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関東管領

室町幕府~戦国時代

2・関東管領・上杉氏

康暦元・天授五年(1379)三代将軍・足利義満(京都)のもとで管領・細川頼之(hosokawa・yoriyuki)と斯波義将(siba・yosimasa)の軋轢が高じ、頼之がが管領を辞すと云う騒動が起きていた(康暦の政変)(kouriyaku)。  この時期、鎌倉公方・足利氏満(ujimitu)はこの政治的混乱に乗じて幕府に対し謀反の動きを見せた、この動きに関東管領・上杉憲春は自害をして氏満を諌死したと云う。
鎌倉府・鎌倉公方邸跡石塔(代々の足利公方が居を構えた)
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明徳三年・元中九年(1392)  関東分国(関東八ヵ国に伊豆・甲斐)に陸奥と出羽の両国が加わり、鎌倉府の管轄となる。 この年に京都では南朝後亀山天皇より北朝後小松天皇に三種の神器が譲られ、両朝の講和が実現する(南北朝の合一)。

応永五年(1398)足利氏満が没して子の満兼(mitukane)が鎌倉公方となる。  満兼は、弟満直(mitunao)と満貞(mitusada)をそれぞれ陸奥の篠川(sasagawa)(福島県郡山市)・稲村(inamura)(福島県須賀川市)に置き、奥羽両国を鎮撫させる(満直を篠川御所、満貞を稲村御所という)

その後、幕府では、大内義弘が足利義満に対し反乱を起したが、討伐されるという事件が起きたが、これに鎌倉公方・足利満兼が呼応して出兵しようとしたが、管領・上杉憲定(norisada)(憲方の子)の諫言により思いとどまったと云う。

応永十六年(1409)足利満兼が没し、子の幸王丸(持氏)が鎌倉公方となる。この頃関東管領の上杉憲定が職を辞し、犬懸家の上杉氏憲(ujinori)(法名・禅宗。朝宗の子)が管領となる。   (鎌倉大日記)

応永二十二年(1415)上杉禅宗(zensiyuu)が関東管領を辞す。  持氏は禅宗を慰留せず、辞任を認めた。禅宗が辞意を表した理由は、家人の処遇を巡って持氏と対立したことによると云う。
上杉禅宗・・・・・犬懸上杉氏の出身。 関東管領として、若年であった鎌倉公方・足利持氏を補佐した。  しかし、持氏が山之内上杉家の憲基(norimoto)を重用する事に禅宗は不満を募らせ、管領職を辞任する。

翌年、足利満隆(mitutaka)(持氏叔父)と禅宗が公方・持氏に反乱を起こす(上杉禅宗の乱)。 鎌倉を奪われた持氏と上杉憲基は、駿河守護・今川範政(imagawa・norimasa)を頼る。  足利幕府は、範政と越後守護上杉房方(fusakata)らを禅宗討伐の為に派遣する。  これによって禅宗の乱は三カ月余りで終結した。 (鎌倉大日記)
上杉禅宗の乱・・・・・持氏の叔父満隆と連携しての反乱であったが、幕府の対応が早く短期間で決着が付いた。しかし、この反乱で鎌倉市中の重要な建造物の大半がが焼失しまったのである。この乱が起らなければ、現在の鎌倉にもう少し鎌倉時代の建物が残ったかもしれません。

平成二十四年壬辰・癸丑・丙午
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室町幕府~戦国時代

1・関東管領・上杉氏

永享の乱後しばらくして、足利持氏の子成氏(sigeuji)が空位となっていた鎌倉公方として鎌倉に下向するが、すでに長期にわたる政争で鎌倉公方としての権限は有名無実に近い状態であった。

この様な状況で徐々に戦国時代に移ってゆくのであるが、この様な時代に関東管領としての地位を得た上杉氏とはどの様な氏族だったのか、考えてみます。
伝・上杉憲方墓(鎌倉極楽寺坂・七層塔)(関東管領)
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鎌倉・上杉氏の始祖は、建長四年(1252)鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王(munetaka・sinnou)が鎌倉に下向した時に、親王に従ってきた藤原重房(fujihara・sigefusa)に始まる。  その時に賜った荘園の名を名乗ったと言われる。  「丹波・上杉荘」(京都府)・・・その後鎌倉幕府に仕え、勢力を蓄え発展した。  室町時代(1336~1573)には関東管領に任命される家になっている。

