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鎌倉公方

足利氏(源氏)の盛衰

3・足利尊氏(鎌倉)の菩提寺・長寿禅寺

北鎌倉から巨福呂坂に通じる県道を行くと、建長寺の手前右側に長寿寺の大きな銀杏の木が見えてくる。この寺の脇の小道は、亀ヶ谷(yatu)をへて扇ヶ谷(oogigayatu)へ抜ける古くからの切通しで、鎌倉散策の人気コースである。
足利尊氏の墓(鎌倉・長寿寺)(遺髪)
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宝亀山(houkisan)長寿寺は、建長寺の末寺だが、もとは足利尊氏の菩提を弔うため、初代鎌倉公方の足利基氏(motouji)によって建立され、開山は古先印元(kosen・ingen)。今でこそこじんまりしてしまったが、当時は七堂伽藍を備えた関東諸山第一の大寺であった。

しかし、天皇に弓引く尊氏の寺という事で、この寺も辛い思いをした時代があったらしい。  記録によれば、逆賊の寺という事で、寺を守る僧がおらず、それを見かねた在家の篤志家が保護をしてきたことがあったと云う。

現在は、週末のみ拝観の出来るシステムの様だが、手入れのいきとどいた庭が美しいい。境内には、尊氏の束帯像を祀るお堂があり、像の腹中には、京都・等持院(toujiin)にある廟所から招来した尊氏の歯が納められていると云う。また裏手の崖の下には、尊氏の墓とされる宝筺印塔がある。

ある記述によれば、境内の南側一帯が尊氏の屋敷跡だと云う。 しかし、屋敷跡は岩屋堂付近であるとか、浄明寺地区の泉水橋北側一帯が「御所の内」あるいは「公方屋敷」といわれていることから、公方屋敷があったと伝わる。鎌倉公方がみな尊氏直系の子孫であることを考えると、そこに尊氏の屋敷があったと考えるべきであろう。
足利公方邸旧蹟(鎌倉・浄明寺)
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室町幕府は、応仁の乱がきっかけで滅亡に向かうわけだが、鎌倉はそれ以前に壊滅的な打撃を受けている。 鎌倉の主となっていた足利成氏(sigeuji)(鎌倉公方)が公儀を蔑にしたと云う理由で、幕府は駿河の今川範忠に鎌倉征伐に当たらせ、御所を初として神社・仏閣を焼き払ってしまった。  (鎌倉・大草紙)

当然尊氏を祀る長寿寺も戦火に消え失せたであろう。歴史の華やかな舞台鎌倉も、短期間のうちに消え失せ、威勢のよかった武将の屋敷も、僧たちが厳しい修行に明け暮れる禅道場も消えてしまったのだろうか?

平成二十五年癸巳・丁巳・辛丑
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足利氏(源氏)の盛衰

2・足利氏ゆかりの報国寺(竹の寺)
開基・足利家時の墓(報国寺裏手のやぐら群内)
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竹の寺で有名なこの寺も足利氏と関係の深い寺だ。 滑川に架かる華の橋をわたり、ゆるい坂を登った所にある。
足利尊氏の祖父・家時の建立といわれていますが、上杉重兼だと云う説も有ります。境内には家時の墓も有り、室町幕府と戦って敗れ、鎌倉を焼き尽くされた時の四代鎌倉公方・足利持氏の嫡男・義久の墓がある。父とともに戦った義久はこの報国寺で自刃している。


足利氏一族が代々住んでいたのも、金沢街道沿いである。街道を朝比奈方面に進みバス停青砥橋と泉水橋の北側一帯が足利公方屋敷跡の敷地で、お屋敷という地名も残っていたと云う。足利尊氏も直義もここから出陣している。尊氏の子、基氏も九歳で京都から初代鎌倉公方として鎌倉に移り、鎌倉御所を開き、公方屋敷とした。

そして幕府軍から鎌倉を守り切れず下総古河へ移った足利持氏(motiuji)が最後の主であった。  京都の室町幕府に抵抗した東国武士の本丸的な公方屋敷も、現在はすっかり住宅地に変貌している。

盛者必衰は世の習いとはいえ、鎌倉における足利氏の歴史は悲劇的なものが多い。波乱の時代だったせいもあろうが、敗者に対する冷酷な仕打ちが悔やまれる。  持氏が幕府軍に敗れた時、恐らく足利氏にゆかりのある寺などは徹底的に破壊され、焼き尽くされたと思われる。

