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得宗家

「関東往還記」に見る叡尊

「Ⅳ」

叡尊の鎌倉滞在中、叡尊の弟子たちが慈善事業を展開した鎌倉の慈善救債施設は、浜悲田(hama・hiden)と大仏悲田の二か所の悲田院、獄舎、疥癩宿(kairaisiyuku)(ハンセン氏病患者宿)等である。

社会体制の外側に脱落・排除・疎外された非人身分(hininmibun)とされ、鎌倉に住む都市下層民も非人とみなされた人々が収容の対象となった様だ。

これらの施設のうち、悲田院については、「関東往還記」に記事が見出せる。叡尊弟子の忍性(当時極楽寺・住持?)が浜非田に向い、病人・孤児に食を与え、十善戒を授けている。
極楽寺・山門(北条氏家紋・三つ鱗幕)(鎌倉・極楽寺)
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浜非田の場所は鶴岡八幡宮の一の鳥居・和田塚辺りの前浜(由比ヶ浜)にあったと推定されている。その他に大仏悲田は大仏谷に確認さている。それぞれに無常堂が確認されて、その関連施設と考えられている。

後年の文永十一年(1274)の飢饉に際して、忍性(当時極楽寺・長老?)は大仏悲田のある大仏谷に飢人を集め、二カ月近くにわたり粥などを施している。この時の救済施設も大仏悲田であったと考えられる。その後忍性は大仏別当にも任じられている。

和田塚を含む鎌倉前浜(由比ヶ浜~稲村ヶ崎)は、のち極楽寺の支配下に置かれ、都市鎌倉の集団墓地になっていた。浜非田の孤児・病者はその葬送に従事していたと思われる。

さて、大分「叡尊」さんに入れ込んでリポートが長くなりましたが、「叡尊」鎌倉下向の弘長二年(1262)の鎌倉は一体どの様な様子だったのか鎌倉年表から想像します。

*康元元年(1256)北条時頼が一門の長時に執権を譲る。 これは、嫡子・正寿丸(時宗)が幼少の為の中継ぎとして、長時に執権を譲り、侍所の別当・鎌倉の邸宅を預ける。(長時は、時頼の妻の兄)
時頼は最明寺(saimiyouji)(現・明月院)で蘭渓道隆を戒師として出家する。(吾妻鑑)

*正嘉元年(1257)鎌倉で大地震が起る。 神社仏閣や人家が大きな被害を受け、崖が崩れ、地割れが至る所に発生、余震が頻発した。幕府は僧侶や陰陽師に祈祷を命じたが、余震は収まらず天地災変祭を行うも、この年の秋に大洪水が鎌倉を襲い、家屋が流失して溺使者が出るなど、自然災害が頻発した。(吾妻鑑)

*文応元年(1260)日蓮が「立正安国論」を出家中の北条時頼に提出する。この日蓮の献策は幕府に受け入れられず、松葉ヶ谷の草庵を襲撃された。(法難)さらに伊豆国に配流された。 (日蓮上人註画讃)

*弘長元年(1261)北条時宗が堀内殿(安達泰盛・妹)と結婚。前執権北条時頼は、子息の序列を「太郎時宗ー四朗宗政ー三郎時輔ー七朗宗頼」と定めており、時宗(母は北条重時の娘)は時頼の後継者として、異母兄の時輔より上位に位置づけられる。   (吾妻鑑)

*弘長二年(1262)いよいよ叡尊が鎌倉に到着。  西大寺流律宗の叡尊は、金沢実時(北条)の要請で鎌倉に下向し、西御門の天野景村(amano・kagemura)の宿舎に入る。実時は叡尊と面会して、在家の身で弟子となることと叡尊の称名寺滞在を申し出る。叡尊は称名寺滞在を固辞して、新清涼寺釈迦堂を居所とする。叡尊は最明寺を訪れ時頼と対面。

前記しました様に叡尊は八カ月余りの鎌倉滞在中、幕府始め各層の老若男女に面会し、帰依を得ています。また対立する将軍勢力と得宗勢力との間の緩衝地の役割を果たしたのではないかと考えています。何れにしましてもこの時代の幕府に大きな影響と課題を残した西大寺長老・思円房叡尊は奈良西大寺に帰任した。   終

