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小田原北条氏

秀吉の小田原攻めと北条氏の滅亡

*上杉謙信・急死

天正六年(1578)三月に上杉輝虎(謙信)が急病で倒れた後、四十九歳の生涯を終わった後の沼田は、小田原北条氏の支配すところとなった。
上杉輝虎(謙信)が関東管領拝賀式を行ったとされる鎌倉鶴岡八幡宮の流鏑馬神事。
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惣領・養子に迎えられた三郎景虎は義理の兄・武田勝頼に裏切られ、頼みの小田原からの援軍も間に合わず、御舘に火をかけられ景虎方の武士は、残らず討ち死にしてしまった。

こうして上杉景勝は「御舘の乱」を制して越後の領主になったのである。  後日、敗れた景虎の義兄・武田勝頼がとった行為に、関東の武将たちは「勝頼は大欲に走って義理の通し方を誤ったとされ、惣領となるべく三郎景虎をあやめた」と勝頼を非難したという。  その勝頼も天正十五年、織田・徳川の連合軍によって敗れ、滅んで果てた。

謙信後の沼田は北条氏の支配するところなっていた、しかし、武田氏の指示に従って真田昌幸(sanada・masayuki)は上野を攻撃、これを手中に収め、さらに利根へと侵入し、上杉の残存勢を追って利根川東の北条勢と戦った。 その結果北条氏の沼田城代藤田信吉(fujita・nobuyosi)は、沼田城を昌幸に明け渡した。

その後武田が滅亡、織田信長が本能寺で討たれると、徳川家康は甲斐に侵入、甲斐・信濃を領有しようとした。それを知った北条氏直(ujinao)は、直ちに軍勢を甲斐・信濃に派遣し、甲斐国の一部を攻めとり、上州方面に軍勢を進めたが家康との間に和睦が成立。  和睦の条件は、武田氏の旧領地の内、甲斐・信濃は家康に、上野は北条の所領とし、さらに家康の娘督姫(tokuhime)を氏直の妻とするといった内容であった。

上野国は北条氏にといった約束だったが、家康の家臣真田昌幸は、その後も沼田に居座った。  家康の仲介が不調に終わり関白・秀吉の介入する所となったのである。

北条氏政は沼田が小田原北条の所領になった経緯を説明した。その結果沼田は北条の所領とすることで話がまとまったが、条件があったのである・・・・・氏政の上洛である。

秀吉の裁定で「沼田の中で名久留美(nakurumi)は真田家代々の墓所で有るので真田に授け、その他の地は北条が支配すべきである」との裁定が下った。  北条氏は沼田城に城代の猪俣範直(inomata・norinao)置いたのであるが、この城代がいけなかった、事もあろうにその「名久留美城」を攻撃して真田を追い出してしまったのである。

初めにも記述しましたが,沼田の名久瑠美城奪取事件は、秀吉に格好の口実を与えてしまったようです。 豊臣軍が箱根山を超えてきた情報が入った時、北条氏政・氏直は重臣達を集め徹底抗戦の構えを見せた。・・・・・

先年の越後の上杉謙信や武田信玄の小田原攻撃に籠城戦に徹して勝利した実績からの判断だと思われます。  だが兵力の差は歴然で結局は小田原城は無血開城・鎌倉玉縄城も無血開城しています。  (終)

*突然ですが一週間程度お休みします。・・・再開しましたらまた訪問お願いします。

平成二十六年甲午・甲戌・戊寅
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秀吉の小田原攻めと北条氏の滅亡

*早雲隠居

伊豆・相模両国を平定した早雲は、小田原城を嫡子氏綱(ujituna)に任せ、伊豆国韮山に隠居した。?・・・韮山はかつて成就院(茶々丸)を滅ぼし、伊豆の国を統治した地である。
後北条(小田原)氏の三つ鱗紋(大船・二伝寺本堂)
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北条早雲は永正十六年八月、八十八歳で伊豆国韮山で生涯を終えた。
早雲の跡を継いだ氏綱は、早雲が行っていた政道を受け継ぎ、仁義を貴び孝行を奨励し、長老をいたわって、忠臣には賞を与えて報い、義士には愛情を示して大切にする行動を領内に推進した。  そして、その恩義にあやかろうと、近隣諸国から商人たちが集まり始めた。

後北条氏は早雲に始まり、氏綱、氏康、氏政、氏直へと、五代にわたる小田原北条の善政と繁栄が小田原に展開されたのである。

天正十八年、秀吉が小田原を攻めるに当たっては、発端となる要素に、天下統一の構想実現の為もあったが、その誘因となる群馬・沼田にもあったようだ。

沼田は元来中世からの雄族・沼田氏が勢力を持っていた地域だが、一族の内紛によって滅亡してしまっった。  その後、隣国の上杉謙信が支配していた。  天正四年(1578)頃は、北条氏と上杉謙信との争いが続いていて、沼田は北条の支配地になったり、上杉のものになったりしていた。  謙信は信濃で武田信玄とも戦っており、沼田に対して手が回らなくなっていた。  謙信は和解を提案、北条から養子をもらって跡を継がせたいと申し入れした。

