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源頼朝

政治家・頼朝

6・頼朝の街づくり

商業の中心地として発展した大町・四つ角(小町大路・大町大路の交差点)
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頼朝の街づくりで注目すべき点は、即座に鶴岡八幡宮を、鎌倉の首座の位置に移した事である。以後、頼朝は第一位の場所に置いた八幡宮を中心に街づくりを行っていく。

初めに八幡宮の参道である若宮大路を南北一直線にひき、その中心に段葛(dankazura)なるユニークな道も作った。若宮大路は、京の朱雀大路に、鶴岡八幡宮は政庁である大内裏(dai・dairi)に当たるものとされ、京育ちの頼朝は奈良・京都の律令国家の都市の形態を意識した青写真を引いたのであろう。

三の鳥居前を横に走る横大路は、東は十二所(jiyuniso)方面から金沢に、西は扇ヶ谷(oogigayatu)に通じている。また若宮大路の下馬四つ角で交差する道は大町大路。箱根の山越えから相模国を横切って横須賀の走水(hasirimizu)に至る古東海道の道筋の一部に当たる。  この下馬四つ角を東に行けば名越、西に向かえば長谷方面になる。

若宮大路と平行して走っている道が、小町大路。宝戒寺門前より大町大路とぶつかる大町四つ角までで、武家屋敷の並ぶ道であり、商人の街、大町、材木座方面へ通じる道でもあった。 特に現在も地名を残している大町四つ角付近は鎌倉随一の繁華街だったようだ。

若宮大路の西側を見れば、今小路(imakouji)がある。寿福寺門前の石橋、勝ノ橋より南に下る道で、やはり若宮大路と並行している。  こうしてみると、碁盤の目のように整然とした京都の街ほどではないが、鶴岡八幡宮と若宮大路を中心に設計された鎌倉の都市づくりが、京都を意識したことは明かであるが、もうお判りと思いますが、中心はあくまでも鶴岡八幡宮なのです。

伊豆の挙兵以来、頼朝が武家の棟梁として東国武士を配下におさめられたのは、彼自身が権力者であったからではなく、源氏の嫡流であると云う血筋が大きくものを言っています。東国武士にとって頼朝派は、平氏に弓を引く為の"旗"だったのである。  頼朝もその事を承知してしており、彼は鎌倉の首座に、幕府の館でなく、源氏の旗を建てたのである。その事により頼朝自身、いっそう権威のある"旗"となり得たのである。

権力の象徴を、信仰という精神的なものにし、武家から庶民にいたるまでの心の支えにした点は、古代を感じさせるが、華麗な城、大きな城で威圧した織田信長や豊臣秀吉よりも新しい政治のように思えるが、どうでしょうか。
最初に教会を造ってから街づくりをした欧米人の歴史にも似ているのではないか。


平成二十五年癸巳・戊午・癸酉
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政治家・頼朝

5・鎌倉偵察の伝承

治承元年(1177)七月、伊豆配流中の頼朝が何故か三浦に現れ、山越の道に迷い、山中の農家で休んだ時,
広尾という娘が頼朝主従の世話をしたと云う。広尾の父・久野六太夫はその功により頼朝が幕府を開いた折、久野谷の名主に任じられ、広尾は頼朝の臣、柳川弥二郎に嫁したという伝承である。
  
大蔵幕府跡・頼朝墓所に通ずる路
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この話が史実なのか、伝説なのかは定かではありませんが、鎌倉入りした後の、機構づくり、街づくり等の処理があまりにも手際が良い。こうしたことを考えると、頼朝は密かに鎌倉を自分の目で偵察していたことは充分にありうることだと思われる。
伊豆で挙兵した頼朝は、途中窮地に追い込まれた事もあったが、これも大雨で三浦軍の到着が遅れたのが原因であり、むしろ用意周到な戦略の元に挙兵したと言えそうだ。


