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木曽義仲

木曾義高と大姫

*義高逐電

かくて頼朝はいつ義高の処置について考えたのであろうか。・・・義仲討伐の後、一の谷の決戦があり、後白河法皇とのかけひきやら、論功行賞に寸暇のなかったこともあるだろう。 そのために義高処刑が延引したと考えてもいいだろうが、頼朝に迫ってその決断をさせたのは、北条時政だったと思われる。
栗船山・常楽禅寺参道(第三代執権・北条泰時菩提寺)  寺の裏手に義高の墓所がある
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天下統一の為に頼朝を担ぎ上げた時政は、頼朝という貴種はそのままにして、その幹に枝葉の茂るのを好まなかったからだ。一方政子は父時政の陰険な殺しのテクニックを知っている。そして義高の処刑がまぬがれぬと知り、義高の脱出の準備を始めた。

「吾妻鑑」の記述から義高脱出の様子を見てみると、「女房の姿を仮り、姫君の御方の女房、これを囲みて楼内を出でをはんぬ」と記してあるから、義高は大姫と見まごうように女装させられたのでしょう。 もちろん警護の侍たちの目を偽るためである。 それにしても深夜の外出は不審の目が注がれる、義高の輿を囲む女房たちは緊張したであろうが、彼女たちの後ろ盾は、何といっても政子である。  政子の命による八幡宮への大姫朝詣りということにでもしたのであろう。

門を出た一行は、かねての打ち合わせどうり御所を遠ざかると、馬の用意が出来ていた、木曾から義高の供をして鎌倉へ来ていた若者が用意したのか、鎌倉街道を一路北へと馬を飛ばした。

一応、義高の脱出は成功したようだ、御所内には義高の身代わりとして、木曾以来忠実に奉公してきた海野小太郎幸氏が、食事はもちろん義高の逃亡を助けた女房たちが、普段どうり振る舞った。  万一を考え大姫すら部屋には入れず、用心した、しかし努力にも限界があり、やがて警護の侍に怪しまれる事となり、事態は露見するところとなった。

頼朝は烈火のごとく怒り、義高の行方を追補方に命じ、軍兵が諸街道へ散った。  大姫の心中は張り裂けるばかり、無事に逃げられることを祈るばかりでした。 ひたすら神仏に祈っては涙の顔を母の胸に埋めた。 無理もないまだ七歳の少女なのである。   (続)

平成二十六年甲午・壬申・壬辰
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木曾義高と大姫

*義高の将来(背後にあるもの)・・・

都から平氏一門を駆逐した義仲を待っていたのは、頼朝の義仲追討軍であった。  寿永三年、宇治川の合戦で敗れ、続いて近江の粟津で壮絶な討死を遂げた。

人質の常として直ちに処刑されても当然であったが、・・・・つまり一身上に何らかの変化があってしかるべきところなのである。 しかし、何事もなく平穏に過ぎたのは、おそらく政子のとりなしもあったろうし、頼朝も義高に対し害意のないことを、折に触れて示していたからであると思われます。
大船・常楽寺参道(幕府三代執権・北条泰時菩提寺)・・・この寺院の裏山に義高は眠る。
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それが事件後二ヵ月を経過した頃から、不穏な風評が立ち始めた。頼朝が将来の為に義高の殺害を考えているというのである。  このような噂は、しばしば奥に仕える女たちから広がるものであり、政子の耳にも届いていたと考えられる。

この間、当の頼朝は何を考えていたのだろうか。  やはり頼朝は義高を人質として処刑する意思はなかったのではないかと考える。  彼の周囲を見回すとき、例えば三浦、北条、土肥、畠山氏その他、頼朝と共に天下を取るという大事業を成し遂げた坂東の武士たちは、いずれも相互に濃い血のつながりがあり、彼らの団結を、頼朝はどんなに羨望のまなざしで観ていたのでしょうか。  しかるに頼朝の周囲には頼るべき親族が極めて少ない。  範頼や義経、全成(zenjiyou)にしても一介の浮浪人に過ぎず、ほとんど裸同然で身を寄せてきた者たちだ。

頼朝が他の兄弟たちに冷酷だったことはよく言われる事だが。・・・・・他の御家人以上に遇することは、それだけですでに贔屓になるのである。 しかるに範頼にしても、義経にしても兄弟であることから当然甘えが出てしまい、坂東武士たちが理想とする武家政治の根幹を危うくした為に粛清されたと考えられています。