*上杉三郎景虎(kagetora)・・・・・北条氏康七男氏秀(ujihide),  北条幻庵(genan)の娘と婚姻、養子となっていたが上杉家に夫婦養子で入った。

上杉謙信は、長尾一族の長尾為景(nagao・tamekage)の子で、始めの名は景虎(kagetora)。  父の死後、上杉定憲(sadanori)が、為景死後の後継問題で紛争した時に調停した後、兄晴景(harukage)から守護代を譲り受けた。  その後、越後に亡命した上杉憲政(norimasa)から、上杉氏と関東管領職を譲られて上杉政虎(uesugi・masatora)と改名。

*上杉輝虎(uesugi・terutora)・・・・・関東管領・上杉政虎。  将軍足利義輝から一字をもらって輝虎。

元亀元年(1570)上杉輝虎(謙信)は小田原から三郎氏秀夫妻を迎え、上杉景虎と名付けて祝宴を催したと云う。  謙信には実子がなく、姉の子景勝(kagekatu)がいたが景勝の父・長尾政景(nagao・masakage)の行状に不審な行動があり家臣に命じて殺害した経緯があり、幼い景勝を育てたものの親の恨みを危惧していたようだ。その様な時期に北条氏からの養子を惣領として迎え入れ、上杉の家督を継がせたのです。  いざという時には小田原からの援軍があろうと期待したようだ。  こうして上杉の行く末の繁栄を考えたのでしょう。   (続)

平成二十六年甲午・甲戌・乙亥

頼朝以後の小田原

北条早雲とは・・・?続き。

伊豆の興国寺城に落ち着いた早雲は、京都にいた時仕えていた足利義政(yosimasa)の弟政知(masatomo)との縁もあり、伊豆国へ来たとも言われている。
伊勢宗瑞(早雲)が築城した鎌倉・玉縄城  (2012年は築城500年記念祭が行われた)
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足利政知(堀越公方)は関東平治の為、長禄二年(1458)秋には駿河の国府に到着し、さらに伊豆の国府(三島市)に入っている。  その頃、山之内、扇谷両上杉家は、武蔵と相模の境界付近で足利成氏(asikaga・sigeuji)(鎌倉公方)と交戦状態にあり、鎌倉へ入れずにいた。  室町将軍家公認の鎌倉公方として関東に下った足利政知は伊豆の堀越で足止めされた状態であった。

韮山城主だった外山豊前守(toyama)は政知に忠義を尽くし、優れた人物だったらしいが、何かのいきさつで外山を成敗してしまった。  外山に男子がいなかった為、生前から早雲に跡目を継がせようと早雲を婿に迎えたのである。 興国寺城からも近かったので、豊前守の死後、早雲は韮山城に移った。

早雲は生来の慈悲深さと民を慈しむ心に領内の民衆は親のように慕っていた。 文武両道に優れ、人一倍仕事に励み、謀りごとにも長けていた早雲は、今川義忠を頼ってきた頃は、義忠に忠義を尽くしていた。 義忠の子つまり姉の子竜王丸(tatuoumaru)は、早雲にとって甥だが、七歳の時元服して今川氏親(ujitika)と名乗ったが、そうした早雲を崇拝していたと云う。

延徳三年(1491)四月、堀越公方の足利政知は、五十七歳で死去した。  政知には三人の男子がいたが、長男義澄は管領・細川政元(hosokawa・masamoto)が京都に迎え入れて足利十一代将軍となり、三男は茶々丸(tiyatiyamaru)といったが、後に御所を継いで成就院(jiyoujiyuin)と名乗ったのである。 しかし、猛々しい性格で近習の侍たちが寄り付かず、国中は荒れていったと云う。

その頃、関東では、古河の成氏(sigeuji)と上杉勢との合戦が続いており、伊豆国の武士たちは関東に出兵し、御所は手薄な警備になっていた。  この時早雲は好機とばかり軍勢を率いて堀越を包囲一気に御所を焼き払い攻略した。  成就院茶々丸は自害して果て、御所方の侍は降伏。  早雲はそれ以来民衆から北条殿と称されたようだ。

成就院を討伐した早雲に伊豆国近隣の武将たちは降伏し、早雲の威光は高まり、ますます気力も増し、上杉討伐の策略をめぐらして居たと云う。   (終)

平成二十六年甲午・癸酉・壬申

頼朝以後の小田原

*北条早雲とは?・・・・・

早雲の出生はよくわかっていない。伊勢の関氏からの出自とも、室町幕府政所の執事を務めた伊勢氏の系統ともいわれ、生国は備中(岡山県)という説もある。  はじめて使った名前が伊勢新九郎長氏(isesinkurou・nagauji)といわれている。 早雲庵宗瑞(souunan・souzui)とは入道してからの名ともいい、いつ入道したかは解らない。  北条の姓は、早雲の子氏綱(ujituna)の頃から用いるようになったといわれる。
鎌倉のやぐら(報国寺・竹の寺)鎌倉・浄明寺
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永正十六年(1519)8月15日、早雲は伊豆の韮山(nirayama)で死亡している。八十八歳であった。  嫡男・氏綱はこの時三十三歳。

