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歴史

中世都市鎌倉研究の変遷

*鎌倉の石塔・周辺の風景・・再びスタート?

半月ほど休みました・・・まだ次にどの様な研究をリポートするか構想がまとまらないのが実情です。

大変申し訳ありませんが今しばらくお待ちください。・・・・・


平成二十六年甲午・四月一日   mituuroko                


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(続)権力の構造

*御恩と奉公

一方で、平頼綱によって滅ぼされた安達氏の当主・安達泰盛(adati・yasumori)は、御恩奉行(goon・bugiyou)として、御家人の奉公に報いる将軍の役割を代行する地位にあり、その裁定が公正であったことが顕彰されています。

蒙古襲来の際に奮闘した肥後国の御家人・竹崎季長(takezaki・suenaga)が甲佐大明神(kousa・daimiyoujin)に奉納した「蒙古襲来絵詞」(moukosiyurai・ekotoba)には、先駆けの功を認めてもらうために、季長がはるばる鎌倉まで旅して安達泰盛に面会し、めでたく恩賞を授けられる顛末が描かれています。 蒙古軍との合戦を描くと同じくらいの熱意をもって、安達邸の様子や、泰盛の容貌などが詳細に記録されています。

竹崎季長が「蒙古襲来絵詞」を作成したのは、首尾よく所領を得られたことを神に感謝するとともに、安達泰盛の公正な処置を讃え、無念に滅びた彼の魂を鎮魂するためだったと思われます。

*蒙古襲来と恩賞について

蒙古襲来に際して、幕府は配下の御家人ばかりでなく、「本所一円地住人」(honjiyo・itientijiyunin)と呼ばれる、皇族・貴族や寺社等の荘園領主の支配に属する者たちをも動員する総力戦体制をとらざるを得なかった。

その結果として幕府は、動員に応じた非御家人への恩賞をどうするかという、大きな問題を背負うことになりました。  蒙古襲来は、外部からの侵略戦争という意味では、日本史上ほとんど唯一にして最大の体験であり、これに対処する幕府は、奉公に対して相応の御恩という主従制の原則からいえば、恩賞が与えられなければならない。日本国内での武力衝突なら、敗れた者の所領が没収され恩賞に充てられるが、対外戦争ではその所領がないわけで恩賞地の確保に苦慮し、領主のいない土地、没収した土地の中で領主が定まらない狭隘な所領までを総ざらえし、さらにその内部を分割して、戦功のあった者に配分された。
しかし、御家人が自ら認識する「功」と、幕府の認定が食い違うなど問題は続出した。

*霜月騒動の評価

蒙古襲来という未曽有の国難に際し、執権・北条時宗とともに、総力戦を戦い抜き、戦後処理に尽力したのは安達泰盛です。  時宗が三十四歳の若さで没した後は、執権職を継いだ時宗の嫡子・貞時を支えて、多くの法令を発し、幕政の安定に努めた。  泰盛の一連の政策は「弘安徳政」(kouan・tokusei)と呼ばれる意欲的なものだったが、弘安八年の霜月騒動により、安達一族は滅ぼされてしまうのである。

平頼綱という悪役の活躍によって、幕府は変革の機会を失ってしまった。頼綱は歴史的悪役として葬られ、幕府は元どおり「御家人のための幕府」として存続ことになった。 蒙古襲来を経験した社会は、もっと多くのものを幕府に期待し、要求して行きました。  (終)

平成二十五年癸巳・乙丑・辛亥

(続)権力の構造

*本当の権力者

中世、婚姻関係によって勢力を拡大することは一般的に行われ、鎌倉でもこの方法は大いに利用された。しかし、将軍や得宗と姻戚関係を結び、幕政を盛り立てるべく励んだ一族は、そのために危険視され、族滅に追い込まれた事もある。まさに骨肉の争いで、政争に明け暮れる。・・・建仁三年(1203)に滅ぼされた比企(hiki)氏(二代将軍頼家の妻を出した一族)をはじめ、宝治(houji)合戦(宝治元年・1247)の三浦氏、霜月騒動(simotuki・soudou)(弘安八年・1285)の安達氏など、多くの例がある。
比企氏一族の供養塔・妙本寺(鎌倉・大町)
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武家政権・幕府というと、将軍のもとに主従制によって編成され、御恩と奉公という双務的関係によって結びつくと言われてきましたが、現実には鎌倉幕府の将軍は実権を奪われ、政治の実務から隔離されてしまった。そうなると奉公の対象はどこにあるのか。・・・鎌倉幕府体制そのもの、「御成敗式目」の制定による法や裁判による公正な裁定・処遇によって担保されていたと考えられる。