しかも、逆賊としての汚名を明治時代、昭和の軍国時代まで引きずり、寺院の復興もままならず、消滅してしまった寺院が多いと聞く。 鎌倉期よりも新しい時代にもかかわらず、室町期の巨刹が今日存在しないのも、この辺の事情ではあるまいか。

足利尊氏の腹違いの兄、高義(takayosi)を弔った延福寺(enpukuji)、弟直義の建立した大休寺(daikiyuji)なども、浄妙寺の付近にあった様だが、今ではその場所も判らない・・・・・。

平成二十五年癸巳・丁巳・巳亥

足利氏(源氏)の盛衰

1・足利一族と金沢街道

鎌倉から東に向かう金沢街道、鎌倉時代は重要な経済ルートであった。  六浦の塩や湊にあがる東国の物資はこの道を通って鎌倉に運ばれてきた。
朝夷奈切通し・石塔(鎌倉・十二所)
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当然山越えをしなければならず、鎌倉七口の一つ、朝比奈の切通しが難所になっていた。この切通しは、執権・北条泰時のころ、和田義盛の三男で朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたと云う伝説があるが、この頃には和田一族はすでに北条氏によって滅ぼされていたので、後世に加えられた英雄伝説でしょう。

開発が進む鎌倉だが、朝比奈切通しは今も当時をしのばせる風情のある山道である。塩売りの商人たちは、切通しを下ると、塩嘗地蔵に必ず塩を備えたと云う。その石の地蔵は現在は光触寺(kousokuji)境内に移され、現存している。

さて、この金沢街道だが、足利氏ゆかりの場所が多くある。  鎌倉五山第五位、稲荷山浄妙寺もその一つ。

足利氏の祖、足利義兼(yosikane)が真言宗の極楽寺として建立したのが始まりである。開山は退耕行勇(taikou・giyouyu)である。  北条政子、実朝等が師と仰いだ高僧である、強力な援護もあったようだ。  義兼は、妻が政子の妹、母は頼朝の母と姉妹、つまり源義家の曽孫に当たると云う名門。

真言宗から現在の臨済宗に変わったのは、蘭渓道隆(rankei・douruu)(建長寺・開山)の弟子、月峰了然(getupou・riyounen)が住職をしていたころの正嘉年間(1257~59)。  後に義兼から六代目に当たる足利尊氏が、父貞氏を弔い、その法名から浄妙寺となった。

当時は、七堂伽藍、塔頭二十三院を数える巨刹だったが、今は本堂の他総門、客殿、庫裏等で伽藍を形成している。本堂裏には、中興の祖、足利貞氏の墓と伝わる美しい宝筺印塔がある。裏山には藤原鎌足が鎌を埋めて祈願したと伝わる鎌足稲荷があり、鎌倉の地名の起源伝説が残る。

平成二十五年癸巳・丁巳・丁酉

室町期の鎌倉Ⅳ

5・永享の乱と鎌倉府

永享の乱(eikiyou・ran)とは, 室町幕府と鎌倉府との戦い、換言すれば全国統一政権の樹立を目指す幕府と鎌倉幕府以来の東国政権の伝統をくむ鎌倉府との長い抗争の歴史は、この永享の乱をもって一つの決着をみる。
扇ヶ谷・上杉、関東管領屋敷跡石塔(鎌倉・扇ヶ谷)
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「永享の乱」とよばれる、室町幕府と鎌倉府との破局は永享十年(1438)に戻る。
この年、持氏の嫡子・賢王丸(義久)の元服の儀が鶴岡八幡宮で執り行われた際、慣例によって将軍の偏諱(henki)を請うべきとする関東管領・上杉憲実(norizane)の諫言が聞き入れられず、ついに憲実は持氏を見限って、自らの分国・上野に帰国している。
偏諱(henki)・・・・・嫡子賢王丸元服の際、室町将軍より通常「一字」を拝領する慣例がある。

この様な上杉憲実に対して鎌倉公方・持氏はこれを討とうと武蔵・高安寺に布陣したため、憲実は幕府に通報した。  こうした関東の非常事態に対して、足利義教(将軍)は持氏との対決の意志を固めてゆく。

この時幕府が天皇(後花園)の綸旨を獲得し、これを大義名分として全国の武士に持氏追討を指令した。天皇の持つ伝統的な権威が敵方勢力に勝るために効果的であった。駿河守護今川範忠・陸奥篠川御所満直らに出兵を命じる。  (永享の乱)