平成二十五年癸巳・庚申・壬午
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北条時宗登場

弘長元年(1261) 北条時頼嫡子・時宗が堀内殿(安達義景の娘)と結婚する。  時宗は正嘉元年(1257)二月、将軍・宗尊親王の御所で元服している。   この時点で北条時頼は、子息の序列を「太郎時宗・・四朗宗政・・三郎時輔・・七朗宗頼」と定めており、時宗(母は北条重時の娘)は、時頼の後継者として、異母兄の時輔より上位に位置付けられた.。 尚妻、堀内殿の兄は、時頼政権を支えた安達泰盛(adati・yasumori)。(吾妻鑑)

北条時輔(1248~1272)時宗の異母兄。  文永元年(1264)から六波羅探題南方を勤めたが、文永九年(1272)の二月騒動で、北条義宗によって殺害された。(前執権・長時の子)  (時宗政権側との政策の相違が、対立を招いたのでは?)

文永三年(1266)宗尊親王、将軍を廃され、京都に送還される。  宗尊の妻・近衛宰子の密通事件を受け、時宗邸で、北条時宗、北条政村、金沢実時、安達泰盛による「神秘の御沙汰」が行われる。  結果鎌倉で騒動起きる、名越教時(noritoki)は兵数十騎を率いて将軍御所に駆けつけ、時宗に制御される。  継いで宗尊の子惟康親王(koreyasu・sinnou)が新将軍に任官した。  (吾妻鑑)

名越教時(1235~1272)北条朝時の子。  宗尊親王と親しい関係にあり、反得宗勢力と目され、文永九年の二月騒動で、兄の時章と共に殺害された。この騒動は京都の北条時輔にまで影響を及ぼし、一連の事件として処理されたようだ。   (関東評定衆伝)

文永五年(1268)北条時宗が第八代執権に、北条政村が連署となる。 この年、初めに高麗の使節が大宰府に到着し、蒙古の国書を届けた。この国書が鎌倉の幕府にもたらされる。  北条時頼の死後、嫡男の時宗は14歳であったため、暫定的な人事として、長老の政村が執権、時宗が連署となっていたが、この異国襲来に対する危機管理の為、十八歳になった時宗と政村を交代する人事刷新を行った。
(将軍執権次第)・・・因みに「吾妻鑑」は文永三年の記事で終わっている。

文永十一年(1274)幕府は、中国・四国の守護に蒙古軍との戦闘への動員を命じた。  元・高麗連合軍は、すでに博多湾に上陸していた。(文永の役)  幕府は非御家人にも動員を命じたが、上陸した元軍は、集団戦法で幕府軍を翻弄する。対する幕府軍はなすすべもなく、博多湾を放棄して撤退するが、夜間に入り何故か元軍も突然撤退した。  (八幡愚童訓・hatimangudoukun)

建治元年(1275)元使節・杜世忠他四人が藤沢龍ノ口で処刑された。文永の役の後、元は使節を派遣し、日本の服族を求めたが、その使節を殺害したことで、再度の元軍襲来は避けられなくなった。 時宗は、博多湾の沿岸防衛の為石築地(isituiji)建造を九州の御家人に命じた。 (鎌倉年代記)     (高さ3メートル、東西20キロにおよんだ)

弘安四年(1281)幕府は蒙古襲来に備えて、寺社や公家の荘園の荘官を軍事動員する許可を朝廷に申請した。  しかし、この時点で蒙古軍はすでに博多に来襲した。 ここで神風(暴風雨)のため、元軍は甚大な被害を受け撤退した。(弘安の役)

弘安五年(1282)蒙古襲来の戦没者供養の為、執権・時宗が、鎌倉山之内に円覚寺を建立する。開山は、先に来日していた無学祖元(mugaku・sogen)。 蘭渓道隆の死後、執権時宗は、高僧招聘の使節を中国に派遣し、祖元の来日となった。 時宗は、弟子の礼をもって祖元を迎え、その後絶えず参禅した。  (寺領として、尾張国・富田荘を寄進し手厚い保護を与えた)  (円覚寺文書)
円覚寺・重文、三解脱門 (鎌倉・山ノ内)  北条時宗建立  JR北鎌倉駅
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平成二十四年壬辰・甲辰・丙戌

