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御家人

鎌倉・武将(御家人)と名馬

1・影の功労者・奥州名馬

領地を守り、戦いに功をたてなければ成らなかった鎌倉武士にとって、良馬は武士の命といってもよかった。名馬を賜ることは最高の名誉だったし、名馬を貢ぐことは最高の献上物を貢ぐ事であった。

頼朝の記録でも、文治五年(1189)奥州より三十頭の良馬を入れ、十五間の厩を造り、梶原景時を別当に任じたと記録が残る。  建久二年(1191)には、諸国より献上馬が相次ぎ、厩を増設したとの記録も有ります。

もちろん、もらうだけでなく、鶴岡八幡宮に奉納したり、武将たちに報奨として名馬を与えている。頼朝が、名馬、生食(唼)(ikezuki)、磨墨(surusumi)を、佐々木四朗、梶原源太に与え、彼等もそれに応え、木曽義仲を宇治川の合戦で、先陣を争った話は有名だ。
源太塚(梶原源太・腕塚)(鎌倉・笛田・仏行寺)
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鎌倉時代の名馬として、歴史に残っているのは、先述した生食・磨墨は四尺八寸の大馬であったが、義経が鵯越え(hiyodorikoe)を下った薄墨(usuzumi)は四尺六寸。  義経の騎馬による奇襲戦法は天才的であったそうで、鞍馬の山で育ったとは考えにくい、やはり東北とか、関東で育ち身を持って馬に親しんでいたのではなかろうか。任官問題で頼朝の怒りにあい、鎌倉入りが出来ない時に書いた腰越状にも、諸国を流浪し苦労をした事などが訴えられている。

その他、和田義盛の愛馬は七寸五分(四尺)あったと伝わる。 一の谷合戦で畠山重忠が背負って谷を下った愛馬三日月(mikazuki)も名馬の中に数えられている。こうした馬はやはり南部辺りに産したのであろうが、先陣争いには優秀な馬が不可欠だったに違いない、名将の影に名馬ありと言われたのも当然でしょうか。

一騎打ちを戦いの主流とした当時、馬同士がぶつかり合う場合もあり、その様な場合平家一門の馬は東国産の馬に引けを取ったと言われる。

馬は、戦闘用だけでなく、京都と鎌倉を結ぶ飛脚としても使われた。文治元年(1185)には、早くも「駅路の法」が制定され、京と鎌倉の百二十里に宿駅が設けられ、この距離を普通七日間で結んだ。また、早馬であれば三日間で到着したそうだ。おそらく中継用の馬などの手配がこの時代には既に整っていたのでしょう。

平成二十五年癸巳・丁巳・己未
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関東武士・強さの秘密

1・強さの秘密は東国産・馬にあり!

東の源氏と西の平氏が対峙したのは、富士川。 いわゆる富士川の合戦である。  この戦いは、富士川の流れ込んでいた富士沼あたりにいた数万羽の水鳥が飛び立った羽根音に驚いた平家軍がパニックに陥り敗走し、戦わずして勝負がついたと言われている。
山門・茅葺屋根の葺き替え(鎌倉・極楽寺)
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甲斐源氏軍・四万騎と合流した頼朝軍は、其の数二十万騎。意気が上がる頼朝軍に対して平維盛(taira・koremori)軍は戦う以前から疲労していた。  折から西国の大飢饉で、兵糧も、兵も集まらず、敵前で源氏軍に投降する軍が出る始末。軍上層部の内輪もめなど、平家軍の不運などがあったが、すでにこの時代の東国武士と西国武士の優劣がついた時代といえよう。

東国武士は、牧より選りすぐった馬を五・六頭は引かせており、どの様な難所でもたくみに駆け、落ちる事を知らないそうだ。しかも、戦では、親が討たれようが、子が討たれても、死んだものを乗り越えて戦います。この様な事は西国の武士には出来ません。

特に馬の調達は、軍事面ばかりでなく、経済面からも重要であった。そして東国の馬の方が、西国に比べて優秀だったようだ。  鎌倉時代の馬は、今日の競走馬や乗馬用の馬とは大分違っていた。体高は低く、足も短く太かった。

材木座、若宮大路東南の場所から発掘された人骨の中に、馬の骨も混じっていた、大学研究室の調査によれば、馬の大きさは平均129・5㌢であったそうだ。現在、九州の都井岬で観られる野生の馬と同じくらいと考えて良いそうだ。

