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名門・金沢北条

「関東往還記」に見る叡尊

「Ⅲ」

弘長三年(1263)北条時頼没す。そのあとを継いだ時宗によって、文永三年(1266)将軍・宗尊親王は鎌倉から追われ、叡尊に帰依する事を望み最も熱心な女性の一人であった一条局も、同時に鎌倉から失脚した。他に、将軍側近勢力であった名越教時(nagoe・noritoki)も六年後の文永九年の二月騒動で、得宗勢力によって誅殺される事になる運命を、この時に担ったのである。

この様に、得宗勢力と将軍勢力が対立し、後者が追われる前の鎌倉中「平和」を、時頼の晩年に至って一時的な事とはいえ築いたのが、叡尊の鎌倉下向の意義であったと言えよう。「関東平均之帰依」という時頼の言葉は、政治的な記事が中心の「吾妻鑑」ではなかなか現れてこない、北条氏一門の女性達、摂家将軍九条頼経から公卿将軍宗尊親王の女房に至る多彩な女性の活動があったからと言えるでしょう。
「吾妻鑑」教本・第十五巻
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鎌倉の慈善救済事業

京都に習って鎌倉に「保」の制が施行された、鎌倉中に保々奉行所が置かれ、治安維持から土木工事、清掃事業、病院、死者の埋葬に至るまで、鎌倉幕府は政所を通じて奉行人に通達している。

*鎌倉中の橋の修理・道路の清掃。
*病人・孤子・屍等を道端に放置の禁制。
*無常堂の設置。


この新制から、弘長年間頃の鎌倉には、病者・孤子・死屍等の路地に棄てられる者が少なくなったことがわかる。幕府はこれに禁制を加えるとともに、路頭の清掃を行い、病者・孤子は無常堂に送られた。

次に、鎌倉の都市民衆に対する撫民政策の一環として造られた、孤児院と養老院・病院を併せた施設である無常堂も、市中の路頭の清掃との関わりでその存在が見いだせるように、幕府の直接担当者である保奉行人を通じた、警察権の強化と表裏をなす施設と言えるであろう。

そして、弘長二年、北条時頼は鎌倉に撫民政策を行い、鎌倉中の「平和」を維持する為に、叡尊を鎌倉に招くのである。「関東往還記」からは、鎌倉の慈善救済施設が無常堂ばかりではなく、さらに整備された形で存在した形跡が見えてくる。

平成二十五年癸巳・庚申・庚辰
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「関東往還記」に見る叡尊

「Ⅱ」

叡尊が鎌倉に下向する前年の弘長元年(1261)正月四日、北条時頼は十一歳の嫡子時宗をその庶兄時輔の上に着座させて得宗家の後継者であることを周囲に示した。その時宗に堀内殿が嫁すことで、時宗を時頼政権の後継者として確立する準備が行われた。

*堀内殿・・・安達泰盛の妹・養女

時頼政権の後見役と目される北条氏一門の長老、北条重時がにわかに病に倒れ死去した。また、三浦泰村の乱(宝治合戦)の残党が謀反を企てるなど、鎌倉中が騒動になり、夜に入って近国の御家人が鎌倉に駆けつける事件もあった。  (吾妻鑑)
「吾妻鑑・読み下し教本」・・・・・建久五・六年条2012_0904_090601-DSC02219.jpg

この様に弘長元年は、一見、強固な地盤を築いているように見える北条時頼政権が、時頼の晩年にいたって僅かなほころびを示す事件が起きた年であった。  こうした中で、叡尊は翌弘長二年、北条実時や時頼に鎌倉に招かれたのです。

弘長二年(1262)は、他の何年かとともに「吾妻鑑」が欠巻している年であり、北条氏執権政治護持の立場から「吾妻鑑」を叙述する事が困難を極める政治的事件があった年なのではないかと推測し、「吾妻鑑」の欠落の背景にも相当の政治的陰謀事件があった事が覗えます。

残念ながら、「関東往還記」から前記した政治的陰謀事件を裏付けるような記事は見当たらないが、しかし、「往還記」の記事で注目すべきは、北条氏得宗家を護持する勢力と並んで、叡尊に帰依した幕府御家人の中に、寛元四年事件(宮騒動)で前将軍・九条頼経(kujiyou・yoritune)を擁して北条時頼を除こうとした名越光時(nagoe・mitutoki)や新田頼氏(nituta・yoriuji)などの将軍勢力の名が見出せる。

鎌倉滞在中の叡尊には、北条一門の武士はもとより、鎌倉幕府関係の女性が多く帰依し、戒を授けられた事も特徴である。 その中心となったのは、叡尊に宿房を提供した中原師員の後家(亀谷禅尼)をはじめとして、一門の女房たちである。

ただし、北条時頼は叡尊を鎌倉に請じながら、将軍勢力の頂点にいる宗尊親王(munetaka・sinnou)が叡尊から菩薩戒(bosatukai)を受ける意向を持ったのに対し、書状で親王を諌め、結局、親王が叡尊から受戒する事は実現しなかった。

