒動そのものに関する史料が少ないことが挙げられるが、多くの研究者の努力によって、大体の推移が見えてきたように思います。又「吾妻鑑」なきあとの幕府政治史の一端を垣間見せてくれる一級資料「金沢文庫古文書」もまたその系統に連なる文書群と認められる。 金沢文庫の主人北条顕時が泰盛の娘婿として流罪にされた後、数年して平禅門の乱がおこり、内管領(utikanrei)平頼綱以下は成長した貞時によって討伐された。 かくして顕時はじめ流罪・失脚した者たちが政界に復帰した。しかし泰盛の指向した政治とは全く異なる、得宗貞時の専制政治への復帰にすぎなかった。  しかも今に残る関係文書群が旧泰盛派の系列に属する事実が、鎌倉後期の幕府政治史を研究する際注意する事であろう。   (安達泰盛と「金沢文庫古文書」を残した金沢・北条氏の親密な関係)

参考・・・・霜月騒動の歴史的背景や原因についての概略は「平成24年6月の鎌倉の武将・頼朝の御家人」・・カテゴリー(名門・安達氏)から検索してください。

平成二十四年壬辰・巳酉・壬戌
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霜月騒動

長いお休みをしました。今回は、予定を変更して更新します。

鎌倉時代の名門・安達氏と霜月騒動

以前に予定していました題材で興味深い鎌倉後期の大事件、霜月騒動について(詳細)をリポートします。
鎌倉時代の後半は社会史上の大きな転換期の始まりであり、モンゴル襲来から幕府の滅亡にいたるまでの多くの問題を含む時期であるが、この時代の前半を対象とした「吾妻鑑」のような有力な史書がなく、未だ十分な解明が成されていないのが現状である。
鎌倉・安達氏始祖、安達盛長邸跡・石塔(鎌倉・長谷)
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鎌倉後期の幕府政治史もまた数次にわたる紛争と内乱によって彩られているが、中でも、最も重要な事件が、弘安八年(1285)十一月の霜月騒動であることは、おそらく誰もが異論のないところであろう。   二度のモンゴル襲来を退けた幕府の前執権北条時宗の舅、そして当時の執権貞時の外祖父にあたり、幕府政界の最有力者として、ときめいていた安達泰盛以下の御家人五百余人が、幼君貞時の命によってにわかに討伐されたのがこの事件であり、十一月に起ったところから霜月騒動と呼ばれている。

この時、泰盛らを失脚・滅ぼした勢力は、当時得宗(tokusou)といわれた北条氏嫡流家に仕え、本来は御家人より一段低い身分と目されてきた御内人(miutibito)のグループであり、その代表者が時宗・貞時二代にわたって得宗家の家宰を勤めた「平頼綱」(taira・yorituna)であった。

この戦い以後、幕府政治はかつての御家人武士の代表者多数を加えての合議制を特色とする執権政治の段階に終止符を打ち、北条氏嫡流たる得宗が御内人を任用しつつ行う得宗専制政治の段階に移行したと考えられる。

霜月騒動の意義づけは、将軍専制政治---執権政治---得宗専制政治という三段階論によって、鎌倉幕府政治史把握の定説を著した、「佐藤進一」氏の「鎌倉幕府訴訟制度の研究」によって不動のものとなった。 そしてこの事件自体の解明については、「多賀宗隼」氏の「秋田城介・安達泰盛」論文があって、関係資料の乏しいこの事件に関する極めて零細な史料が研究されている。  その後に霜月騒動を主題とした論文が殆ど発表されていない事を持ってしても、貴重な一級論文と考えます。

安達泰盛の政治的立場

泰盛の政治的立場を御家人派の代表、執権政治の護持派と見ることは間違いのない所だが、前執権・北条時宗の死から霜月騒動に至るまでの約一年半、彼が幕府政治に大きな発言権を持っていたと考えられる時期の幕府の政策を細かく検討する必要があろう。

