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腰越状

源義経・腰越状の真実

*「吾妻鑑」から見た腰越状・・・続き

腰越状は吾妻鑑・平家物語・義経記等に収録され、腰越の満福寺にも保存されています。 腰越状の実在したことは確かだと思われますが、現存する文章は何れも真偽のほどは不明です。その中で比較的分量が多く、内容がしっかりしているような印象を受ける「吾妻鑑」の元暦二年(1185)5/24条に残る腰越状をみると、義経の熱い思いがこめられていれ、胸を打たれるでしょう。かなりの長文なので要点を記してみます。
義経・滞在の満福寺(鎌倉・腰越)山門・・・・・踏切は江ノ電
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左衛門尉源義経、恐れながら申し上げ候。・・・とはじまり、当然恩賞に預かるべきところ、心外にも悪逆な讒言によって、自分に対する莫大な勲功を停止なさいました。罪を犯すことなしにお咎めをこうむりました。功績あること、疑う余地はないのですが、御勘気に触れましたので、慙愧の涙を禁じ得ません。

「悪逆な讒言」とありますが、そのような事実を意識はしていたのだろうが、恨み言はなく、兄の仕打ちに抗議もしていません、自分のしたことは決して身の栄達を目的としたことではなく、源家の名誉回復の為であることを強調し、讒言を乗り越えて、兄の共感を得ようとしています。

義経としては当然のことを述べているのだと思われますが、・・・代官に選ばれ「勅宣の御使」として朝敵を傾け云々・・・、が良くなかったようだ。そのことは頼朝だけが特に口にすべき言葉であったのでしょう。義経にとってはタブーのはずだったからです。

頼朝が奥州遠征に進発するときには、勅許が得られなかったことを大変に気に病んでいたようです。頼朝は征夷大将軍として東国を統括し、朝廷に直結していると考えていたのです。義経などが間に介入することを嫌ったものと思われます。頼朝が承知しない状況で「勅宣の御使」などというものは存在しないのである。

義経としては、そのような兄の心底を十分に理解する必要があったのではなかろうか。

本来は武家の家に生まれながら、父母の愛に恵まれることが薄く、諸国の流浪に明け暮れた不幸なわが身の上を回想し、兄と同じ運命をたどったことを力説する。 先々で頭を下げての日々を過ごした悔しさは、兄だからこそ理解してくれると信じたに違いない。

長文のかなりの部分を省略しましたが、最後に重ねて源家の繁栄に言及している点を重要視する。公文所別当を仲介とする表沙汰の文章の中で、讒者とのせりあいに勝ち目は無いと判断したであろうし、あくまでも源家の繁栄を願ったのです、その点は立派だと思います。

頼朝は肉親として一応耳を傾けるべきだったと思う、あまりにも冷たすぎる感がする、もう少し真剣になって事実の究明に乗り出すべきだった。先入観にとらわれすぎたようだ。  事態の本筋に迫る方法がないまま、趣旨を空回りさせている、そこに「腰越状」の真の悲劇性があるのではないだろうか。  自己主張のチャンスを完全に剥奪され、やがてそのまま死地に追いやられた痛恨だけが永遠に残されたようです。
   (終)

平成二十六年甲午・庚午・辛巳
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源義経・腰越状の真実

*「吾妻鑑」から見た腰越状

寿永三年(1184)は、平家が全滅した重要な年だが、吾妻鑑の記録から、義経の身の上の変化を検証してみると、大変に大きな変化が起きていることが理解できます。
鎌倉・腰越の万福寺に残される「腰越状」の写し
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吾妻鑑の記録から・・・。

寿永三年(1184)2/15条  源・範頼・義経の飛脚が一の谷合戦の記録を鎌倉に献上した。

元暦元年(1184)6/21条  義経がしきりに官職への推挙を臨んだが、頼朝はこれを許さなかった。

同年         7/03条  頼朝は宗盛以下の平氏を追悼するため、義経を西海に派遣するよう天皇(後白河)に申請した。


同年         8/06条  頼朝は範頼他、有力御家人多数を集めて、西海へ進発させるための壮行会を行ったが、その中に義経の名は無かった。

同年         8/08条  頼朝は範頼を総大将に一千余騎を進発させて、西海に赴かせた、稲瀬河に桟敷を設けて一行を見送った。その中に義経の名は見えない。

同年         8/17条  義経の使者が鎌倉に参着した。 左衛門尉に任ぜられた事を報告した。対して頼朝は激怒し、西国追討使の役職を保留にした。

*義経の弁解・・・・・自分から望んだのではない・・・たびたびの勲功に対しての朝廷からの任官要請を固辞出来ませんでした。

頼朝は七月の時点では西海追討使の責任者を義経と定めて、朝廷に上申しておきながら、翌八月にはそのメンバーから完全に義経を消してしまっている。 僅か一、二か月の間に一体何が起こったのか。よほどの事態が発生したに違いないが、その真相を知ることはほとんど不可能に近い。実兄から受ける処遇があっという間に豹変したとなると、義経のショックがいか程のものか、想像に余りある。・・・

その間に、義経は数々の不本意な経過にもかかわらず、頼朝の代官として引き続き源平の合戦には顕著な功績を揚げ、平宗盛等を捕えて、鎌倉に凱旋しようとしたが、腰越まで来たところで鎌倉への入府を許されなかった。

*腰越・・・七里ヶ浜の西端にあり、江の島を臨む要衝であるが、東海道を経て鎌倉に入るにはここが玄関口となる。

義経はやむなく腰越でわが身の忠誠を訴え、衷情を吐露する長文の書状を時の公文所別当・大江広元宛てに提出した。いわゆる「腰越状」といわれる書状である。 (続)