奥州平泉の藤原氏が朝廷に献上していた馬がこれにあたるそうだ、ある記録によれば古代・韃靼人(datutanjin)が東北地方に侵入した時に持ち込んだ馬種に南部馬の血が流れ優秀な馬が出来たと云う。

馬種のせいばかりでなく、良馬を育てる牧が東国には多かったことも一因であろう。とりわけ関東では、関東ローム層という水はけのよい赤土に覆われ、水田には不向きだったようで、畑や牧が奨励されたようだ。

この様に東国武士は、優れた馬を産する東北地方に近く、しかも自分の領地内からも馬を得られる強みを持っていたのだ。

平成二十五年癸巳・丁巳・丁巳

一所懸命の論理

1・主従関係をささえたもの

以仁王の令旨を掲げた頼朝は、具体的には伊豆の目代及び京都側の勢力を討ち、その地方の武士や役人を吸収した。また、頼朝に敵対する勢力を討ち、所領を没収した、そして、頼朝に従ったものには、現状を安堵し、かつ敵対者と戦って勝ちとった所領を分配した。
旗立て山(源氏山・頼朝像)
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命がけで自分の土地を守り、しかも京都のやり方に不合理を感じていた武士達が、頼朝の革命的な政治に従ったのは当然の成り行きだったのでしょう。  働くことで恩賞がもらえると云う御恩と奉公の関係で主従の関係が成り立ったのである。  これが御家人制であると考えます。

王朝国家から政権を奪い、武家政権を確立したと云う事は、完璧に革命である。しかし、頼朝は政権を転換すると同時にすぐれた政治力を発揮した。それを証明するのが、御家人制だと考えられる。  この制度は、従来の武家社会の主従関係を活用しながら、なお且つその上に成立させたものであり、既成の秩序機構をすべて取り除いたわけではない。 旧勢力との軋轢を極力避けながら変革を実行しています。

武家社会のシステムは、主から従に与える御恩に対し、従は忠勤、奉公をもって報いる。御恩とは所領の安堵、所領の支配を認められることである。頼朝はこれを全国的に拡大し、発展させ掌握してしまったのである。

具体的には、全国の公領、荘園に警察権を持つ守護を、また年貢徴収権を持つ地頭を置くことを朝廷に認めさせ、公家支配の政権を無力化してしまった。  したがって、将軍に仕える者は、賜った土地を生活の拠点として命をかけて守る発想、つまり、一所懸命の思想が生まれたのである。

一所懸命を語る時、引き合いに出されるのは、熊谷直実(kumagai・naozane)。  一の谷の合戦でわが子と同じ年頃の平敦盛(taira・atumori)を討ちとったものの、人の世の哀れさ、武士の宿業に目覚め出家したと言われている。しかし、「吾妻鑑」では、出家の原因は所領争いに敗れたためだとしている。また、「御家人」はみな同じ身分と主張したと云う。

当時の御家人には、多くの郎党を抱えいる大名と、僅かな郎党しか抱えられない小名がいたが、直実は熊谷荘(kumagayasou)を安堵された小武士層の一人であった。その領地争いが頼朝の面前で行われたが、勇猛な武士も弁舌が不得手で、思うように説明できぬまま、敗れたのである。

平成二十五年癸巳・丁巳・乙卯

鎌倉幕府の職制

鎌倉幕府の政治体制

幕府の職制は大きく三区分される。
幕府草創期(頼朝~北条義時)は将軍独裁の時代である。東国武士団の利益を代表する豪族領主、下級官人出身者を中心とする文士(法曹官僚・実務官僚)が、鎌倉殿・頼朝の執政を支えていたが、政治制度・訴訟制度はおおむね未成熟なものであった。


侍所・政所(公文所)・問注所の三大機関が早々に設置されたことは事実であるが、何れも実態は貧弱なものであった。

御家人の統率と軍事を所管する侍所(samuraidokoro)は、治承四年(1180)和田義盛が別当(長官)に任命されて設置され、所司(次官)に梶原景時が任命されるが、侍所とは別に「宿老」と称される上総・小山・千葉・三浦などの豪族領主の大雑把なグループが存在し、頼朝は彼らの意見を聞きながら実際の軍事行動の方針を自ら決定していた。
和田一族の墓所(鎌倉・由比ヶ浜)江ノ電和田塚駅付近
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行・財政を司る政所の前身である公文所(kumonjixyo)は元暦元年(1184)大江広元(中原)を別当として創設されたが、この時の職員は僅か五名であった。