しかし、義高の娘婿という条件は、当初から頼朝の子と云うに等しい。 もしこれに頼るに足る者ならば、それに勝るものはないはずである。  と同時に一方では、苦節二十年を経て伊豆・蛭ヶ島から挙兵した自分の例もある。将来にわたって義高が謀反しないと保証できる根拠は何もないのである。   (続)

平成二十六年甲午・壬申・己丑

木曾義高と大姫

*人質となった義高>(大姫許婚者)

木曾義仲の子、清水冠者義高が、木曾から鎌倉の頼朝のもとへ送り届けられたのは、寿永二年(1183)3月の事である。この年頼朝は同族の義仲討伐のために十万余騎を率いて碓氷峠を越えた。
木曾冠者義高・塚石塔  (鎌倉大船・臨済宗常楽寺)裏山
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理由は、常陸国にあって頼朝に抗戦した志田義広や、叔父の新宮十郎行家を、義仲が匿った為である。 それでなくても頼朝は義仲に気を許せなかったからである。 義仲はかねてから、兵を上野国から武蔵へまでも、進出させようとしていた。

*武蔵の大蔵は義仲の父義賢の住んでいたところであり、周辺には義賢を慕うものがいるからである。そしてその義賢を不意に襲って殺害したのが、頼朝の兄である悪源太義平であり、頼朝は義仲にとって、親の仇の片割れであるわけだ。そこで頼朝は平氏討伐のまえに、先手を打って義仲に示威運動を仕掛けたのです。

頼朝は義仲に厳しい条件を突きつけた。「十郎行家を引き渡すか、嫡男・義高を婿として鎌倉へ寄こすか、それとも合戦に及ぶか」というものである。いずれにしてもかなり厳しい。

対して、義仲は十一歳になる義高を引き渡すことに同意した。  おそらく胸中は無念の涙で苦渋の決断だと思われる。 その後、義仲の行動は素早く、京都に攻め入った、一日も早く頼朝を出し抜き源氏の頭領となり、そこで存分に見返すつもりだったと思われます。  そのために、京の事情に通じている行家と軍団を温存して、わが子を犠牲にする道を選んだのでしょう。

鎌倉に向かった義高は、同年齢の供を数名従えただけでした。  鎌倉での義高の生活は恵まれていた。  実質は人質でも、頼朝の長女大姫(oohime)の婿である。  当時大姫は僅かに六歳であったが、それだけに二人は雛人形のように皆から愛された。

後に二代将軍となる頼家も、前年の8月に生まれたばかりの幼児であり、もしも歳月が順調に流れたならば後年になって義高は、源氏一門として有効な働きが出来たと考えられます。それが一転して義高を不幸のどん底に陥れたのは、他でもない、父義仲の死である。 (続)

平成二十六年甲午・壬申・乙酉

木曾義仲と頼朝(従兄弟)

*父・源義賢(minamoto・yosikata)・(源義朝弟)

源義賢というのは源氏の頭領義朝の弟で、二番目。  三男が源行家(例の以仁王の令旨を持参して関東に下向した人物)。  久寿二年(1155)8/16日、突如、義朝の嫡男義平(yosihira)の急襲にに遭って敢え無く討たれてしまった。

義賢は東宮護衛の長を務めるほど武名の高い人物であったが、本当にあっけなく討たれたようです。  この争乱の原因についてはよく判っていないが、おそらくは領地問題のもつれか、郎党同士の争いから争乱事件に発展してしまったものと思われる。  あるいは義朝自身も承知の坂東武士の掌握を狙った暴挙だったのかもしれません。 そのような事件のせいか義平は悪源太・義平と云われるようになった。
源義朝・義平親子の鎌倉邸宅跡  (現寿福寺・鎌倉市、扇ヶ谷)
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源義平は義賢を急襲し討ち取ったが、義賢の子駒王丸を発見できず、その捜索を畠山重能(hatakeyama・sigeyosi)に命じ、上京してしまった。  重能は駒王丸を捕えたものの、恩ある源氏の御曹司を刃にかけるに忍びなく、秘かに駒王丸の乳母の夫である信濃の中原兼遠に養育を託した。  この駒王丸こそ後の木曾義仲です。  義仲は物心つくと同時に、平氏を憎むより、父を討った、同族の義朝の血統に憎悪の念を燃やしたのです。

*中原兼遠・・・・源氏という貴種に依存して、一族の繁栄を考えた。  我が子のうち、次郎兼光を伊那郡に、四朗兼平を筑摩郡に、五郎兼行を恵那郡に配して将来の大事に備え、その実力を背景として義仲の将来に期待をかけたようだ。  (源平盛衰記)