弘安七年(1284)幕府は新式目三八箇条を制定する。 前半一八箇条は、寺社領に関する項目から始まり、学問や武道の奨励、僧や女人の政治介入禁止、倹約実行、過分の進物や造作の禁止、臨時公事(年貢)の停止等、為政者の心得を、 後半二〇箇条は、幕府のとるべき施策を挙げており、贅沢品の禁止や、武士以外の市中での騎馬禁止するなど、生活細部にわたる統制内容が定められた。 (新式目)

この中で、将軍家への節度正しいあり方の要求と御家人の保護政策、さらに公正な態度の表現をみとめられ、それこそ泰盛その人の政策の反映であると断ぜられた。これらは正しい指摘だと思われ、さらに検討されながら、泰盛の政治的立場が明らかになっていくと思われる。

霜月騒動の原因

事件の直接の原因は、泰盛の子・宗景が曾祖父・安達景盛(kagemori)は実は頼朝の落胤であるからと称して源氏に改姓してしまった、その件を平頼綱(御内人)に付け込まれ、安達氏が謀反を企んでいると讒言(zangen)されたためだと記録に残されている。   (保暦間記)

源家の重宝、名剣・髭切丸(higekirimaru)の伝説では、安達泰盛の手元にその名剣があった事による誤解が、頼綱に付け込まれたのかもしれない。いずれにしても安達氏が源氏将軍家と深い関係を持ち、親しみを感じていたことは明らかであり、伝えられるような事実も有りえた事と思われる。

だが、直接の原因は何であってもよい。  すでに泰盛ら御家人派と頼綱ら御内人派の対立は極まっていた、何らかのきっかけをとらえた頼綱は北条貞時をいただいてにわかに泰盛らを総攻撃するクーデターを敢行したのであろう。  (執権・貞時十五歳)

(続)

平成二十四年壬辰・巳酉・庚申

鎌倉の武将・頼朝の御家人(8B)

安達泰盛と霜月騒動?

安達泰盛が政治の表舞台にあった時期、将軍は宗尊親王(munetaka・sinnnou)惟康親王(koreyasu・sinnnou)であった。 宗尊親王は、幕府行事の御行始や二所詣に供奉する御家人を自ら選定し、公文書の将軍家下知状には「将軍家の仰せによりて下知」の文言を使用するなど、将軍権威の宣揚に努めた。
この時代に幕府が置かれた「若宮大路幕府跡」の石塔(鎌倉・雪の下)
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幕府跡地・裏路道の風景(鎌倉・雪の下)