山之内上杉家の始祖・上杉憲顕(noriaki)は室町将軍・足利尊氏とは従兄弟の関係もあって、初代鎌倉公方(鎌倉府長官)・足利基氏(motouji)の補佐役として関東管領に就任した。     上杉憲顕・・・・・藤原重房から三代下る。

室町幕府が鎌倉に置いた統治機構・鎌倉府の時代に、上杉氏は最も隆盛を極め上杉四流と言われ、いくつかの家に分かれたが、大きく四流が発展した。(1)山之内上杉・・・(2)扇ヶ谷上杉(oogigayatu)・・・(3)宅間上杉(takuma)・・・(4)犬懸上杉(inukake)氏。   以上の四流である。  それぞれに館のあった場所に因む名前から採っている。
それらは何れも鎌倉中の地名であり、上杉氏先祖が鎌倉下向以来、この鎌倉を本貫(hongan)(本籍地)としていたことが覗える。

上杉氏は、関東管領として鎌倉公方の補佐役であり、鎌倉府時代の鎌倉に大きな影響力を持っていた。  特に上杉憲顕以後は、関東管領の職を独占継承し、鎌倉公方と並ぶ一大勢力となっていた。

その後数代下り、越後の長尾景虎(nagao・kagetora)が後北条氏に追われた上杉憲政(norimasa)の養子となり上杉家の家督を相続し上杉政虎(masatora)を名乗る、その後、関東の諸武将達によって関東管領に推戴された。  注目するのは上杉謙信(kensin)(政虎)の関東管領就任の儀式を鎌倉・鶴岡八幡宮で行った事。   宿命のライバル武田信玄との川中島合戦を戦い抜き、景勝(kagekatu)に引き継いだ、関ヶ原の東西決戦には直接出陣しなかったが、西軍に味方し徳川軍に敗れ、越後から米沢(出羽国)へと左遷されたが命脈は継続された。江戸時代には、あの忠臣蔵でおなじみの敵役・吉良上野の介の子息を養子に迎えたり独自の国・運営を行っている。上杉家は歴代、多くの名君を輩出しているが特に上杉鷹山(youzan)は藩財政の立て直しに成功した名君として列せられた。   こうして米沢・上杉家は明治期まで生き残ったのである。

話が大分それましたが、上杉憲顕の後を継いだのは山之内・上杉憲方(norikata)である。  兄能憲(yosinori)・憲春(noriharu)が死去した為に、家督を継承し、関東管領となった。  彼は、山之内に住居を定め十年余りの長期にわたって管領の要職を務め、山之内上杉氏の基礎を固めた。

平成二十四年壬辰・癸丑・甲辰

室町期の鎌倉Ⅱ

3・関東管領

鎌倉末期に南朝・北朝に分裂した天皇家も合一され、応永元年(1394)京都では、足利義満が将軍職を義持(yosimoti))に譲り、太政大臣となる。

鎌倉では、関東管領の上杉憲方が没し、上杉朝宗(tomomune)が管領に就任した。 朝宗は犬懸上杉家の系統で憲藤の子で朝房の弟になる。
伝・上杉憲方の墓(鎌倉・極楽寺)
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京都将軍と鎌倉公方間のトラブルの主たる原因の一つに、所轄に伴う任命権の問題があった。  京都将軍と鎌倉公方との間には、補任・被補任の関係はないが、将軍と関東管領(鎌倉公方の補佐役)・東国守護を補任していたのである。このことが幕府と鎌倉府との間に大きな対立を引き起こす原因となっていたと思われる。
(関東分国は鎌倉府の管轄であったが、その人事権は京都の将軍にあると云う関係である)

応永五年(1398)鎌倉公方・足利氏満が没し、足利満兼(mitukane)が公方となる。   同時代の関東管領は上杉朝宗であったが管領を辞し、山内家の上杉憲定が代わって就任した。