もう一人、謁見していない人物、後に宗尊親王(親王将軍)を失脚させた北条時宗(第八代執権)も何故か叡尊に謁していない、鎌倉中での歓迎ムードの中で、時頼は宗尊親王と嫡子時宗だけは、叡尊に接触する対象から外しているようにも思われる。 この辺りの理由は不明です。

もとより、叡尊には特定の政治勢力に偏る意図はなく、鎌倉における将軍勢力と執権勢力の対立を一時的とはいえ、平和的に和解させる意味をもったことは、確かであろう。  北条実時が叡尊のもとに参り、次のような時頼の意思を伝えています。すなわち、関東の人々が叡尊に平均に帰依したことを大いに讃え、将軍家による寄進として、西大寺に対し荘園を寄進しています。

平成二十五年癸巳・庚申・戊寅

「関東往還記」に見る叡尊(eison)

「Ⅰ」

「関東往還記」は、戒律を重んじ、慈善事業に尽くした仏教者として知られる奈良西大寺の長老・思円房叡尊(1201~90)が、弘長二年(1262)に北条実時と北条時頼の招請に応じて鎌倉に下向した際の記録である。叡尊の鎌倉下向に随行した弟子の覚證房性海(kakusiyoubou・siyoukai)が著者である。

叡尊・鎌倉下向への経緯と決意

弘長元年(1261)、北条実時の使者として入宋僧・定舜(teisiyun)が西大寺に詣で、叡尊を鎌倉に招請する実時の言葉を伝えた。北条時頼も同心の上で叡尊を鎌倉に請じたい。  もし下向したならば、法の為国の為莫大な利益となるであろう。長い間の逗留は強いがたいので、一夏の間でも下向する事を所望する。 云々。

翌年、見阿が重ねて実時の使僧として西大寺に到来し、終夜談話したが、その内容は定舜の言葉と異ならなかった。また、見阿は実時の書状を叡尊に示したが、そこには仏法興隆のため、自分自身の授戒のため、叡尊の鎌倉下向をこいねがう北条時頼の言葉も載せられていた。

当時六十二歳の叡尊は、衆生のため利益あるならば、たとえ地獄の炎に焼かれ、餓鬼道・畜生道の苦しみに困ったとしても悔やむべきではない、まして老身を顧み、遠路を痛むことがあってはならないと決心して、身を衆生に委ね、運を三宝に任せて鎌倉に下向する事を承諾した。

随行者・(読み方、省略)

*願円房盛遍

*理覚房靜弁

*本照房性瑜

*覚證房性海・・・「関東往還記」著者

*照道房寂澄

*賢心房寛秀

*覚眼房恵海

*明本房清源

*専法房證位

叡尊に随行した弟子中、叡尊の片腕ともいわれるのは盛遍、鎌倉のおける活動を扶助した僧としては、金沢実時の使者となった定舜等が主にサポートしています。

その他の随行者の中に、先に叡尊の西大寺流律宗(真言律宗)を広める為に関東へ下向し、最初の10年間は北関東の筑波山麓「三村寺」に入り、布教活動を、その後45歳で鎌倉に移り、そこを拠点に関東で活躍した忍性も随行者の一人である。

鎌倉時代に戒律復興と慈善事業に尽くした僧として、師の叡尊と並んで最も著名になるのは、叡尊の鎌倉における活動を扶助して北条氏の帰依を得、文永四年(1267)に鎌倉・極楽寺開山長老となった忍性である。
鎌倉におけるハンセン病患者の療養所・桑ヶ谷療養所跡(鎌倉・長谷)
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「関東往還記」上下二巻の現存する部分を内容で分けるならば、鎌倉に下向する往路の東海道紀行文と、鎌倉滞在中の記事に分けられる。

注目すべきは「関東往還記」が記された弘長二年(1262)は、「吾妻鑑」の記事が欠落している年であり、叡尊鎌倉滞在中の「往還記」の記事は、「吾妻鑑」が欠落している弘長二年の鎌倉幕府政治史の一端を知る史料として大変貴重な紀行文と言えよう。   (続)

平成二十五年癸巳・庚申・丙子

金沢文庫に隣接する称名寺

正安三年(1301)従来の梵鐘が壊れたので再鋳したとの記録が残る。

称名の晩鐘と言われ金沢八景の一つに数えられた鐘は二度目の梵鐘だ。物部国光、依光の作。  総高128・5㎝。中世の名鐘と言われるこの梵鐘は、現在も美しい響きを聴かせている。   未確認。

梵鐘が再鋳されたこの年の三月に北条顕時が五十四歳で没している。  嘉元二年(1304)称名寺開山・審海が没した(76歳)。明忍房釼阿(miyouninbou・kena)が二世となる。
近年、仏師運慶作の「大威徳明王坐像」の発見で話題になった称名寺・光明院
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徳治三年(1308)清涼寺式釈迦如来立像・造像
文保元年(1317)金銅の建立始まる
元亨二年(1322)講堂の建設始まる
元亨三年(1323)称名寺伽藍、浄土式庭園完成、結界を行う。