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将軍と御家人の関係が主従関係にあることを明確に意識していた。  他方、執権・連署は、将軍家発給の下知状や御教書に将軍の仰せを受けて実務を執行する職で、統治権を委任されていた。
執権は将軍になることはできず、将軍が幕府内で独自の勢力を持ち始めると、執権側は三浦氏一族の排除や宗尊親王を理由をつけて追放してしまった。
その後、将軍惟康親王の時代、連署・北条義政が出家して以降の下文は時宗のみが署判している。  将軍家・政所の運営は得宗・時宗の主導に移っていた。
この頃の泰盛は、蒙古襲来を契機に御恩奉行に着いていた。  ・・将軍の命をうけ、下文を発給させる立場にあった。    この手続きは、時宗が肥後国・安富荘・地頭職を拝領するにあたって、将軍家下文を泰盛に伝え、泰盛の命令で執行されたことにうかがえ、泰盛は安堵について執権を媒介することなく執行していた。
御恩奉行・泰盛と御家人の対応を具体的に描いたものに「蒙古襲来絵詞」という、有名な絵巻一巻(宮内庁蔵)が残され、竹崎季長(takesaki・tosinaga)の直訴した、逸話は、安達泰盛が御家人の言い分を丁寧に聞き分け、公平な恩賞を与える姿は、幕府の基盤となる御家人を維持する事を眼目にする方針が伝わってくる。
蒙古襲来と西国支配の強化。・・・・・・蒙古襲来は異国との合戦であり、戦後に軍事動員と鎮西の警備体制のため新たな政策がとられた。  それまでは、守護・地頭御家人との主従関係を軸に、本所一円地の住人は対象外であった。(御家人以外の人々)しかし対外的危機に対応するために本所一円地住人を軍役の賦課対象に広げた。
異国防衛の最前線となる九州では、九カ国を二・三ヵ国ずつ組み合わせ、春夏秋冬三カ月ずつ蒙古警固の番役につかせる体制を整えた。
さらに、防衛体制を強化するため、西国守護の一斉交代を行い、豊前は実時・肥後は泰盛・筑後は義政に代わった。      
建治二年には高麗への出兵計画が立てられたが、結局実現しなかった。幕府は、侵攻するよりも、再度の襲来に備える防衛体制の整備を重視していた。
一方、国内では悪党の活動が目立ちはじめ、幕府の介入が不十分な本所一円地での争いを十分に抑えられないなど、体制的矛盾が顕在化していた。
その様ななかで、得宗家は膨大な所領をもち、管理組織の得宗家公文所を整備し、被官を公文所の成員や守護代・代官に任用した。   公文所は年貢の管理や得宗領の訴訟を独自に審理し、得宗家の家政を管掌した。  筆頭の執事は「内管領」と呼ばれ、執権が兼務した侍所の所司を務めた。  平頼綱(taira・yorituna)のほか数人の、旧来からの家臣や奉行人からなり、得宗邸での寄合に参加して政治を左右した。
一方、諸国の代官などに任用されたのは、地方御家人や北条氏の御家人排斥で零細化した庶流の人々が多かった。   文永の役では、御家人・動員の確認を得宗の代官が行うなど、目付の役割を果たした。
泰盛に対抗したのは平頼綱で。 伊豆の出身で北条家の古くからの家臣の出自だった。    時頼代の寄合衆の盛時の子で、侍所・書司を継承している。
蒙古襲来の前から、得宗家の執事になっていたようだ、又時宗・乳母の夫と思われる。
僧・日蓮が北条氏を批判し異国侵略の危険性を訴えると、日蓮を佐渡へ流罪にした。  しかし三年後には、鎌倉に戻っている。
泰盛は、得宗被官やこれに近い人物とも昵懇な関係にあった。 日蓮上人の、    「龍口法難」の際に泰盛に連絡して日蓮を救った人物が大学三郎である。
大学三郎は、請文を清書する役にも予定される能筆の人物で、泰盛の信頼も相当厚かったようだ。もとは北条・三浦・島津等に仕えていたようで、比企氏と所縁の一族ではあるまいか。
弘安七年(1284)北条時宗死亡。 三ヶ月間空位となっていた執権の座に嫡子で十四歳の北条貞時(houjixyou・sadatoki)がついた。
六波羅北方・北条時村(houjixyou・tokimura)は、急ぎ鎌倉へ向かったが三河で追い返された。又六波羅南方北条時国(hoijixyou・tokikuni)は、鎌倉に召喚されたが鎌倉入りを許されず、佐渡に配流となった。
こうした複雑な事情の中で、貞時・執権就任を主導したのは、外祖父で有力御家人の安達泰盛といわれる。
時宗が没した弘安七年(1284)得宗貞時のもとで、幕府は新法令を矢継ぎ早に発布する。  これらの法令発布の責任者は、当然泰盛と考えられる。
将軍権力の再生をめざす泰盛の改革は、わずか一年半で終わってしまうが、多岐にわたる。  将軍権威の発揚をはかり、引付などの吏員には職務の厳正と清廉を求めた。本所一円地住人(honnsixyo・itiennti・jixyuuninn)(御家人以外)の御家人化をすすめ、裁判の迅速化と安堵の厳正な実行をはかり、得宗には実務運営上の倫理を求め、御内人(miutibito)には礼節を求めて幕府公務への介入を抑えようとした。
しかし、貞時が相模守になって公務の前面に出てくる段階になると、法令が残されていない。 得宗家・側近に利害が直接に及んだようだ。
霜月騒動では泰盛一族が滅んだだけでなく、罹災者は広くに及んだ。 有力御家人
には泰盛への共感があり、 弘安改革の利害が幕府内で方針の違いを明らかにしたからに違いない。
弘安八年の(1285)貞時、相模守補任以降、新法令が見えないのは奇妙であり、有り得ない!  何等かの情報操作を感じさせる。
泰盛の改革が直接、利害に及んだようだ、・・・・・・新式目に見える将軍と得宗の関係を巡っては(1)得宗は将軍権力の代行者、(2)将軍を幕府の中心に据えての改革、の二つ見解がある。  前者は貞時・平頼綱・・・後者は泰盛という構図である。
得宗邸で行われる寄合の中枢にいた泰盛にとって、「公」はあくまでも将軍を介してのもの、寄合は幕府の公務一般を「公」につなげる仕組みと考えていたのだろう、得宗主催の寄合を「公」と認知したであろう頼綱らにとっては、受け入れがたい事であったに違いない。
霜月騒動で犠牲になった人々を泰盛に共感をもった人々と解すると、霜月騒動の起因と犠牲の多さが見えてくる。