訴訟を担当する問注所(montiyuujiyo)は、公文所創設とほぼ同じ時期に三善康信を執事(長官)として創設されたが、職員は二名だった。しかも新造された問注所は将軍邸の一角に額を打っただけの名ばかりのものであった。

公文所・問注所の職員は文士で、大江広元・三善康信・中原親能(nakahara・tikayosi)・藤原行政・平盛時など京下り官人を中心として、頼朝流人時代の、藤原邦道・中原光家・源邦業(minamoto・kuninari)、武蔵の豪族領主・足立遠元などを加え、十人ほどであった。
公文所は、征夷大将軍任官後の建久三年(1192)将軍家政所に改組され、別当に大江広元・源邦業が就任。公卿の家政機関として令(rei)(次官)・案主(anjiyu)・知家事(tikeji)等の役職を整えたものの、文士の実情は以前と変化ない。

結局、頼朝は軍事面では宿老の意見を聞き、行政・司法面では文士を手足として使いながら、最終決定は自身で下していたのであり、頼朝期鎌倉幕府の決定とは頼朝の決定であった。  頼朝の下には制度化された政務期間は事実上存在しなかったのである。

頼朝没後の御家人間抗争の結果、実朝期には鎌倉幕府の実権は、実朝とその母北条政子を擁する政子の弟北条義時にあった。元久二年(1205)の牧氏の変で父時政を追放し、大江広元とともに政所別当になった義時は、和田合戦で侍所別当の和田義盛を謀殺し、その職を併せ侍所別当兼任となる。  しかし、大江広元・安達景盛ら少数のブレーンと共に政務を執ったのであり、制度化に向かって確実に進んでいるものの、制度化された政務機関はまだ存在しない。(一期)

政治・訴訟制度が急速に整備されるのは、義時の子泰時・執権期である。

四代将軍・藤原頼経(九条)を戴く北条泰時の治世期は、執権政治の典型とされる。承久の乱後の、元仁元年(1224)父義時死亡の直後、京都にあった泰時は(六波羅探題北方)、同じく南方であった叔父・時房と共に急遽鎌倉に帰還した。

嘉禄元年(1225)泰時は時房を新設の連署に就任させた。 連署とは、執権と共に幕府公式文書に署名する事から起った職名であり、副執権の立場であり、複数執権制であった。 幕府の本貫地、相模守・武蔵守に任官する事から「両国司」と称された。

次いで評定衆が設置され初代の評定衆十一名が構成された。序列があり
筆頭に中原師員(nakahara・morokazu)(文士)
次いで三浦義村(miura・yosimura)(武士)
二階堂行村(nikaidou・yokimura)(文士)
中条家長(tiyujiyou・ienaga)(武士)
町野康俊(matino・yasutosi)(文士。問注所執事)
二階堂行盛(nikaidou・yukimori)(文士。政所執事)
矢野倫重(yano・mitisige)(文士)
後藤基綱(gotou・mototuna)(武士)
大田康連(oota・yasutura)(文士)
佐藤業時(satou・naritoki)(文士)
斎藤長定(saitou・nagasada)(文士)・・・・・武士三名・文士八名の構成である。

貞永元年(1232)、最初の武家法典として名高い「関東御成敗式目」(貞永式目)五十一ヵ条が発布され、合議制と法治主義に基ずく執権政治体制が完成した。・・・・・泰時の治世は、十八年に及び、大きな抗争や内戦はなく、鎌倉幕府にとって最初の安定期といえる。

執権・連署・評定衆によって構成される評定会議が、政所など既存機関の主要機能を吸収して、幕府の最高議決機関・訴訟機関となった。  その後、評定衆は増員され上位を北条氏が占めるようになる。

泰時の卒去を契機に執権が北条経時(houjiyou・tunetoki)から、弟の時頼に譲られる。(執権職を譲った後、二十三歳で没した) 宮騒動、宝治合戦に勝利した執権北条時頼(houjiyou・tokiyori)とその派閥は、さらなる幕府の制度改革に着手した。 六波羅探題・北条重時を鎌倉に帰還させ、空席の連署に就任させた。

建長元年(1249)引付方(hikitukekata)が創設され、あらたに引付衆が任命された。   評定会議の下に、評定衆の上位者が頭人(tounin)(班長)となる引付方が三方設置され、各引付方には頭人の下にそれぞれ数名の評定衆・引付衆・奉行人が配属されて、訴訟の予備審理を行った。泰時以来次第に整備されてきた幕府職制・訴訟制度の基本が完成した。最初の引付方は三方で頭人は全員北条氏、初代の引付衆は五名で全員が文士であった。

