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鎌倉・仏教

幕府の裏方・二十五坊

*二十五坊旧蹟

鶴岡八幡宮裏、いまは「二十五坊旧蹟」の石塔が建つだけであるが、往時はここが重要な場所であった。  神仏混交思想により鶴岡八幡宮に神宮寺が直属していた時代に、その僧坊が多く並んで繁栄を極めていた地域であり、一般は無論立ち入り禁止。
二十五坊跡・石塔(鎌倉・雪ノ下)
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八幡宮から独立していた傾向も顕著であり、真言密教の道場として、関東に広く名を成した。 盛時には勅願寺の格式を備えていたとさえ言われています。 小袋坂(巨福呂坂)の曲がり角で、街道の要所に位置しながら、西谷・南谷・北谷と呼ばれる広範な領域を占めていた。

「二十五坊」は特に黒門を設け、門番を置いて、俗界と区別した。  背後には険しい深山が建長寺まで続き、厳粛な雰囲気を漂わせた。 付近からは僧坊生活にゆかりの深い瀬戸香炉・青磁の鉢・素焼きの手あぶりなど、貴重な遺宝が多く出土したという記録が残る。

「吾妻鑑」治承四年(1180)12/04条に、源頼朝が千葉広常に命じ、仏法に明るい高徳の僧を故郷の上総国から招聘して、鶴岡八幡宮の供僧に補したとあることから、二十五坊の始まりとされる。

建保七年(1219)正月/27日、八幡宮で起きた源実朝暗殺の直後、公暁が身を隠したのは、後見人備中阿闍梨の屋敷である。 その屋敷は雪ノ下の北谷に在ったと記録されている、八幡宮二十五坊の僧坊の事である。

*「当宮別当阿闍梨公暁」と呼ばれる。・・・公暁は二十五坊を統括する別当。

公暁は建暦元年(1211)、近江国の園城寺での登壇受戒のために上洛し、建保五年(1217)には昇格し阿闍梨となって鎌倉に帰着すると、直ちに北条政子の指令により鶴岡神宮寺(二十五坊)の別当に補任し、数か月の祈請に入ったが、未だに除髪していない。  二十五坊に参籠していながら剃髪しなければ、坊内に奇異の感を抱かせるのは当然である。  この時の公暁の態度には、誰の目にも不自然な点が顕著だったのでしょう。

その後、二か月足らずのうちに実朝殺害事件は発生したのである。 それは建保七年正月/27日の事です。  二十五坊の別当でありながら、人々の間で問題になるような態度を示したことは大変重要であり、危険な状況でした。公暁は早々と実朝の殺害を計画していたことは明白で、多くの人が公暁のそういう意思に気づいていた可能性が濃い。  当の実朝だけが感知していなかったのでしょうか。

頼朝の雪見の遊興でも知られるように、二十五坊の建物が肩を並べていた鶴岡神宮寺は、八幡宮裏の隠逸な環境にあり、中央から隔離されたような状況に置かれていた。  そのような点を重視するならば、北条政子がことさらに公暁を円城寺に入れ、阿闍梨に仕立て上げてから、神宮寺別当に推挙したという措置が際立って計画的に見えてきます。

実朝暗殺事件は北条氏による巧みな誘導に起因するのかもしれません。  事件当時、公暁はまだ二十歳の若輩で事態の真相を見極める能力が乏しく、的確な情報も与えられていない状況での暴挙だと考えられます。  暗殺直後に二十五坊の後見人備中阿闍梨の許へ駆け込んだという事実がその間の事情を雄弁に物語る。     (終)

平成二十六年甲午・庚午・丙申
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中世鎌倉の高僧

5・真言律宗・良観忍性(riyoukan・ninjiyou)

忍性は大和国の生まれで、西大寺の叡尊(eison)に師事している。  叡尊が復興した真言律宗を関東で広める為に鎌倉にやってきたのが、弘長元年(1261)だと言われる。開山として極楽寺に入ったのは文永四年(1267)、五十一歳のときで、以後三十七年間にわたって活動し、八十七歳の高齢で没している。
良観忍性墓所(極楽寺・裏手、非公開)
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この間の忍性の活動は目覚ましい。 単なる僧と言うより、もっと幅広い仕事をしている。
癩病患者を引き取り治療したり、貧困者・病人に対する救済活動は数えきれない。  また土木工事にも積極的に携わっており、そうした技術も持っていたようだ。