幕府の発足時には、頼朝という源氏の御曹司、武家の棟梁をいただき、その人格のもとに武士が馳せ参じるという構図が設定されていた。  平氏に対し挙兵を決意した段階で、頼朝は有力武士ひとりずつに、「お前だけが頼りだ」といって協力を求めたという。  (吾妻鑑)

頼朝と個々の武士との一対一の人格的結びつきが、鎌倉幕府を支えた基本的な関係であった。しかし、実際には頼朝と武士との関係は一対多の関係であり、幕府の基盤は初めから欺瞞に満ちていたことになる。

つぎに、源氏将軍が絶え、将軍権力が否定されたために、傑出した要素を持つ権力者と従者との関係は成立しなくなり、代わって北条氏が政治の主導権を握ったわけだが、主人に代わる条件として設定されたのが、法による公正な判断であった。  幕府の命令に従って行動すれば、保証と報酬が与えられるという確約でありました。この場合の判断とは、特定の人格による決定ではなく、法律に従って判断され、判断される主体は誰であっても良いことになる。  法令を守り、正しく理解する者であれば、北条氏である必要はなく、北条氏は他の御家人に取って代わられる可能性が有りました。

有力御家人を次々に葬るのと並行して、 北条氏は多くの分家を生み出して膨張していった。権勢を増す得宗家は家政機関を整え、御内人(miutibito)と呼ばれる家人を多く抱えるようになる。御内人の中の最上位が内管領(utikanrei)で、得宗に代わって権力をふるいました。

霜月騒動で安達氏と対立した平頼綱(taira・yorituna)はその内管領の代表。しかし、その独善性は目に余ったらしく、将軍の地位を狙っているとの噂をかけられて、主人・得宗貞時によって誅殺された。  (平禅門の乱)(heizennmon・ran)         (続)

平成二十五年癸巳・乙丑・己酉

鎌倉以降の権力構造

*中世・本当の権力者は?

公家政権に於いても、武家政権に於いても、本来の政権の主宰者は背後に後退させられている。天皇位は、幼い子供のうちだけで、実際に権力を発揮できるのは、天皇位を退き上皇(院)になってからで、息子や孫を天皇位に据え、天皇に対する父権に基づいて政権を握る上皇が「本当の権力者」です。

また鎌倉幕府にあっても、将軍が権力を行使しのは初代の頼朝だけで、二代頼家・三代実朝は、側近達の権力闘争の中であっけなく憤死しています。その後の将軍は、京都から摂関家の子息や親王を迎えるようになったが、いづれも成長したり、周囲に側近団が形成されるようになると、陰謀をめぐらし犯罪者のように京都に送還されました。
白旗神社・鶴岡八幡宮境内(祭神・源頼朝・実朝)・・頼家は祀られていない?
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鎌倉幕府の滅亡後日本の首都が京都に遷り、室町幕府が足利尊氏によって第二の武家政権が発進しましたが、もう一度権力の推移を検証しながら、簡単におさらいをすることにしました。

鎌倉幕府に於いて将軍に代わって権力を握ったのは、頼朝の妻政子を出した北条氏である。北条氏は伊豆国の下級の在庁官人クラスの出身で、千葉や小山・三浦などの名族御家人に比べると確かに見劣りする家柄であった。将軍を補佐し、また将軍の意に沿って「執権」として政治を主導するが、その地位を保つために、歴代の将軍が独自の権力を形成しないように監視し、引きずりおろし、さらにライバルとなる御家人たちを次々と倒し権力を伸ばしていったのです。

拡大する権力は、その担い手の一族をも拡大させる。幕府権力の成長・充実とともに、幕政を担う重要な役職が北条氏一門で占められるようになり、同氏は多くの家に分家し、そのメンバーは増大する。一族の拡大により、北条氏嫡流の当主は「得宗」(tokusou)と呼ばれるようになり、これが同氏の頂点に立ち、政治の実権を握る。「執権」・「連署」(rensiyo)などの幕政上の公式な役職の意義は後退した。「得宗」はそれらの役職から独立した権威・権力の源泉となった。