以前どこかの抄でリポートした事がありますが、源氏の御曹司で頼朝の兄である義平の館が逗子にあったが、その厩で働いていたのが先出の久野六太夫・広尾父・娘という出会いである。  御曹司・義平は、平治の乱でで父義朝と共に平氏に敗れ帰らぬ人となっていた。 久野の家に残された由緒ありげな靭(utubo)(矢入れ)等を大切に保存し、再び山に入って暮らしていたのである。

鎌倉周辺の地は源氏との関係が長く、ゆかりの地域・人も多くあると思われる。  頼朝がその様な地域・人々から色々な出来事や情報を入手していた事はありうることで、むしろ否応なしに持ち込まれたのかもしれない。

必要に応じて極秘裏に出張し自ら歩き、自らの目で確認し、将来の幕府像をイメージしたことが政治家としての頼朝を造り挙げたのではないでしょうか。

平成二十五年癸巳・戊午・辛未

政治家・頼朝

4・都市づくりの青写真

源頼朝が大軍を集め房総、武蔵を経て鎌倉入りしたのは、治承四年(1180)十月六日。頼朝は早速、由比郷の八幡宮に参拝している。この八幡宮は、康平六年(1063)に前九年の役で奥州・安倍氏を討伐した、源頼義によって源氏の氏神である京都石清水を勧請し、社殿(由比若宮)を造営したもの。
元八幡入り口・石塔(鎌倉・材木座)
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由比八幡宮に参拝を済ませた頼朝は、その四日後に八幡宮を鎌倉の地の首座に当たる大臣山下に移した。場所は現在の八幡宮・舞殿のあたりといわれている。

新しい社は、恐らく即製の柱に茅葺屋根を置いただけの粗末な物だったのだろうが、実に素早い措置である。そして数日後には、新しい社に入って一日勤行を行っている。 「吾妻鑑」・(治承四年十月十六日条)

あっという間に東国武士の統領となったものの、いまだ完全に掌握しているとは言えず、しかも平氏の源氏追討軍はすでに京を発っていた。近日中には西軍と対峙する為に鎌倉を発たなければならなかった。 頼朝の心の不安は充分察する事が出来る。八幡宮に祈り、経を唱える声に熱がこもったのは当然のことだろう。

当初、幕府館は父・義朝の居館跡(現寿福寺付近)に構える予定であったが、検分の結果土地が手狭なことが判り現大倉の地に決定したと云う。現在は清泉女学院小学校となっている。

幕府館といっても、古い屋敷を移築改修した程度の物で、仮の館であったろうが、かなりの速さである。鶴岡八幡宮といい、幕府館といい、いかにもスピーディーに命令を下し、工事を完了しているのだ。  この手際の良さは、頼朝の都市計画が、鎌倉入りする前から既にある程度出来ていたのではあるまいか。

旗揚げの前に頼朝は、秘かに伊豆を出て鎌倉を調べに訪れたとの推測があり、裏付けるような文書もあるそうだ。その手際の良さは、そうした推測や資料も信憑性を帯びてくる。

追記・・・このたびの世界文化遺産登録に関して「武家の古都・鎌倉」は不登録の勧告を受けました。誠に残念な結果ですが・・・有難うございました。

平成二十五年癸巳・戊午・己巳

政治家・頼朝

3・親衛隊・三浦一族を頼りにした。

先祖ゆかりの要塞の地ということの他、当時穀倉地帯となっていた武蔵、相模のほか、戦に欠くことのできない優秀な南部馬の産地なども考慮に入れての本拠地決定だったと思われる。  だが、それよりももっと頼朝が心を配ったのは、安全という点では無かったのか。・・・

常識からいえば、京都が政治の中心にあり、当然幕府もそこに置くべきだろうが、頼朝は、権謀術策にたけた貴族たちの待ち受ける京を避けたと考えられている。
鶴岡八幡宮二の鳥居付近・段葛石塔(鎌倉・雪の下)
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関東の片田舎に政治の中心を置く決断は、当時としては大英断といえるだろうが、京の貴族たちの策にはまらない為の安全な措置だったと言えよう。  しかも鎌倉は、ただの片田舎では無い。前面に海、隣に三浦一族が構える三浦半島という鎌倉の位置が、頼朝の安全を考えるとき、大切な条件となったのでしょう。