極楽寺坂切通しは、北条重時(三代執権・泰時弟)の山荘を建てる際の資材運搬道として整備されたと言われるが、この工事を指導したのが忍性とされ、重時の信任を得たのはこのへんの事情によるかもしれない。

伽藍の修営・道路の修築・井戸の採掘・衣食の施し・極楽寺の施設に収容し、施療した人は述べ五万人以上と記録に残る。   (本朝高僧伝)
忍性の師・叡尊(eison)も民衆のために力をそそいだ僧というから、師を見習ったのであろうが、それにしてもエネルギッシュな僧である。  その面影は、鎌倉・極楽寺に残る忍性像からもうかがう事が出来る。頬骨が張った顔、大きな鼻と口、今日でいえば、一代で身上を築きあげた実業家の風貌と言ったところか。

忍性はよく日蓮と比較される。同時代に生きた二人は、互いに雨乞いの祈祷を競い合った事も有るライバルだったと考えられている。   反体制で、他宗をことごとく否定する日蓮は、法華経を唱える事によって救われると説いていた。  これに対し忍性は、お題目を唱えるよりも、自ら民衆の中に入って救済の行動を起した、現実的な活動家だったと言える。

結局日蓮は、忍性が幕府に出した「弓矢刀剣を蓄え、凶徒を集めている」との訴状で流罪になっている。  どちらの僧が民衆を本当に救ったのかは解らないが、忍性が生き仏として民衆から崇められたのは事実であり、当然のことであった。  晩年は奈良に戻った、後醍醐天皇はその徳行に、死後、最高の「菩薩」の称号を与えている。

社会事業僧として忍性がこれほど活躍出来たのは、北条重時の後ろ盾があったからであろう。 重時の父・北条義時(yositoki)、血なまぐさい陰謀術策によって幕府の実権を握ったと云うイメージのある人物である。その息子が、汚い父のやり方を知らない筈はない。重時の兄、泰時(yasutoki)が名執権といわれる善政を施したのも、北条家としての一つの反省の意味があったと考えられる。

同じ意味で重時が忍性を通じ、民衆を救おうとしたのも時政や義時の流した血に対する贖罪の意味があっての事と考えています。  その極楽寺は度重なる戦火の結果、塔頭・吉祥院を残すのみとなっています。

平成二十五年癸巳・甲寅・壬午

中世鎌倉の高僧

4・日蓮上人は超能力者?

世の中には現代科学では解決できない不思議な出来事が存在すると云う事を否定できない、日蓮上人の伝記の中にはあまりにも奇跡的な出来事が多い。  奇跡的伝説ばかりが目につく為に、はったりの強いインチキ坊主という印象も一部にはある。
松葉ヶ谷・安国論寺・・・日蓮上人草庵址石塔(鎌倉・大町)
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そのような伝説のために、日本一の知者となるべく学問をおさめた日蓮のインテリジェンスは奇跡伝説の影に隠れてしまった。 予言がはずれてしょげてみたり、腹が減ったと訴え、餅をもらって大喜びしたり、晩年、身延山で慢性の下痢に悩まされて苦しんだ人間日蓮の一面は、私たちに充分に伝えられていないようだ。

日蓮と言う人は、むしろ奇跡伝説によって随分とマイナス・イメージが強いと思われる。  頑固で、意地っ張りで、自信家で、エゴイストで・・・・・と云った世に伝わる日蓮の性格は、並みの人物では無いのだから当然個性的であったに違いないが、反面、両親を思い、故郷を自慢までしている。

生涯独身を通したが、女性にも親切で、人気を集めていたようだ。中々の男前だったと云う説もある。人気の秘密は日蓮の説いた法華経が女人成仏を説くものであった為であろう。  他の経典と違い、法華経を信じれば女性だって成仏できると云うものだ。