鎌倉幕府の内情を見ると、実に陰惨である、北条氏は自らの優越を確保するため、有力御家人や京都から下ってきた将軍などについて、謀反や陰謀計画をでっち上げ、武力で潰していった。  源氏の血を引く者、将軍に近侍する者、京都朝廷と縁故を持つ者などは、北条氏によって、ことごとく危険分子として排除された。

さらに北条氏内部にも、得宗を脅かす可能性のある者、容赦なく粛清されました。・・・・・(続)


平成二十五年癸巳・乙丑・丁未

北条氏のつくった街・鎌倉

3・北条泰時の都市開発

Ⅰ)世代交代

元仁元年 北条義時(yositoki)の死去から伊賀氏事件起きる。

北条泰時の家督継承と将軍家後見の役職として、執権、別当二名が定例化する(執権・連署)。それとは別に、将軍家の後見として北条政子が政務を聴断する立場の保持に成功している。   北条泰時の家督継承を誰が主導するかを巡る北条政子と伊賀氏(北条義時夫人)の対立(伊賀氏事件)が起きている。
北条泰時菩提寺・常楽寺(鎌倉・大船)
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北条政子が政変に勝利したことによって、家長になった北条泰時に家政機関を整備させ、兄弟に遺産を厚く分配させた。  分家の成立である。

*遺産相続

分割相続によって、多くの分家が成立する。・名越(朝時)・極楽寺(重時)・常盤(政村)・金沢(実泰)・伊具(有時)、これらの家が得宗家を取り巻く北条一門として繁栄したことにより、北条家が全体で巨大化した。

北条泰時の小町亭(北条執権邸・現宝戒寺)。山之内庄(常楽寺・大船)を開発して本拠地としていく。
嘉禄元年(1225)北条政子・大江広元死去。   鎌倉幕府草創の世代が終る。 以後、北条泰時・北条時房・足利義氏・三浦義村といった六波羅駐留組が政権を主導するようになる。将軍家と幕府の中枢が京都の正治と文化を理解する親京都派で固められ、鎌倉幕府は急速に政治の水準を上げることになる。

執権としての地位を確定した北条泰時は、嘉禄元年に将軍御所を大蔵から若宮小路の宇都宮辻子に移転している。以後、将軍家の鶴岡八幡宮参拝は行列を組んで移動する事になる。若宮大路が神仏の通る道の他に、儀式の為の道と言う新しい性格を持つようになっていく。

Ⅱ)鎌倉都市空間の範囲

「吾妻鑑」元仁元年(1224)十二月二十六日条

廿六日戊午、此間、疫病流布、武州殊令驚給之所、被行四角四境鬼気祭可冶対之由、陰陽権助国道申行之、謂四境者東六浦・南小坪・西稲村・北山内云々。
*武州・・・北条泰時

北条泰時が疫病の流行により、四角四境の鬼気祭を行う。  四境とは、東は六浦、南は小坪、西は稲村、北は山内といい、 当時の鎌倉の外側の範囲を示している。中世の鎌倉では疫病流行に際して、その削除祈願がおこなわれた。

4・山ノ内の開発(泰時以降)

北条氏の本拠地として山之内が開発される。  得宗家の山之内邸で、寄合が開催される(得宗家会議)、幕府に提案する基本方針を定める(神秘の御沙汰)。

山之内開発の中で、禅宗の興隆が目覚ましく、大きな寺院が建立される。・・・得宗

*北条時頼・・建長寺(開山・蘭渓道隆)  得宗家
*北条時宗・・禅興寺(開山・蘭渓道隆) 得宗家(廃寺) 
*北条時宗・・円覚寺(開山・無学祖元) 得宗家
*北条師時・・浄智寺(開山・大休正念) 時宗弟(宗政)・嫡男

いずれも鎌倉市・山之内に建立され現在まで残されている、鎌倉・五山、第一位・第二位・第四位と禅興寺は明月院と言う塔頭のみが残るが「アジサイ寺」として全国区の名声を得ている。

平成二十五年癸巳・己未・辛丑