いかに源氏の嫡流とはいえ、気性の荒い東国の武士を統率していくうえで頼朝の近衛軍的な組織が存在した、伊豆配流時代からの関係で、北条一族がその役割を担うが、北条氏の力は余にも小さい。そこで頼朝は旗揚げ以前から強力な味方として接触していた、三浦半島の三浦一族を頼りにし、彼等がすぐに駆けつけられる位置として鎌倉を選んだと考えています。

そして海である。・・・石橋山で敗れた後からくも脱出する事が出来たのは、舟のお陰だったが、海を持つ鎌倉は、緊急脱出という点でも意味があった。もう一つ言えば、単に脱出の為というより、海を、交通輸送、交易に積極的に利用しようという計算があったと思われるのだが・・・・・。

真鶴半島の土肥実平(doi・sanehira)、三浦半島から安房にまで勢力を持っていた三浦義澄(miura・yosizumi)、上総の大豪族・上総介広常(kazusanosuke・hirotune)ら、海にかかわりのある豪族たちとの接触から、頼朝が海に目を向けていたと考えられている。

緊急リポート

本日の朝刊各紙に「富士山」の世界文化遺産登録について、諮問機関の(イコモス)が条件付きで「登録」を勧告したと、文化庁が発表した記事が一面を占めていました。    一方同時に登録を目指していた「武家の古都・鎌倉」は残念ながら「不登録」の勧告。  予想以上の厳しい勧告に驚いています。「不登録」は再申請すら認められていない・・・・・。

平成二十五年癸巳・戊午・丁卯

政治家・頼朝

2・先祖の威光を借りる

化粧坂をのぼりつめた左手一帯を今も源氏山というが、ここは源義家が兵を集めた場所。この山で白旗を掲げて戦勝祈願をしたというので白旗山とも呼ばれたり、武器庫があったので武庫山とも呼ばれている。  今は頼朝像を中心とした、山上の公園になっている。

義家が生まれるにあたって、父・頼義は、長谷の甘縄神明社に誕生を祈願した。生まれた家も神明社の下だと伝わる。
甘縄神明社・安達盛長邸旧蹟(鎌倉・長谷)
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甘縄神明社は、由比ヶ浜大通りから山側に入った所の長い石段の上に社がある。後ろの山は御輿ヶ嶽(mikosigatake)。万葉集にうたわれた「みこしがさき」とは此処の事だそうです。  小さいながら品のある社で、義家の束帯姿の木像を安置している。神明社をここに祀ったのは、社伝によれば神亀年間(724~728)というから相当に古い話だ。 祭神は天照大神。

当時由比の長者といわれた豪商(豪族)染屋太郎時忠の勧請で、山上に社を建立したほか、山麓には神輿山円徳寺(明治期に廃寺)を建てた記録が残る。義家ゆかりの古社だけに、頼朝は鎌倉入りしてから政子を連れて何度も参詣している。

*最近この神明社を訪れた際に、偶々神明社・氏子の方に御目に架かる事があり、御話を聞く機会がありました。詳しい事はまた別の機会にリポートする予定です。* ●周辺の土地を現在も所有しており、収入を得ているようです。

「暮れに及びて雪降る。 二品(頼朝)ならびに御台所(政子)甘縄神明宮に御参、御還向(帰途)の便路をもって、藤九朗盛長(安達)の家に泊る」   「吾妻鑑」文治二年(1186)正月二日条  とある。

藤九朗盛長とは、伊豆流人時代からの頼朝の従者で、神明社の門前に屋敷があったとされる。(文書記録のみ)将軍となった頼朝は、気のおけない盛長らとの語らいの時間を楽しんでいたようだ。

さらに父・義朝(yositomo)も鎌倉に館を構えていた。場所は源氏山の麓、現在の扇ヶ谷・寿福寺付近といわれる。(頼朝が当初、幕府をこの地にと考えていた場所である)

頼朝も当初は充分に先祖の威光を利用したと考えられています。

平成二十五年癸巳・丁巳・乙丑