京都では後醍醐天皇らの討幕運動が活発となり、政情は不安定であったが、金沢・称名寺は最盛期ともいうべき時代を迎えています。

称名寺結界図が塔頭・光明院から発見された。

結界とは寺院が建物を建てたり、仏事を行う際に過ちが無い様にする為、清浄な区域と不浄な区域を確定しておくことである。 結界図はそれを図示したもので、三代目長老本如房湛叡(honniyobou・tanei)が作成させたと言い、浄域を朱線で囲んでいる。

さて、この結界図をアップする事が出来ませんが、楼門を過ぎると右手に鐘楼が、中央には苑池、さらに進み橋を渡り、中島を通り、その先に金堂・講堂と一直線に並んでいる

講堂の西側に両界堂、僧坊、三重塔、金沢北条氏の館である称名寺、新宮などが建ち、東側には、方丈、雲堂、庫院、無常堂、浴室、僧庫、地蔵院などが配され、これらの堂舎は朱線内の清浄域に描かれているが、朱線外には顕時、貞時らの墓所、骨堂などが見える。

堂々たる大伽藍の構えである。しかし、建長寺、円覚寺とは違った雰囲気を感じる、それは禅宗と律宗の違いなのであろうが、頼朝が奥州平泉の中尊寺や毛越寺(moutuj)にあこがれて建立した鎌倉二階堂の永福寺(youfukuji)をモデルにしたのではないかと推測されている。  池を中心に造られた鎌倉の寺院としては永福寺のみである。
また、京都での生活が長かった貞顕が、宇治の平等院などを参考にしたことは、十分に考えられる。


最盛期を迎えた称名寺であったが、その後まもなく保護者を失うことになる。

嘉暦元年(1326)北条高時は執権職を辞任、金沢貞顕が執権となるが即日これを辞したと言われる。  討幕と言う時代の流れをもはや止める事は出来ないと読んでいたかかもしれない。

執権職にいた北条一族のの本家は、幕府を動かし、鎌倉を、北条一族を守る為に血なまぐさい戦いをしてきた。分家である金沢氏は鎌倉のすぐ隣で学問をし、独自の道を歩んできた。禅寺を創ることもせず、権力の座も望まなかった。権謀術数を用いるよりも学問を好んだ。称名寺の歴史は、こうした金沢北条氏の歴史そのものなのでしょう。

平成二十五年癸巳・庚申・甲戌

金沢文庫に隣接する称名寺

鎌倉の町に通じる重要な出入口には大寺院がある。

山之内にある円覚寺、建長寺、山之内に至る手前の粟船(大船)には常楽寺が建てられている。
極楽寺坂切通しの入り口には極楽寺、朝比奈切通しの入り口に当たる金沢・六浦荘は安房や関東への海路、陸路の重要な場所であったが、ここに称名寺が配置された。
称名寺・山門(横浜市・金沢区)
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これらの寺院はいずれも大きく、みな北条氏によって建立されている。首都防衛の重要拠点を北条一族がすべて領有していたわけで、大寺院はいざという時の出城の役割を果たす目的も持っていたと思われる。恐らく称名寺も役割の一端を担ったと考えられる。

朝比奈切通しは、六浦の塩などを運ぶ経済ルートとして知られているが、同時にこの道は、いざという時に六浦の港から海上に脱出する緊急ルートと思われ、称名寺の裏山は東京湾の船の動きを監視する絶好の場所ではなかったかと考えられる。
*現在もその裏山は残されその推測は充分に考えられる。

武蔵国・六浦は北条泰時が執権に就く時、弟達にいまで言う財産分与で、実泰(saneyasu)に与えられて以来、その子実時・顕時(akitok)・貞顕(sadaaki)へと代々受け継がれ、貞顕の時に金沢氏を名乗った様だ。

称名寺を創建したのは北条実時で、当初は持仏堂だけであったと言われ、亡母の七回忌を執り行ったころから次第に寺容が整ってきた。最初は念仏寺であったが、奈良・西大寺の叡尊(eison)の鎌倉下向によって真言律宗に改められた。

叡尊については別の機会にリポートしますが、幕府にとって大きな変革と北条一族への影響をもたらして叡尊が鎌倉を去った後、金沢称名寺は妙性房審海(miyosiyoubou・sinkai)を開山に新しく歩み出した。

建治元年(1275)北条実時、金沢の別邸に隠退し、金沢文庫を充実する。 翌年、本尊・木造弥勒菩薩立像が造像され、この年の十月に実時五十三歳の生涯を閉じている。

弘安八年(1285)実時の跡を継いだ北条顕時(akitoki)、下総に流される。これは娘を北条家に嫁がせ勢力を伸ばしてきた安達泰盛(yasumori)を抑える為、執権・北条貞時が安達一族を滅ぼした。  「霜月騒動」が原因である。
安達泰盛は顕時の妻の父であり、その連座責任を負わされた事になる、しかし、下総へ流されるとき顕時はかなりの土地を称名寺に寄進していたと云う。顕時の後は貞顕(sadaaki)が継承する事になる。

*この北条貞顕が初めて金沢姓を名乗り、金沢貞顕と称した。

平成二十五年癸巳・庚申・壬申