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平氏

平清盛と「福原幕府」

伝統的な貴族たちと能力を競いあい、院政権力とも鎬を削った清盛は「武家政権」という一つの解答に到達する。

源頼朝が多くを学んだ、清盛の政治。初の「武士」による武人政権であり、頼朝の鎌倉幕府には良き手本であったろう。・・・その清盛について少しリポートしておきます。

先に六波羅に拠点を置いた時点での平家はまだ重要な会議や行事には参加できていない。 伝統や教養が不足している為平家一門には少し荷が重かったようだ。そこで親平家の貴族集団を形成し、彼らを操作する事で政治的影響力を確保した。  公家をコントロールする方法を工夫し、実権を行使するまでで、まだ天皇権力に拘束されている状況であった。

1179(治承三)年福原の清盛は多くの軍兵を率いて入京し、クーデターを決行した。・・・後白河上皇を幽閉して院政を停止し。関白・藤原基房(fujihara・motofusa)以下多くの高官を解任した。替わりに平家と良好な関係をもつ者を登用している。全国(六十六ヵ国)の半数にあたる三十二ヵ国が平家と与党の知行国となった。 (旧知行国は十七ヵ国)

翌年には娘・建礼門院徳子が生んだ安徳天皇が即位し、福原への遷都が行われた。「福原幕府」の成立である、清盛がここで行ったことは、全国半数の知行国を獲得したこと。国の役所・国衙(kokuga)を掌握する事は、国衙への参画を進めていた在地の有力武士達を統制する事でもある。知行国制度を媒介にして、武士階級の結集を試みたのだ。

この平家の行動を見た諸国の武士達は、貴重な「学び」の機会を得た。  既存の政権に不満があれば、武力を整えて立ち上がればよい。平家一門の行動を見聞して、学習し、模倣する。・・・・・それが源平争乱の根底かもしれない。

朝廷に頼らなくても、権益は維持できる。長きにわたる天皇や貴族の支配から、自立しよう。武士達の独立戦争が始まったのだ。・・・・・全国的な治承・寿永の内乱の主役は、在地領主(武士達)である。

彼等は天皇と朝廷の支配に、多大なストレスを感じていた。重い税を課せられ、大番役(oobanyaku)(京都警備)をこなし(費用は在地領主負担)、在地の警戒も当然自前だ。

クーデターから半年後、以仁王(motihitoou)と源頼政(yorimasa)が挙兵したが失敗した。間もなく頼朝が挙兵し、全国は瞬く間に内乱状態になる。   各地の武士が蜂起、武力の行使に踏み切っている。しかし彼等は天皇の支持など受けてはいない。源氏の御曹司を盛りたてているわけでもない。源平の対立とは全く関係を持たない。また、よく言われるように以仁王の挙兵ではなさそうだ。この内乱は清盛のクーデターが発端かもしれない。

兵を挙げた在地領主達は、国衙の占領を目的とし、政治・経済・文化の中心である国衙を掌握し、地域における支配秩序を形成しようとする。これが「源平争乱」の具体的な様相であろう。源氏と平氏の戦いに限定されないと云うことである。
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幕府の成立(福原幕府~鎌倉幕府)

自立する王権として将軍を捉える。
武家はもはや天皇の下位に甘んじていない。西に天皇が、東に将軍が並び立つ。・・・・・・・幕府と朝廷とは形式の上では対等であり、実質的には、幕府がより上位の権力として振舞っていたと考えられる。
将軍は軍事力や警察権力を行使するのだが、国全体の政治も行うし、モンゴル来襲時に見られるように外交もつかさどる。禅宗の導入にみられるように、祭祀の主体ともなる。・・・この視点に立つと、天皇権力に拘束されている六波羅幕府は、鎌倉幕府とは性格を異にする。
治承三年(1179)福原・平清盛は多くの軍兵を率いて入京し、クーデターを決行した。・・・・後白河上皇を幽閉し、院政を停止するにいたり、 関白の藤原基房以下多くの高官を解任し、日本全国の半数にあたる三十二ヵ国が平家と与党の知行国となった。・・・翌年には清盛の娘・建礼門院徳子の産んだ安徳天皇が即位し、福原への遷都が強行された。
後白河院政を否定したクーデターの決行こそが「自立」への一歩と認めたい。
清盛が福原で行ったことは、日本の半数の知行国を獲得し、国の役所である国衙を掌握する事は、国衙への参画を進めていた在地の有力武士達を統制する事でもあった。・・清盛は朝廷の知行国制度を媒介にして、武士階級の結集を試みたのである、そして自立へ踏み出したのである。
清盛のクーデターから半年後、以仁王・源頼政が挙兵する。・・・・・間もなく頼朝が兵をあげ、全国は瞬く間に内乱状態になる。
兵を挙げた在地領主たちは、国衙の占拠を目的とする。政治・経済・文化の中心である国衙を掌握し、地域における支配秩序を形成しようとする。・・各地の小規模な軍事勢力は、優勝劣敗の競争を続けて行く「源平の争乱」の具体的な様相であり、源平の戦に限定されない。
京都からはるか彼方の新しい土地で、新しい主従関係が構築される。生命すら差し出す在地領主たちを従えた鎌倉殿は、もはや従来の武力権門の枠にとどまっていなかった。
他に依拠することなく、自力で存続する権力。それを王権と定義するが、この意味で「武」を束ねた鎌倉殿こそは、新しい王と呼ぶにふさわしい。
東国に産声を上げた王は天皇の統制をはねのけ、自らの意思で独自の成長を遂げていく、権門体制の崩壊だ。自立への志向、権門体制からの逸脱、の共通点に於いて、福原幕府は鎌倉幕府につながっていく。