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源家・東国

東国・源氏の興隆

**鎌倉武士にとっての「法華堂」とは

頼朝は、正治元年(1199)正月十三日に死去した。  彼の死のきっかけは、御家人(稲毛重成)が亡き妻(北条政子の妹)の追福の為相模川に架けた橋の落慶供養に出席し、その帰りに落馬したことによるらしい。彼は、大倉法華堂に葬られた。
大倉法華堂・石塔(鎌倉・雪ノ下)
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鎌倉幕府(大倉御所)には、頼朝、頼家、実朝の源氏三代が住んだが、この御所の近くに、正確には御所の北側の背後の山の中腹に、頼朝の墳墓堂である法華堂が建てられていた。  それを大倉法華堂という。  その場所は現在の頼朝墓所の地と考えられている。  当時貴族や上級武士の間では、法華堂を墓所とする場合が多く、後白河上皇を始め法華堂に葬られた。  それは、「法華経」には使者の減罪の機能があると信じられていたからである。 

その様な源氏三代に亘る繁栄の地、大倉も北条泰時によって御所の移転が決定された。  非業の死を遂げた源実朝の住居大倉御所が怨霊の地となったという認識が彼にあったと推定される。 頼朝の死後、その息子たちは頼朝の御家人たちによる権力闘争に翻弄され続け、 源頼朝によって開かれた鎌倉幕府は大倉の地にあった四十五年間が源家の時代であったにすぎない。(1180~1225)

それ以後百年以上にわたって鎌倉時代を統治し続けたのは、伊豆の弱小豪族・北条時政(houjiyou・tokimasa)の子孫たちです。   「東国・源家の興隆」のリポートはこのあたりで終了します。  (終り)

予告・・・・この後、何度となく鎌倉北条氏に付いてリポートしてきましたが、できる限り重複を避け、新しい解釈を取り込みながら鎌倉北条氏を「執権政治」・「得宗専制」の二段階に分けてリポートして行きたいと考えています。  往々にして横道にそれますが修正しながら室町期までの長いリポートになりそうです。・・・・・今後もよろしくお願いします。   mituuroko

平成二十六年甲午・乙亥・乙卯
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東国・源氏の興隆

**文治勅許(bunnji・tiyokiyo)

北条時政と大江広元は後白河院の弱みを利用して強引に認めさせた守護・地頭の制は、朝廷から「文治勅許」として発令されました。  それ以外にも鎌倉の要求は人事までにも及び、摂政が義経方の藤原基通(fujihara・motomiti)から鎌倉方の九条兼実(kujiyou・kanezane)へと変わり、義経方公卿が粛清された。
鎌倉幕府・初代公文所別当 大江広元邸跡・石塔(鎌倉・十二所)
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*京都守護

京に派遣されていた北条時政は、京都守護として後白河法皇や公家から信頼されその存在感を増していた。  頼朝は、「時政は院と密着し過ぎた」として鎌倉に帰還させた、同時に京の近く六か国の守護を辞任しての帰国でした。  時政の職責を二分して、公家の一条能保(itijixyou・yosiyasu)を京都守護として朝廷との交渉を、時政の甥北条時定(tokisada)を代官とし洛中の治安維持や義経追補の任に当たらせた。

*奥州合戦

その後、頼朝は自ら大軍を率いて奥州へ出陣しました。  泰衛が義経を討とうが討つまいが奥州討伐の大義の変化はあり得ませんでした。  泰衛は藤原三代の栄華を誇る、多数の金色の建物に火を放ってあっさり逃げ出したので、頼朝は平泉に入ったところ焼け残った寺院や宝物の素晴らしさに驚愕、 後に鎌倉に建立した永福寺に大きな影響を与えた。