鎌倉幕府は泰時~時頼期において前代に比して訴訟機関、そして、統治機構として格段の発展を見た。
建長四年(1252)後嵯峨上皇の皇子・宗尊(munetaka)親王を新将軍として鎌倉に迎えた。ここに時頼は曾祖父義時が源家・将軍、実朝没後に模索しながら挫折した親王将軍を実現し、以降、鎌倉幕府は皇族を主人に戴くことになる。(二期)

弘長三年(1263)時頼が急逝すると、嫡子時宗は十四歳で連署に就任する、この連署就任は北条氏家督たる時宗をなるべく早く公職に就け、その地位を安定させる必要があった。  年齢を考慮しての折衷案であったと考えられる。(執権には北条政村が就任)

文永三年(1266)に引付方が廃止され、「重事は直ちに聴断し」〓「神秘御沙汰」(sinpinogosata)による秘密会議・寄合で決定されたようだ。・・・・・この寄合は時宗邸で行われ、連署・時宗、執権・北条政村、金沢実時、安達泰盛(adati・yasumori)(時宗の妻の兄)が寄り合って討議されたようだ。

この間に将軍・宗尊が解任され、宗尊の子・惟康王(koreyasuou)がわずか三歳で
将軍となる。
かくて、時宗への権力集中という路線が確定する。   執権・北条政村ら当時の幕府中枢は、後は時宗の成長に従い、時宗の地位を固めるだけであると安堵したかもしれない。  だが、文永五年(1268)正月,突然蒙古の国書が鎌倉に届けられた。

鎌倉幕府は蒙古襲来への警戒を管国御家人にに伝えるよう西国守護に指令を出している。そして時宗は政村と役職を交替し、執権に就任する。
時宗は、御家人の主人である将軍固有の権限であり本来他者に譲りえないはずの御恩沙汰(goonno・sata)(将軍が御家人に御恩として所領を給与する行為)や官途沙汰(kantono・sata)(将軍が御家人の官職・官位を王朝に推薦する行為)をも掌握し、人事権をはじめとする幕府の全権力は時宗という個人に集中したのである。

時宗は自身が将軍権力の代行者となることにより、将軍を制度的に棚上げする事に成功したのである。
時宗政権における最重要政策は、本所一円地住人(honsiyo・itienti・jiyuunin)(非御家人)の軍事動員への決定である。これにより、鎌倉将軍と主従関係のない非御家人に確たる根拠のないまま幕府の支配が及ぶことになる、対蒙古防衛という非常時における緊急対応のかたちでとられた政策である。

時宗政権は、対蒙古政策以外にも蓄積された諸問題に対応していった。再審専門機関として越訴方(oxtusokata)を新設、長官に金沢実時・安達泰盛が任命された。六波羅探題の機構整備・拡充。畿内近国での悪党の跳梁(tiyouriyou)に対し鎮圧令の本格的運用。
個人を政治制度の頂点に位置づける、個人独裁制を築き、これによって蒙古襲来と愈々顕在化した国内の諸問題に対応しようとした。

弘安七年(1284)北条時宗急逝、鎌倉幕府の危機である。  嫡子貞時(sadatoki)十四歳で執権に就任、個人独裁に変わる体制を早急に築かなければならないが、実務能力の期待できない少年を執権にしたことは、とにかく形式だけでも整えようとする幕府中枢の危機感が読み取れる。

時宗に代わる最高意思決定機関を時宗の個人的諮問機関であった寄合に求めたのである。北条時村(政村の嫡子)が「寄合衆」に任命されており、寄合は個人的諮問機関から鎌倉幕府の公的機関ととなっていたことが確認出来る。

カリスマ去って後の半世紀を、鎌倉幕府はその穴を合議制で埋める形で歩き出した。幕府は時宗没後四十九年存続する。(三期) 終り。

平成二十四年壬辰・庚戌・丙寅

鎌倉の武将・頼朝の御家人(8A)