死後直ちに伊豆国修善寺で供養を施したのちに、小田原領内湯本に墓所を築き遺骨を納めた。・・・ 法名早雲寺殿天岳宗瑞。

小田原を本拠とした北条氏は五代にわたり城郭の整備を推進した。町屋、商家を取り込んだ城下町を抱合した大陸的な総構の構想によって築いた規模の城郭は五里四方ともいわれている。 西南に早川の流れ、南は相模の海、東は久野川水系で仕切られ、これらを取り巻く石垣山から塔之峯、明星岳、久野丘陵への尾根筋、酒匂川の流れが防御地形を形成している。

そして城郭は、大外郭、外郭、内郭、内城の四つによって構成し、二重の堀などを施して敵の攻撃に対して万全の備えを施し、最も籠城に適した城としても、大阪城、江戸城と共に数えられている。

その他、諸々の施策を行っていた。  特徴的なのは、伊豆国の百姓に宛てた文章に「虎印判」を押している。  そのころの早雲は「虎印判」を用いて、規定した基本政策書状にこれを押し印して、政策を推進していた。

*虎印判・・・・・小田原北条氏の公印。 上部に虎の造形が彫られ、縦横5cmの角印

早雲が伊豆国を手中にした説として、次のような内容もある。   初めは足利八代将軍・足利義政(yosimasa)に仕えていたが、義政が他界したのを機に、駿河に下り、足利一族であり駿河国の守護であった縁者の今川義忠(imagawa・yositada)を頼って、沼津・篠山にある興国寺の城に入ったと云う。

*今川義忠・・・今川義元の祖父になるが、妻は北川殿で早雲の姉である。

早雲の母は尾張国の出身で、鎌倉幕府十四代執権・北条高時の末孫の横井掃部助(yokoi・kamonnosuke)の娘である。伊豆の北条(地名)には横井一門が在住し早雲の親族といった関係である。

早雲の嫡男・氏綱が北条姓を名乗る様になったのもこのあたりが起源ではないかと考えています。・・・・・・   (続)

平成二十六年甲午・癸酉・己巳

頼朝以後の小田原

*早雲、本格的に相模侵攻する

北条早雲は永正七年(1510)、相模国高麗寺山(kouraijisan)(大磯町)に陣を構えていた。 伊豆と小田原を本拠と定めた早雲は、相模一帯を制するには三浦半島を勢力下としている三浦一族を攻略しなければならないと考えていた。  まずは岡崎城を攻略し鎌倉へと侵攻する事をもくろんでいました。
鎌倉への入り口江の島の夜景(腰越・小動神社から)
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*永正九年(1512)8月、北条早雲81歳。

岡崎城は、平塚市と伊勢原市が接する地域に、頼朝が勝利し、鎌倉に幕府を創設した頃に三浦一族の岡崎義実(okazaki・yosizane)が築いた城といわれ、要害堅固な城と評価されていた。 早雲が岡崎城を攻撃した時の城主は三浦義同(miura・yosiatu)でした。  まず扇谷上杉氏がいた大庭城(藤沢市・大庭)を攻め落とした早雲はその勢いを以て岡崎城を包囲した。  早雲と氏綱(早雲嫡男)(ujituna)が指揮する北条勢は、孤立した岡崎城に大挙して攻撃を加えた。

岡崎城も早雲の攻撃に落城、義同もこれまでと覚悟を決めたが家臣達に諌められ一旦は住吉城(逗子市)まで落ちた。 早雲の追撃は執拗で、住吉城も落城してしまった。  義同主従は、義同の嫡男三浦義意(miura・yosimoto)が城主の新井城(三浦郡・小網代)へと落ち延びた。


新井城は、義同の養父時高が築城した城だが、実子が生まれると養子にした義同が邪魔になり態度を変えたらしい、今にも殺害されかねない状況に、身の危険を感じた義同は小田原に逃れて出家し、道寸(dousun)と名乗ったが、家臣たちが時高の扱いに反対して義同の許に結集して、新井城を襲撃しこれを奪った経緯があります。

鎌倉に入った早雲は、義同の援軍に対する備えに、玉縄城(鎌倉市・大船)を構築した。  永正十三年(1516)、扇谷・上杉朝良の子朝興(tomooki)は、義同への援軍を率いて玉縄城を包囲したが、玉縄城の守りは固く、攻めあぐねた朝興勢はやむなく江戸へ引き上げてしまった。

新井城に入った義同は態勢を建て直しつつ上杉朝興の援軍に期待していたが、大船の玉縄城を攻め倦み攻略できずに江戸に引き返してしまった。  その後早雲は新井城の攻撃を開始しています。  城主・三浦義意は奮戦したが力及ばず敗れ落城した。  かくして頼朝以来の相模国三浦の豪族三浦氏は滅亡して、早雲念願の相模国平定が実現したのである。  (続)

平成二十六年甲午・癸酉・乙丑