**後白河の死と征夷大将軍

頼朝は上洛して征夷大将軍(seii・daisiyougun)の地位を望んだが、後白河法皇は応ぜず権大納言(gon・dainagon)と右大将(udaisiyou)とに任じました。 その職は京に常駐する必要があるために、頼朝は辞退して鎌倉に帰り、前右大将(sakino・udaisiyou)として政所を設置しました。

その様は時期に後白河法皇が病に倒れ六十六歳で崩御した。 後白河は、平清盛、木曾義仲、源頼朝等と渡り合った政治家としてこの時期を統治した変革期の法皇だと云えよう。  頼朝にとっては政治的思いが通じる状況となり、九条兼実が頼朝の希望に叶えようと動いて、征夷大将軍に任じられた。  これで名実ともに頼朝は全国の覇者となり鎌倉幕府の体制が完成した。   (続)

リポートはまだ続きますが1週間程度更新できません。・・・では

平成二十六年甲午・乙亥・丙午

東国・源氏の興隆

**鎌倉幕府の礎・問注所と公文所

大倉御所内に三善康信(miyosi・yasunobu)を執事とする問注所(montiyujiyo)を設置しました。  また政務や公文書の発行も増え公文所(kumonjiyo)も必要になり、初代別当に大江広元(ooe・hiromoto)が就任した。  こうして政権としての役所が整えられてゆきました。  この両役所を始め、京では身分が低いため十分な働きが出来ないが、実は有能な下級公家が頼朝の要請によって鎌倉に下り、多くの官僚が起用されました。
鎌倉幕府問注所跡・石塔(鎌倉・御成)
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義経が鎌倉に無断で検非違使に任官したことは前述したが、この任官が兄頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを禁止されました。
その後、義経は後白河法皇の助けを借りて九州で再起を計ったが失敗に終わり、追われる身となりました。 頼朝が義経捜索のため全国に守護・地頭の設置を要求し、後白河はそれを認め義経追補が始まった。


義経は転々と居場所を変え奥州平泉まで落ちてゆきますが、奥州・藤原康衛(yasuhira)は幕府の圧力に屈して義経を討ったが、頼朝の狙いは義経ではなく、奥州・藤原氏でした。  守護・地頭の設置や奥州・藤原氏の討伐に義経追補を利用したと思われます。

**義経追捕の裏側

少々戻ります、兄頼朝と袂とを分けた義経は後白河の助けを得る為に京に戻り、「頼朝追討の院宣を請うた」、一方頼朝は大軍と共に北条時政を上洛させた。  この大軍を見た後白河は手の裏を返して義経と行家(yukiie)追捕の院宣を頼朝に発し、使者を鎌倉に送って、「義経と行家に脅され院宣を下したので、本意ではない」と釈明したという。

先述した、大江広元の献策によって守護・地頭を義経追補の為という名目で全国に置き、さらにその地位に鎌倉の御家人を任命するというものでした。  各国に軍事警察を司る守護を設置するという事は、鎌倉の権力を全国に広げるという事になり、 公領及び荘園に租税徴収を行う地頭を設置するという事は、徴税を行うことによって御家人が収入を得られることとなります。  この守護・地頭の制は御家人制と並び鎌倉武家政治の基盤となる制度となりました。   (続)

平成二十六年甲午・甲戊・癸卯

東国・源氏の興隆

**義仲滅亡

「寿永二年十月宣旨」や木曾義仲追討で、京に上ることに批判的であったのが上総介広常です。  富士川での合戦後に頼朝が上洛する事に反対した急先鋒が広常でした。「鎌倉殿の前で下馬の礼を取らないなど無礼な態度と共に、謀反の嫌疑もある」とされて梶原景時によって殺害されます。  これは、上洛に反対する御家人に対する見せしめとも言われています。
現在の大倉幕府跡付近、源頼朝墓方面を望む(鎌倉・雪ノ下)
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「頼朝に東国支配を認めた後白河法皇」に対して、反発した木曾義仲は、法住寺殿(houjiyuujidono)を攻撃、後白河法皇を五条にあった仮の皇居、里内裏(satodairi)へ幽閉しました。  すると後白河は義仲の言うがまま平家の旧所領を義仲に与え、義仲を征夷大将軍や源頼朝追討使に任じてゆきました。