安達一族

鎌倉幕府の名門(非北条系)安達一族を、鎌倉中期・有力御家人層の信頼を集めた安達泰盛(adati・yasumori)の曾祖父の代からの軌跡をたどってみる
御家人・安達盛長邸旧蹟(甘縄神明社付近)(鎌倉・長谷)
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曾祖父・安達盛長(adati・morinaga)は流人・頼朝の当初からの従者として知られ、挙兵の時には相模国内の武士や千葉常胤(tiba・tunetane)等を味方につけるべく奔走した。   幕府成立後は上野・三河守護となった。
盛長は武蔵国の有力武士・比企氏の娘婿で、「安達」の名字は比企氏所領の武蔵国足立郡に由来すると伝える。盛長の妻が丹後内侍だったことは「吾妻鑑」から確認できる。・・・・・源頼政の娘が二条院に仕え、丹後内侍を通じ京都・源氏と身近な接点をもっていた。 この時点ではまだ「足立」氏を名乗っていたようだ。
鎌倉では甘縄に邸宅を構え、甘縄神明宮の管理に携わった。邸宅は頼朝の渡御の場とされ、建久二年幕府・若宮などが焼失した時も盛長邸に移っており、新御所完成時には、盛長邸から移っている。
頼朝の死を契機に出家している、籐九朗入道・蓮西と「吾妻鏡」にみえる。・・・・将軍が頼家に移ると、御家人十三人の談合で、政治を行うことになり、北条時政らと共に名を連ねたが、生涯無官であった。
祖父・安達景盛(adati・kagemori)は、承久の乱に際し、北条政子の意図をうけて関東御家人をを集めて京都を攻める意志を明確に示し、出陣を命じている。
政子の意志は、御家人らは頼朝から官位・俸禄を与えられた恩顧を思い出して京方を打倒せよと云うもので、景盛が代読した。  政子の景盛に対する信頼ぶりが判る。
嘉禄元年(1225)に北条政子が没すると、高野山に籠り、出家「秋田城介景盛入道」と呼ばれた。
高野山では景盛が本願となった金剛三味院にあり、僧の管理と所領の維持にあたった。
宝治元年(1247)高野山にあった景盛は、突然鎌倉に下った。  北条時頼邸(第五代幕府執権)に入り、三浦泰村一族を倒すことを子息の義景(yosikage)・孫、泰盛(yasumori)らに命令した。いわゆる宝治合戦(houji・katusenn)である。
政敵を倒して、時頼政権の安定を見届け、翌年には没した。
父・安達義景(adati・yosikage)は治元四年(1210)の生、義景の秋田城介就任は、父景盛の出家から十七年経過してからの任官である。義景の「義」の一字は北条義時(執権)の一時拝領と思われる。
義時は元仁(1224)に没しており、義景十五歳。・・・義時晩年に元服したと思われる。
この時代、将軍が源家将軍から藤原頼経(fujiwara・yoritune)・頼嗣(yoritugu)・宗尊親王(munetaka・sinnnou)、と摂家将軍(sextuke・siyougunn)・親王将軍(sinnnou・sixyougunn)にかわり、執権は義時・泰時・経時・時頼となり、執権政治の確立期になる。
義景は寛元四年(1243)の宮騒動で北条時頼らと図って名越光時(nagoe・mitutoki)の追放に関与している。また宝治元年(1247)の三浦氏を滅ぼした宝治合戦の主力であったことも、吾妻鏡に見える。
この間の義景は貞永元年(1232)に評定衆、建長四年(1252)に五番引付頭人となっている。
寛元・宝治事件で名越・三浦・千葉氏は力を弱め、北条時頼を頂点にした得宗中心の寄合による政治が進んだ。北条氏以外では義景が唯一加わった。義景は御家人勢力のトップを占めるようになった。
義景は弓馬や蹴鞠のの故実に通じており、とりわけ時頼の信頼が厚かった。   義景の地位を支えたのは時頼との関係とみてよい。
安達邸は甘縄にあり、義景に継承されて「甘縄本家」とも称された。     甘縄邸の位置は、五大堂を造営する時、義景邸南側、千葉時胤邸の北側の地とある。・・・・・安達・千葉両氏の邸宅は、仁治二年(1241)の鎌倉大火で甘縄山麓が焼亡したときに焼失している。  (宝治合戦の軍勢の動きから、甘縄館の門前の小路は〓今小路と思われ、現在の今小路付近と推定される。)
現在の甘縄神明宮との位置関係は、かなりの矛盾が生じてしまう(神明宮の入り口にある安達盛長邸址の石塔)が、私には説明できないが、義景の時代に移ったのか、判らない。
安達泰盛の父祖三代について記してきた。  頼朝の側近として挙兵に参加、東国の武士達との事前の連絡・調整した手腕は、東国政権の設立に大きな役割を果たした。この盛長の立場の上に、以後の安達氏の地位が成り立つ事になる。
父義景は、北条泰時・時頼を支える立場にたっており、一族子弟の婚姻関係を通して北条氏一族はもちろん長井・二階堂(nikaidou)・武藤氏など有力御家人と幅広い血縁関係を築き、 得宗と対立する三浦・名越らの排除に積極的に加担して時頼の権力確立に尽力し、幕府内での得宗の地位の安定化に貢献した。・・・有力御家人と得宗の両者に大きな足掛かりを付けた。このことは、泰盛への大きな遺産であり、桎梏(situkoku)でもあった。