兼遠は義仲が挙兵した時、京の平宗盛に召喚され、義仲を庇護したことを咎められています、そこで義仲の逮捕を約束し、二心のないことを誓うために、熊野の牛王(go・ou)に起請文を書かされている。  当時の起請文というのは、現代では想像できないほどの絶対的信仰に裏打ちされた誓約状であり、兼遠も神罰は恐ろしかったのか、信頼する根井行親(nenoi・yukitika)に義仲の後事を託して、自分は一寺を開いて出家してしまった。  臨済宗・林昌寺である。

信州・木曽川のほとりで成長した、木曾義仲の周囲には中原兼遠はじめ、頼みになりそうな多くの信濃武士たちが集まり始めた。   しかし頼朝が石橋山で敗戦の憂き目に遭い、安房に逃れて以降短期間の間に数万の大軍を集め、鎌倉に坂東武士たちの政権を樹立したのと比較して、その歩みは遅々としている。一方頼朝は嫡流であり、関東には頼義・義家(八幡太郎)以来源氏の恩恵を受けた武士が多かったのに比較して、義仲はいわば分家筋であり、義仲と信濃武士との間には互いに利用しあう絆はあっても、それ以上の精神的なよりどころが希薄だったようだ。  義仲が実際に北信・越後・越前の平氏方の追討軍(源氏)を破ったころから、ようやく義仲の名将ぶりが喧伝され味方に加わる武士が急激に増加してくる。  これは頼朝がほとんど壊滅状態から再起したのとは、かなりの差である。

おそらくは義仲はそうした関東の情報に対して、苛立ちを抱いていた事でしょう。  頼朝は父・義賢を殺害した憎い仇の一味なのである。それが天下取りのために着々と地盤をかため、やがて平氏を倒して日本中の武士の棟梁になろうとしています。考えても不愉快きわまる事なのだ。  義仲はそのために、何としても頼朝より先に京にのぼり、平氏を倒して実力ナンバーワンを頼朝に見せつけたかった。  天下取りは「家柄」ではなく、「実力」なのである。ですが、嫡子・義高を人質として頼朝に差し出さなければならなかったときには、相当の忍耐が必要であったに違いない。一日も早く平氏を打倒し頼朝の鼻をあかしてやりたかった。・・・・・

しかし、義仲がその様に逸り立つことは、頼朝にとっては好都合であった。  当時、西国が大飢饉の為に、大軍団が京都に駐留することは不可能なことを知っていたふしがある。・・・そして平氏討伐は、むしろ義仲に任せたかったのである。 そして自分は着々と関東の地固めに専念した。  義仲は見事にその遠謀にひっかかったのである。

京にのぼった義仲はやはり「力は正義なり」とばかり、法皇の権威を認めず弾圧政治を強行、それはいたずらに宮廷勢力をも敵に回す破目になり、しかも兵士たちは糧食をあさり、市中で略奪の限りをつくす結果となりました。

源範頼(minamoto・noriyori)(頼朝・弟)・義経の軍が義仲追討のために京に入った時、義仲の軍は僅か数百に過ぎなかったと云われます。入京したときの兵力は六万余であったのにである。  戦略、戦術にかけては義経と並び、名将といわれた義仲も、最後は頼朝の政略のまえに敗れた。  三十一歳。    (終)

平成二十六年甲午・壬申・壬午

後白河と義仲の対立

頼朝・義仲のバランスの上に乗ろうとする朝廷のやり方は、双方の不満を招いた。頼朝勢力はまだ京から遠いだけにせいぜい朝廷に抗議を申し入れる程度のことだ。  現に都を制圧しているのは義仲勢力であるから、朝廷に義仲を否認せよと要求しても無理なことぐらい承知の上であろう。 朝廷が頼朝勢力との友好関係を維持しようとする姿勢をとり続ければ、大きな前進である。

帰京した義仲は、その不満を直接に後白河にぶつけようとする。こうした状況に後白河は挙兵したのである、実際は挑発したのだ。(義仲・追討命令)(法住寺殿合戦)合戦は一方的に義仲勢の優勢の内に進んだ、このころ頼朝の代官としては伊勢に進駐していた源義経は急遽、大軍を編成している、頼朝の京攻めが愈々開始される。  この京攻めは、天皇救出作戦であり、天皇を守護する為の戦いである、という大義名分の下の作戦になった。  頼朝勢力は挙兵以来、つねに後白河を最高の権威と認めてきた。頼朝勢力の行動の一貫性はこの点にあるとみなしてよいだろう。