得宗家・専制政治

北条泰時の嫡流は早逝したが、跡を継いだ孫の経時(tunetoki)は十九歳で得宗家・執権となった。寛元二年(1244)経時は、将軍九条頼経(kujiyou・yoritune)を退け、五代将軍に、その子頼嗣(yoritugu)を将軍とした。 ところが、当の本人が病に倒れてしまったのである。(吾妻鑑)

寛元四年(1246)北条経時が弟時頼に執権を譲る。  執権経時は重病となっていたが、経時邸で、重臣・数名による「神秘の御沙汰」が行われる。  (北条氏嫡流の当主である得宗の私邸で開かれた秘密会議)
嫡流の子息が幼少であるため(二人の息子を出家させた)、弟の時頼に執権を譲ることが決定された。(すでに時頼の影響力が増大していたようだ?)  (吾妻鑑)

北条経時の執権就任期間は、僅か四年であった。北条時頼の執権就任は経時の病による急なものであり、必ずしも順当ではなかった。 このような事情により、後の時頼の政治に大きな影響を与えることになる。
国宝・建長寺・鐘楼(鎌倉・山ノ内) 北条時頼寄進・  撰文・蘭渓道隆  鋳物師・物部重光
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新執権北条時頼によって、幕府政治は出発したが鎌倉中は不穏な動きに包まれた。市中に甲冑を着けた武士が満ち溢れ、御家人達が多く馳せ参じ、緊迫した状況だったようだ。  ことの発端は時頼の政治に反発した北条一門の、名越光時が前将軍・九条頼嗣と共謀し、時頼を討とうと計画したが発覚してしまっ<た。(宮騒動) (吾妻鑑)

「神秘の御沙汰」と云う密室会議で時頼の執権就任が決定したことも、名越一門に大きな反発が生じたのであろう。また、前将軍の九条頼経が職を退いた後も鎌倉に留まっていたことが、この騒動を生みだした原因で有ったと思われる。

この騒動で処分された者を見ると、まず名越光時は伊豆・江間に配流の上所領没収(越後)の処分。さらに九条頼経の側近・藤原定員は出家して安達義景に預けられた又、後藤基綱、狩野為佐、上総秀胤、三善康持等は評定衆から外れた。  (吾妻鑑)
建長寺・三解脱門、重文(鎌倉・山ノ内)・・・創建・北条時頼
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この騒動の直後から、時頼亭で寄合が頻繁に行われた。 寄合に集まったのは執権の他、北条政村、金沢実時、安達義景、の3名に三浦泰村、北条氏被官・諏訪盛重、尾藤景氏、平盛時が参加している。 寄合の内容は、前将軍頼経の京都送還の決定であろう。

寛元四年(1246)鎌倉を追われた前将軍九条頼経を京都まで護送したのは、三浦光村であった。  将軍六歳の時、近習に選ばれた光村は、以来二十年間、頼経に仕えてきたのである。  三浦氏の惣領は兄・泰村が継いでいるが、弟達もそれぞれ独立した御家人として活動している。外様御家人の最大勢力である。(吾妻鑑)

その様な折に安達景盛が高野山から鎌倉に入った。安達氏と三浦氏の対立が激しくなってきたのも安達氏側に三浦氏に対する相当な焦りが有ったようで、景盛の帰着となったのであろう。  景盛は連日、時頼亭を訪ねて協議している。
(時頼にとって景盛は外祖父にあたる)

安達氏・甘縄邸跡(現甘縄神明社)鎌倉・長谷
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しかし、「吾妻鑑」は、安達氏と三浦氏の対立が深まる中で、和平に奔走する時頼の姿勢を伝える。  平左衛門入道盛阿(得宗家・執事)を使者に立て、三浦泰村に対し討伐の意志の無いことを伝え遣わした。時頼は最後まで和平の道を探していたものと見られる。 これに対し泰村も喜んで返事をしている、泰村も同様に和平の道を探っていたのであろう。 (吾妻鑑)