日蓮が藤沢・龍ノ口で処刑を免れた本当の理由は、奇跡伝説にあるような奇跡では無く、日蓮の斬首刑を中止させたのは「比企の乱」で滅ぼされた比企能員(hiki・yosikazu)の遺児である比企能本(hiki・yosimoto)だと云う説である。  能本は現在の比企ヶ谷(hikigayatu)に一族を弔う妙本寺を建立した人物として知られているが、二十歳近く年下の日蓮とも学問や仏法を通じて交わりを持っており、日蓮の信奉者でもあった。

この比企能本(yosimoto)と当時幕府枢要の地位にあった秋田城介・安達泰盛との書を通しての関係により、恐らく能本は泰盛に日蓮の斬首刑中止を頼み、泰盛が時宗を説得したのであろう。      (完)

平成二十五年癸巳・甲寅・庚辰

中世鎌倉の高僧

3・日蓮上人・佐渡に流刑となる。

市内引き回しの上、龍ノ口(tatunokuti)の刑場に送られる事とになったのである。  護送される途中、桟敷の尼(sajikinoni)といわれた老婆が馬上の日蓮にぼた餅を差し出した。この老婆の住んでいた場所に現在ある寺が常栄寺、通称「ぼたもち寺」である。
日蓮上人・袈裟掛松 (龍ノ口刑場へ向かう途中、袈裟が汚れないように松の枝に掛けたと云う松)記念碑
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龍ノ口刑場に日蓮が連行されたのは、その日の深夜だったと言われる。  腰越にある龍口寺(riyuukouji)の山門前には、龍口刑場跡の石塔があり、一般的にはこの場所が刑場跡と思われるが、場所については諸説がある。龍ノ口明神社前だと云う説、小動岬(koyurugimisaki)の神戸川の河口とする説、また、遠く鵠沼方面にあったと云う説等がある。

刑場では愈々日蓮の首がはねられることになった。  目をつむり合掌しながら題目を唱える日蓮の背後から、太刀取りの武士が太刀を振り上げた瞬間「たちまち江の島の方角から強い光が差し込み、太刀取りの武士がひるんでしまった」また、太刀が折れてしまったと云う。

結局、平頼綱(taira・yorituna)は処刑を中止し、執権・北条時宗の下知を仰ぐ為使いを出さざるを得なかった。一方、幕府の方では、時宗の館に落雷があったようだ、時宗は処刑を中止する命を出した。 御台所の懐妊中であったことも一つの理由だとされる。

龍ノ口から馬で飛ばした頼綱の使いと、鎌倉から出した時宗の使いは、七里ガ浜のほぼ中間地点にある川の上で行き合った。現在、その川を行合川(yukiaigawa)と呼んでいるのはこの故事による。  こうして日蓮はまたしても命拾いをし、改めて佐渡へ流罪となった。日蓮の法難のうちでも最も重要な意味を持っているのが、この龍ノ口の法難である。

佐渡島へ流罪となり四年後に赦免。  そのあと日蓮は身延山(minobusan)に入る。九年間を身延山で過ごした日蓮だが、体調を壊し、常陸の温泉で治療する為下山したが、途中、武州池上(ikegami)で入滅。日蓮六十一歳。ときに弘安五年(1282)九月十三日辰の刻。この時大地が揺れ動き、邸内の桜が爛漫と花を開いたと伝わる。

平成二十五年癸巳・甲寅・戊寅

中世鎌倉の高僧

2・日蓮上人・辻説法と法難

日蓮の説法は、法華経(hokekiyou)だけが成仏の道として、他宗を排撃するものであったので、日蓮を葬り去ろうとする集団の動きが次々と起ったのである。  そのうえ日蓮は、当時の執権・北条時頼に、治世の要道を説き、他宗を攻撃、法華の正法を広めるべきであるという「立正安国論」を提出している。

鎌倉・松葉ヶ谷の庵に起居しながら辻説法を始めた日蓮が念仏宗徒に襲われ、白猿の導きで命拾いした事件も日蓮の法難の一つでしょう   (松葉ヶ谷法難)