騒動自体の詳細は又の機会に、関係者の詳細も又の機会に。

頼朝の御家人はひとまず終了とします、霜月騒動に関しても興味深深ですが次の機会にリポートの予定です。

平成二十四年壬辰・丁未・甲寅

名門「秋田城介」の世襲

わずか二十歳で執権になった北条時頼は、迅速に反対勢力を掃討し、権力を確立していった。天才的な権力政治家と云ってよいだろう。・・・しかしそのブレーンとして彼を助けたのは直臣である得宗被官(御内人)と考えられるが、この時点での御内人にはそこまでの実力は無かったと考える。・・・・・

時頼の父時氏は、時頼四歳の時に亡くなった。時頼の成長には母の影響が大きいと思われる。  母の松下禅尼(matusita・zenni)は賢婦人として知られる、父は城景盛(安達)であり、時頼を支えた有力勢力の一つとして「城氏」を挙げたい。

頼朝以来、鎌倉幕府の基盤となったのは、豪族的領主と呼ばれる東国の大豪族だとされ、広大な所領と、それを基盤とする軍事組織で特徴づけられてきた。・・・頼家の時代に宿老十三名の御家人を見ても、この条件に当てはまるのは、三浦義澄・和田義盛くらいであって、安達盛長・比企能員・さらに北条時政までも、大豪族とは思われず、頼朝の側近として、選ばれている。城氏の祖安達盛長も、その典型であろう。

安達景盛(adati・kagemori)(盛長・嫡子)が実朝に重要されていたことを示すのは、実朝の推薦で景盛が秋田城介(akita・jiyousuke)に任命されたことである。  秋田城介は蝦夷経営の為、秋田城に常駐した出羽介(dewanosuke)であり、久しく空職になっていた。名誉職であって、実質的な意味は無いが景盛は喜んだと云う。(吾妻鑑)

秋田城介を安達氏に与えることにより、北条氏に匹敵する名門としての格式を認めたのであろう。その後、安達氏は秋田城介を世襲し、秋田城の由緒で城氏を称する。>(景盛→義景→泰盛)

安達氏は元々頼朝の側近であったが、頼朝の死後は政子との親密な関係を通じて北条氏に接近し、そのもっとも信頼できる盟友となり、婚姻関係をも結び、北条氏の外家の地位を占めるにいたった。  鎌倉幕府の歴史は北条氏が権力を掌握する過程であるが、城氏は常に北条氏と提携し、その制覇を助けてきた。  常に勝者の側に立ち、巧妙で、幸運な生き方を続けてきた。

得宗専制政治の成立、すなわち執権政治から得宗専制政治への移行については、北条貞時(houjixyou・sadatoki)が執権に成ってまもなく起った霜月騒動(simotukisoudou)が専制政治に移行する原因となる重大な事件と思われる。

一般御家人勢力を代表する城泰盛(adati・yasumori)と、得宗被官勢力を代表する平頼綱(taira・yorituna)との対立が、頼綱の勝利に終わり、ここに得宗専制政治が確立したとされる。

城氏は北条氏の権勢の強化を常に助けてきたのであり、北条氏に表面的には協力しつつも、常に対立的要素を内包していた三浦氏とは、対照的な立場に有ったと言える。城氏、とくに泰盛は得宗被官と対立したが、得宗専制政治の反対者ではない。