この時頼・泰村の行動に安達一族は敏感に反応し、猛烈な反発をした、そうした外祖父の反発に時頼も三浦攻めを決定せざるを得なかった。  金沢実時に幕府を警護させ、弟時定を大手の将軍とした。 その結果三浦側は劣勢になり、頼朝・法華堂に集結した。 集まった三浦一族は五百人を超え、三浦光村が永福寺に陣を置いて抗戦したが及ばず、敗北した泰村、光村はこの法華堂で自害する。 (宝治合戦) (吾妻鑑)

「吾妻鑑」を読む限り、事件自体は三浦氏の勢力に恐れを抱く、安達氏による攻撃であり、決して北条市対三浦氏では無かったと思われる。  執権時頼は安達・三浦氏の間に割って入り、調整を試みたのでしょう。

北条経時の急死によって、執権となった時頼にとって寛元の政変と宝治合戦は、極めて苦い経験であったろう。

平成二十四年壬辰・甲辰・壬午

得宗家・専制政治時代

泰時の後に来る北条時頼(孫)は強権政治家であり、得宗専制政治は時頼の時代に始まったと思われる。 鎌倉幕府・北条氏のの政治は、独裁・専制の連続であり、それが幕府政治の体質でした。しかし、泰時の時代は、鎌倉殿の独裁から、得宗専制へ移行する過度期に生まれた例外のように考えられる。

泰時の子息は早逝し、跡を継いだ孫の経時(tunetoki)、は十九歳で執権となった。寛元二年(1244)北条経時は、将軍九条頼経を退け、その子頼嗣(yoritugu)を将軍とした。ところが当の経時が病気がちで、ついに執権を弟時頼に譲り、翌年逝去した。

北条時頼は、経時の二人の息子を何れも出家させてしまい、執権の道を閉ざした。  北条一門の家督の地位は経時の系統から時頼の系統に移ったのである。(得宗家)

強権的な時頼の政治に反発した、北条一門の名越光時(nagoe・mitutoki)が前将軍・九条頼経と共謀し、時頼を討とうと計画したが発覚してしまった。  評定衆の千葉秀胤(tiba・hidetane)らも連座したようだ。そしてこの事件を宮騒動という。

追われた前将軍九条頼経を京都まで護送した者に、三浦光村がいる。 貞応二年(1223)頼経が六歳の時、近習に選ばれた光村は、それ以来二十年の間、頼経に親しんできたのである。

三浦氏は相模国三浦群を開発し、衣笠城を本拠とし、「三浦介」(miuranosuke)として在庁官人を世襲してきた雄族である。  前九年の役の戦功として三浦軍を与えられて以来、源氏との関係は数代にわたる緊密なものであり、頼朝一代だけの関係にすぎない北条氏をはるかにしのぎ、豪族としての規模の点でも、東国武士の中でもトップクラスであった。

三浦が北条の下風に立つようになった重要な契機は、北条時政が源実朝を鎌倉殿に擁立し、自ら執権となって以降であろう。(時政の執権就任には疑問が残るが)

一連の宮騒動で名越・北条氏と三浦氏が連携したかについては、前後のいきさつから見て関与は否定できないだろう。  当時三浦氏の家長は泰村で穏健派であり、弟の光村は強硬派であった。

宝治元年(1247)将軍・頼経の跡を継いだ、九条頼嗣の妻が没した。(執権・時頼の妹)    こうした最中に、三浦氏に不穏な動きありとのうわさが広まったが、得宗・時頼と穏健派の泰村の間では治まっていたが、時頼の外祖父・城景盛(安達)の進言によって、三浦を討つべく、子の義景、孫の泰盛に三浦泰村館を攻撃するよう命じた。三浦一族最後の地となった頼朝・法華堂付近での自殺した者五百余人に及んだという。(宝治合戦)

執権に就任して一年余りの間に、時頼は強力な反対勢力を武力によって制圧し、体制を強化した。