応永十六年(1409)鎌倉公方・足利満兼が没し、子の持氏が公方となる。同時期に上杉憲定に代わって犬懸家の上杉氏憲(ujinori)(法名・禅秀、朝宗の子)が関東管領となる。
上杉禅秀・朝宗邸旧蹟・石塔(鎌倉・浄明寺)
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東国の騒乱の幕開けは応永二十三年に起きた上杉禅秀(ueszensiyuu)(氏憲)の乱であった事、その発端は禅秀の家人の処遇を巡って鎌倉公方・足利持氏と対立した事によると云う。  

この乱がその背後に当時の支配関係をめぐる構造的な確執があった事が覗える。  しかし、その後の足利義持(yosimoti)の時代に、関東と京都の間にはどの様な問題が持ち上がり、また関東はどの様な政治・社会状況に置かれていたのであろうか。  上杉禅秀の乱自体は二カ月あまりで鎮圧されたが、問題は其のあとにあった。


当然ながら持氏は今度の戦で禅秀に味方した勢力の掃討戦が行われた、最初に攻撃されたのは「京都扶持衆」と呼ばれた、将軍の息のかかる関東の国人たちで、常陸の佐竹与義(satake・tomoyosi)等であった。  鎌倉公方の所轄地域内にいて京都の幕府と通じ、鎌倉公方の動きを牽制する役目を果たしていた。  公方持氏がこの機会にこうした連中を討伐しようと考えるは当然であろう。  やはり将軍にとって真の敵は鎌倉公方だったのであり、先の上杉禅秀の乱で持氏を支援したのは、政治的な判断ミスであったと言えよう。
「京都扶持衆」・・・・・鎌倉公方の指揮下にありながら京都の幕府と通じ、支援を受けていた武士達の事。

平成二十四年壬辰・壬子・甲午

関東管領・上杉謙信

中世鎌倉を論ずる上で忘れられない人がいる。  長尾景虎(kagetora)、後の上杉謙信(1530~78)である。 彼は、越後の守護代長尾為景の末子として生まれたが、実力で兄晴景(harukage)の後を継いで越後守護代の地位に付いた。

関東管領・越後守護、上杉憲政(norimasa)は、北条氏康によって関東を追われ、越後の長尾景虎を頼った。 景虎は永録四年(1561)に養父・上杉憲政から上杉家の家督を継ぎ、憲政の一字をもらって上杉政虎(masatora)(謙信)を名乗る。  精鋭部隊を率いて後北条氏攻撃の為に関東に入った。 そして、関東の武将たちによって関東管領に推戴され、はじめ足利藤氏(fujiuji)を古河公方として戴いたが、まもなく後北条氏(氏康)によって殺害された。後に、上杉政虎は藤氏の弟足利義氏(yosiuji)を古河公方として承認する。
鶴岡八幡宮・舞殿(鎌倉・雪の下)
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永録四年(1561)上杉政虎(謙信)は上杉憲政を奉じて上野に出陣し、上野から相模に入り、小田原に迫ったが攻めきれず、軍勢を還して鎌倉に入った。関東管領就任の儀式は鎌倉鶴岡八幡宮で行われ、憲政から管領職と上杉の名跡を継いだ。ここでは、戦国時代末期においても、関東管領と云う役職が関東の雄、いや戦国の覇者たらんとした者にとって、魅力のある役職であった事に注目する。(北条記)

上杉謙信の関東管領就任の事からも推測されるように、都市鎌倉は鎌倉幕府滅亡以後、歴史の表舞台から消えてしまったわけでは決してなかったのである。上杉謙信にしても、関東管領に就任していなかったとしたら、安全に関東を進軍する事は出来なかったはずであり、管領就任のメリットは大いに存在した。鎌倉の鶴岡八幡宮で就任式を開催する必要があったのである。

在りし日の大銀杏(鶴岡八幡宮)
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上杉謙信は鎌倉府体制に依拠して戦国の覇者たらんとしていたと言えよう。以後、謙信は管領として度々関東に侵入したが、甲斐の武田、駿河の今川と結んだ後北条氏によって阻まれた。謙信も鎌倉に魅せられた一人であったと思われる。