平成二十六年甲午・庚午・戊寅

源義経と腰越状

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中世・鎌倉をリポートするに当たり、義経の腰越状を飛ばしてはいけませんので、少し戻ってリポートします。
義経・腰越状(鎌倉腰越・満福寺)
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治承・寿永の内乱の過程で、頼朝が関東に留まっていられたのは、木曽義仲・源義経・範頼等の、源氏一門の者たちが戦闘の最前線を担い、後白河院と直接交渉を行ってくれたからに他ならない。頼朝は、彼らの行動を監視し、必要に応じ助成したり、失脚させたりしていればよかったのである。

京都を拠点に軍事行動をしていれば、京都の治安維持の役割を期待されるし、多くの武士が都に入ることになり、さまざまな軋轢が生じかねない。また宗教勢力(比叡山延暦寺・南都)との複雑な交渉もしかり。

鎌倉幕府には、その合理的な理念とは裏腹に、陰惨さが付きまとっている。   もとをただせば、頼朝その人も、戦闘の最前線に立って平家を滅ぼした身内の功労者たちを倒して、不動の地位を築いたのであった。弟の義経が「腰越状」をしたため、大江広元に対し、兄頼朝へのとりなしを依頼する書状が、その書状である。しかし広元はそれを握り潰している、二心なきむねを訴えても、頼朝には届かず結局鎌倉へ入ることを許されず退けられた。

頼朝の怒りとは、後白河法皇の策略に乗って、義経が頼朝の許しを得ないまま次々と官位を受けたことによる。   御家人の勲功は幕府側で行うと朝廷に申し入れていた。法王はそれを承知で頼朝を牽制したのだ。  義経が頼朝から決定的な怒りを買った要件は頼朝支配の関東御分国から御門葉に与えられた国司への任官であった。 義経の国司任官は後白河から与えられた任官であったのである。(伊予守任官)

その後、都に戻った義経に討手が差し向けられた。結局文治元年(1185)十月義経は、挙兵するが失敗、逃亡生活に入る。これを知ったもう一人の弟範頼は頼朝に不忠なきむねの起請文を提出して頼朝の疑心を晴らそうとしたが、後に討ちとられている。  頼朝のこうした身内への粛清は何を意味するのでしょうか。
腰越状の写しが残る鎌倉・満福寺(江ノ電の踏み切りを渡る)s-2011_0401_111451-DSC01532.jpg

平成二十四年壬辰・癸卯・甲寅

義経の功績

鎌倉・京都を結んだ当時の東海道は、およそ120里で、六十三次と言われている。鎌倉に近い駅として腰越があり、その腰越に義経の腰越状で有名な満福寺がある。龍護山医王院満福寺・天平時代に聖武天皇が行基菩薩に命じて建てたと伝えられる。この古刹を有名にしたのは、源義経であろう。
源義経・石塔(満福寺入口)
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元暦二年(1185)壇ノ浦で平家を滅ぼした義経は、平家の総師宗盛らの捕虜を連れて鎌倉に凱旋しようとしていた。思いがけず、兄・頼朝の怒りに触れ、鎌倉入りを拒まれた。やむなく義経主従は、腰越の満福寺に逗留し、頼朝の勘気の解けるのを待った。この時自らの真情を綴って許しを乞う書状を頼朝の側近、大江広元に差出、兄へのとりなしを頼んだ。これが腰越状だ
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大江広元はこれを握りつぶしてしまったようだ。その下書きの写しと云う書状が満福寺に残っている。
頼朝の怒りとは、義経の目付役として行動を共にしていた梶原景時のざん言や、後白河法皇の策略に乗って、義経が頼朝の許しを得ずに官位を次々と受けてしまった事による。御家人の勲功は頼朝側で行うと朝廷に申し入れていた。法王はそれを承知で義経に官位を与え牽制したようだ。義経はそれに気付かず、まことに単純に受けてしまったのである。
義経の第一の功績は、平氏討伐である。兄範頼の軍がさんざんに手こずり、食料も乏しく、士気も衰えている時に義経は二カ月で滅ぼしてしまったのである。この功績は大きい。
次にどんな功績があっても、頼朝の命令に背くとこうなると云う見せしめ役を演じたこと、同時に朝廷に対し、幕府の全国的支配を認めさせようとする主張でもあった。 朝廷で何かしても、頼朝が認めない限り通用しないと云う意思表示で有る。
第三の功績は、大罪人にされた義経が全国を逃げ回ったおかげで、頼朝は、日本国総追捕使(tuibusi)、総地頭の地位を朝廷より認めさせることが出来た。全国の軍事警察の司令官であり、同時に地方の役人の任免、兵糧米の徴収を認められたのだから、頼朝の地位はほぼ確立されたと言っていいだろう。
第四の功績は奥州平泉に逃げ込んだこと。 頼朝にしてみれば藤原氏を討つ口実が出来たわけだ。全国の組織を握ったと言っても、実質的には奥州藤原氏のように幕府の力の及ばない地域があった。奥州を制圧する事で初めて天下統一が出来たと言える。
江ノ電の線路を渡ると満福寺の入り口だ
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余談・・・奥州衣川の館で、三十一歳の波乱の生涯を閉じた義経の首は、再び腰越にやってくる、死ぬまで天下統一に貢献した英雄の首は、腰越で検分のあと、どこに葬られたか判らない、鎌倉には入っていない。一説によれば藤沢市の亀形山という高台にある白旗神社に村人により手厚く葬られたという。   白旗神社といえば何か因縁を感じる。