愈々、秋田城介・安達泰盛の登場だ。以前、NHKの大河ドラマ「北条時宗」の中で、安達泰盛を演じた俳優の柳場敏郎氏は、見事な演技で記憶に残る役柄でした、霜月騒動の中の柳場氏は安達泰盛になりきっていた様に思います。今でも私のイメージの中に鮮明に残っています。
安達泰盛(adati・yasumori)は寛気三年(1231)の生れで義景の三男であるが、当初から「九朗」を名乗っており、安達家の嫡子と周知されていたようだ。
泰盛は、年長の二人の兄と、十歳以上離れた五人の弟を抱える惣領の地位にあった。
建長五年(1253)父義景が死去。八月の放生会(houjixyoue)には安達氏の一門は見えない、喪に服している。翌年の放生会には、泰盛をはじめ次郎頼景(yorikage)・大曾禰長泰(oosone・nagayasu)・盛経・景経と一門が参加しており、一斉に復帰した。 大曾禰系は祖父・景盛時代の分家の系統。
康元元年(1256)正月の垸儀礼で、泰盛は秋田城介を名乗って行縢(gixyoutou)の役を奉仕している。 名実ともに安達家の惣領であった。
又、将軍・宗尊親王(munetaka・sinnnou)の出御の行列では、五位の者の列に泰盛と大曾禰長泰、六位に四朗時盛・六郎顕盛と参列して見える。
本家と分家・大曾禰家、嫡庶の関係が固定しているようだ、泰盛を頂点とした家格秩序を表しているのか?
正嘉二年の鎌倉大火の記事から、父義景の甘縄屋敷を継承したものとみられる。甘縄邸の様子は「蒙古襲来絵詞」に見られ「あまなはのたち」と呼ばれた。
次に泰盛の経済力・所領等について調べてみる。
建治元年(1275)  幕府は京都六条八幡宮を造営するにあたり、各御家人に所領規模に相応した金銭の拠出を注文している。
この中で泰盛の拠出額は、百五十貫文と北条氏一門と肩を並べ、足利・長井・千葉氏らと同格であった。  安達氏は義景・泰盛流と庶家大曾禰氏の二家にわかれ、それぞれ別の家産を維持していた。   
守護職には、上野国・肥後国の二カ国。    地頭職は愛知県三河等に見られる。
次に泰盛と一族の政治的な位置関係を見てみよう、政治への御家人の参加は、評定衆・引付衆のメンバーに入ることが重要である。
評定衆は、北条泰時が嘉禄元年(1225)に設置したもので、政所・問注所をその下部に従え、主要な御家人十人ほどが合議し裁断する組織だった。
引付衆は、北条時頼が建長元年(1249)の設置による。  訴訟を裁断する引付は、番編成を執り、各番は評定衆のなかの有力者が頭人となり、頭人のもとに数名の評定衆と引付衆に編成され,引付衆には有力御家人や北条氏一族の若年のものが編成され、これに奉行人が加わっていた。
泰盛の時代、引付衆は評定衆への一階梯とされ、身分の微表となっていた。
弘安七年当時、評定衆・引付衆の総数は三十名であり、安達一族・庶家合わせて六名は、全体の五分の一を占めた。  ちなみに北条氏は合わせて八名であり、霜月騒動の直前、安達氏は北条氏一族と肩を並べるほどの勢力とみられる。

文永五年(1268)執権に北条時宗がついた、時宗は十八歳、連署政村は六十四歳。   
青年の得宗を長老が補佐する体制に代わった。
   時宗は文永九年、京都で兄の六波羅探題・南方の北条時輔(houjixyou・tokisuke)を、鎌倉では名越時章(nagoe・tokiakira)を殺害した。 いわゆる二月騒動である。

 将軍宗尊(munetaka)に近い名越氏、 鎌倉の意向に合わない兄の時輔を倒し、得宗時宗に反逆する勢力を排除して得宗への権力集中を高めた

文永十一年(1274)幕府は、中国・四国の守護に蒙古軍との戦闘動員を命じた。
(八幡愚童訓) 

平成二十四年壬辰・丁未・壬子