思うに、戦国大名には、二つのタイプが有る様に思う、一つは室町将軍を擁立し京都へ上り第二次室町幕府を志向するタイプで、織田信長は、その典型である。他方は上杉や後北条氏のように、鎌倉府体制に依拠して関東に独自の権力基盤を築き、関東の軍事政権であった源頼朝・執権北条氏の鎌倉幕府(第二次鎌倉幕府)を志向するタイプであった。それから、徳川家康は、大田道灌の築いた江戸城を拠点として選び、「吾妻鑑」を愛読して鎌倉幕府を理想としたように、どちらかといえば後者のタイプであったが、結局は、鎌倉・室町両幕府の限界を止揚した真に全国政権と云える新しい幕府を想像したのである。  この様に鎌倉府体制の鎌倉は、古河への鎌倉公方の移住などにより衰退していった。 さらに、戦国大名の隆盛により、小田原の城下に町衆なども移住している。

平成二十四年壬辰・乙巳・壬子

関東管領・上杉謙信と鎌倉

中世の鎌倉を論ずる上で忘れられない人がいる。長尾景虎(後の上杉謙信1530~78)である。
彼は、越後の守護代・長尾為景(tamekage)の末子として生まれたが、実力で兄晴景(harukage)の後をついで越後守護代の地位に就いた。
長尾氏について少し記して置く。  長尾氏は、相模国・長尾郷(横浜市・栄区長尾台)の出身というが、鎌倉・山ノ内上杉氏の家宰・奉行人として上杉氏領国の上野・武蔵・伊豆・越後の守護代を勤めた。
関東管領・上杉憲政(norimasa)は、北条氏康(後北条氏)によって関東を追われ、長尾景虎を頼った。
景虎は永録四年(1561)に、養父・上杉憲政から上杉家の家督を継ぎ、上杉政虎(uesugi・masatora)を名乗り、後北条氏攻撃の為関東に入った。
その後、関東の諸武将たちによって関東管領に推戴され、さらに足利藤氏(fujiuji)を古河公方として戴いた。  
注目すべきは、謙信の関東管領就任の儀式を鎌倉・鶴岡八幡宮で行ったこと、その時の彼は、後北条氏を滅ぼす一歩手前まで来ていた時で、いわば人生の絶頂期に立っていた。
鶴岡八幡宮・本殿
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舞殿
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こうして、上杉謙信により山内上杉家は、引き継がれ、後には出羽(山形県)の米沢の上杉氏として命脈が続くことになる。後北条氏が出来なかった関東管領就任を上杉謙信は達成できたのである。
戦国時代末期においても、関東管領という役職が関東の雄、又戦国の覇者たらんとした者にとって、魅力ある役職であったことに注目したい。
上杉謙信の関東管領就任のことからも推測されるように、都市鎌倉は鎌倉幕府滅亡以後、歴史の表舞台から消えてしまったわけでは無かったのである。
上杉謙信にしても、管領に就任していなければ、安全に関東を進軍する事は困難であったろう、管領就任のメリットは大いに存在し、鶴岡八幡宮で就任式を開催する必要を認めていたのである。
謙信にしても、鎌倉府体制に依拠して戦国の覇者たらんとしたと言えよう。  以後、謙信は関東管領として、たびたび関東に侵入したが、甲斐・武田氏、駿河・今川氏と結んだ後北条氏によって阻まれた。  謙信もまた鎌倉に魅せられた武将の一人であろう。
戦国時代の武将は、室町将軍を擁して京に上り第弐次室町幕府を目指すタイプで、織田信長を代表とするものと。他方上杉氏や後北条氏のように、鎌倉府体制に依拠して関東に独自の権力基盤を築き、関東の軍事政権であった鎌倉幕府(第二次鎌倉幕府)を志向するタイプと大きく二つのタイプがあったようだ。
徳川家康は、大田道灌の築いた江戸城を拠点に選び、「吾妻鑑」を愛読して鎌倉幕府を理想としたようだ。
鎌倉府体制の中心としての鎌倉は、古河への鎌倉公方の移住などにより、衰退していった。さらに、戦国大名の隆盛により、たとえば後北条氏の城下町である小田原等に町衆をとられていったのである。