ここで少し、日蓮が松葉ヶ谷に草庵を開き、鎌倉のこの地に腰を下ろした時代を見てみよう。「松葉ヶ谷」現在の鎌倉・大町辺りでは日蓮宗の寺院ばかりが目につく。大巧寺(daigiyouji)、本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、みな日蓮宗の寺院である。日蓮上人にとって、この地はゆかりの地であり、聖地と言ってもいい場所だから、日蓮宗の寺が多いのも当然であろう。

日蓮がこの地を訪れたのは、建長六年(1254)、三十三歳の時と言われ、安房から舟で東京湾を渡り三浦半島の米ヶ浜(yonegahama)(横須賀市)に上陸、三浦街道をへて名越(nagoe)の松葉ヶ谷の庵を開いたといわれます。この庵が松葉ヶ谷のどの辺りであったかは良く解っていない。小庵址と呼ばれているところは三か所ある。

一つは、苔の石段で知られる妙法寺本堂裏手の山上に法華堂があり、ここが庵跡と伝えられる。  また、安国論寺には、鎌倉入りして布教を始めた日蓮が庵としていたという岩屋が山門の右手にある。そこには「立正安国論」を撰述した小庵もあったと言われる。  もう一つは、安国論寺と県道をはさんで向い側にある長勝寺の東の谷に庵跡があったと伝えられている。
それぞれの場所は、各寺院に各々伝わる場所なのであろう。  何所が本当の小庵址なのかは解らないが、一説に、既存の宗教を攻撃していた日蓮に対し反撃も当然あったわけで、庵を度々移していたのかも知れません。そこで、庵跡がいくつも今日に伝えられて来たのかもしれない。
日蓮上人・辻説法跡石塔(鎌倉・小町大路)
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松葉ヶ谷で焼け死んだ筈の日蓮が再び辻説法を始め、例のごとく他宗攻撃を行い、当時の法律「貞永式目第十二条」違反に該当するとして幕府は日蓮を伊豆に流罪とした。

span style="font-size:large;">弘長三年(1263)伊豆流罪を放免されて鎌倉に戻った日蓮は、母の病気見舞いに故郷を訪れた。その際に房州天津の領主・工藤吉隆の招きに応じて、四人の弟子や数名の信者とともに館に向かう途中、東条の松原で、かねてから日蓮に恨みを抱いていた東条景信ら多数の兵士や念仏宗徒らに襲われ、日蓮自身も東条の太刀で額に傷を負わされた。 「小松原法難」

「小松原法難」のあと、日蓮の弟子、門弟は次第に増えつつあった。  幕府にあっては蒙古の使者が国書を持って来日し、朝廷と共に喧々諤々の日々であった、国書の内容と言えば要は、属国になれということである。

日蓮は九年前に幕府へ提出した「立正安国論」の内容と同じ状況が日本に迫っていると感じ、いっそう自分の主張に自信を深めた。  執権・北条時宗をはじめとする幕府の有力者たちには「立正安国論」で述べた通りの事態になったのは、自分(日蓮)の警告を無視したからだと主張。

諸宗の僧たちにも、自分の主張する仏法について公開討論をしてもよいとまで言い切っている。しかし、相手にする僧侶は一人として無かった。  そこで日蓮は、極楽寺の良観忍性(riyoukan・ninsiyou)が雨乞いの祈祷をすると聞き、「七日の間に雨が降れば日蓮は良観の弟子となる。降らなければ日蓮の弟子となれ」と挑戦した。

その後も日蓮の攻撃は止む事が無く、幕府に対しても歯に衣を着せず物を言って、自らの信念、他宗の憎しみは膨れ上がり、幕府も言いたい放題の日蓮を放置できなくなった。  文永八年(1271)秋、侍所(samuraidokoro)の所司(siyosi)・平頼綱(taira・yorituna)は松葉ヶ谷の日蓮の庵室に乱入、持仏堂を破壊、日蓮を捕えた。 (龍ノ口の法難)

平成二十五年癸巳・甲寅・丙子