永享の乱はここに火ぶたが切られた。  憲実の帰国は前もって幕府と示し合わせたうえでの行動と考えられている。綸旨(rinji)や錦の御旗の獲得といい、追討軍の派遣といい、幕府が討つ手は実に手際がよかった。  時間が経つにつれ、持氏に味方する国人たちの中に勝算なきを悟り、寝返る武士が多く出始めた。勝敗はさしたる戦いを交えず決した。   足利持氏(鎌倉公方)は武蔵称名寺に於いて出家、上杉憲実(関東管領)は持氏を鎌倉永安寺(youanji)(廃寺)(二階堂)に収容し、持氏の赦免を幕府に願い出たが、将軍義教はこれを許さなかった。

永享十一年(1439)、憲実は幕命に抗しきれず配下に永安寺の持氏を攻めさせる。持氏は抗戦するも叔父満貞(mitusada)(稲村公方)と共に自害した。(建内記)
憲実は家督を弟清方に譲り、翌年出家して公務から離れている。

こうして永享の乱自体は終結したが、永享の乱が東国社会に与えた影響は大きかった。将軍・義教は勝利によって東国の直接支配が可能となると考えたかもしれないが、実際には東国はますます幕府の支配から離れ、政治的結集の中核を欠いた東国の社会状況は、この地域の自立の傾向に拍車をかける結果となった。

平成二十四年壬辰・癸丑・戊戌

室町期の鎌倉Ⅲ

4・鎌倉公方・京都将軍の対立

こうした関東の情勢は、幕府側を悩ませ、遂に公方・持氏を討伐せんと将軍・義持が今川範政(imagawa・norimasa)の軍勢を発向させた。京都と鎌倉との緊張感は否応なしに高まったが、翌応永三十一年(1423)持氏が義持に和睦を申し入れ、衝突の危機は一旦回避された。
足利氏ゆかりの寺院・鎌倉五山第五位浄妙寺(鎌倉・浄明寺)
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さらに足利持氏より義持に刃向かわない旨の、「誓文状」が幕府に堤出された。 この持氏の急な方針転換は何を意味するか、・・・翌年になると意外な持氏の魂胆が見えてくる。 

其の魂胆とは、持氏自身が義持の猶子として将軍家に入り、将軍職を継ごうと云うものであった。  二人の年齢関係でいうと義持が持氏より十二歳年長であったが、義持の嫡子・義量が十七歳で将軍職を継ぎ、義持は出家を遂げていた、しかし、義量は二年足らずで没してしまった。こうした幕府の事情が持氏の態度を変えさせたと考えられる。

公方・持氏は正式に建長寺長老を使者に立て幕府に条々を申し入れた。内容の第一は「将軍には後継の子息がいないから、自分が養子となり将軍職を継ぎ、義持に奉公をしたい」というものであった。  この難題に対し将軍義持は使者の建長寺長老に対面しなかった。

提案は将軍にとって「難儀」であったが、逆に持氏にしてみると、そこまでしても将軍職に就きたかったのである。 それは歴代鎌倉公方にとっての宿題でもあった。一蹴された持氏の腹の虫は到底おさまらない。  将軍と鎌倉公方との確執は次の段階へと高まっていく。

やがて義持が没するので、対立関係は六代・足利義教(yosinori)に持ち越された。両者の対決は義教の時代に一層激しさを増した。  年号が正長~永享に変わっても鎌倉府は「正長」を用い続けた。  さらに持氏が上洛するとの風評が立ったが、関東管領・上杉憲実(uesugi・norizane)の諌止などがあって、一旦沙汰やみとなった。持氏の上洛とは名目で実質は軍勢を率いてのデモンストレ-ションであったろう。
持氏を戴く鎌倉府は、親幕府の立場にある白河氏の攻撃を行い、一方で和睦の使者を上洛させる。 幕府は持氏に代わろうとする足利満直(mitunao)「篠川御所」とその与党に白河氏の援護を命じ、使者には将軍との対面を許さない。 満直を尊重する将軍・義教などと、鎌倉府との和睦を目指す有力守護達の間で駆け引きが続き、ようやく二年後、義教は鎌倉府の使者と対面し、和睦が成立、鎌倉府も永享年号に変わる。

平成二十四年壬辰・癸丑・丙申