義仲の圧力に屈していた後白河は、頼朝軍(源範頼・義経兄弟)の上洛を待って反撃に転じ、京・石山辺りまで義仲を追い詰めこれを討ち取りました。

**平家滅亡へ

一旦は大宰府まで落ちた平家が勢いを盛り返し、屋島(yasima)を本拠地として福原さらに京に迫る勢いとなってくると、 後白河法皇は頼朝に平家追討を命じました。弟の範頼は生田川で、義経は一の谷で圧倒的な勝利を収め、清盛の五男重衛(sigehira)を逮捕し、梶原景時によって鎌倉に護送され頼朝と対面した、頼朝は重衡の毅然とした態度に感心し当面鎌倉で暮らすことを許しました。

平家追討の初期の戦いが終わると範頼は鎌倉に帰るが、義経は京に残り院や平家の監視および京の治安維持を頼朝から命じられた。  後白河は京に滞在する義経を検非違使・左衛門少尉に任じましたが、このことが頼朝と義経兄弟の不和の原因となりました。  頼朝は自分との結びつきが弱まることを懸念して、許可のない御家人の任官を厳しく禁じていましたが、義経の任官について頼朝には何の通知が無かったからです。

*壇ノ浦

義経は一の谷に続き屋島の戦いでも勝利し、周防灘まで船団を進め壇ノ浦の合戦が始まり、潮の流れをつかんだ義経軍は優勢となり、総大将の平宗盛(munemori)は捕えられました。   この知らせはすぐに頼朝の基に報告された。「吾妻鑑」によれば、父義朝の霊廟・大御堂の上棟式の最中にこの知らせが届いたという。 (続)

平成二十六年甲午・甲戊・庚子

東国・源氏の興隆

**鶴岡八幡宮&大倉幕府

御家人制は、新しい鎌倉の町を造っていくことになります。由井郷から小林郷に移転していた鶴岡八幡宮寺を鎌倉殿の権力の象徴として町の中心に据え、それに相応しい荘厳な造りの八幡宮にするため、武蔵国浅草寺から宮大工を呼んで、本格的な造営が始まりました。  さらに、御家人たちが鎌倉(幕府)に出仕するとき居住するための屋敷がその周辺に建設され、鎌倉の町は急速に発展していきます。
頼朝鎌倉入府・最初の将軍御所(大倉幕府跡)  鎌倉・雪ノ下
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*平清盛の死

源氏の下に御家人が集まってきたとは言っても、武家政権を確立するには京の平家や奥州の藤原氏の討伐が必要であり、鎌倉を真に武家の都とするためには鎌倉の町の整備が急がれた。 頼朝は平家の状況を睨んで動きました。  後白河法皇と清盛との確執に悩んでいた高倉天皇が崩御すると、間もなく平清盛も「頼朝の首を墓前に供えよ」と遺言して病死した。  新しく平家の棟梁となった宗盛(munemori)は法皇に恭順の意を示し、清盛によって停止されていた後白河院政が本格的に復活しました。  一方、頼朝も後白河に叛意のないことを表明して法皇に接近し、今後の朝廷関係や平家対策の布石をしました。

*義仲進攻

木曾義仲が勢いを増し北陸道まで侵攻してきたので、脅威と感じた頼朝は信濃へ侵攻します、頼朝と争いたくない義仲は人質として十一歳の嫡男・義高を鎌倉に送り和睦しました。  平家軍も義仲軍の入洛を阻止しょうと数万騎の追討軍を加賀国まで進めますが、有名な「倶利伽羅峠の戦い」に敗れ敗走しました。 義仲軍はその勢いに乗って京に攻め上りました。  平家一門は京を捨て福原(fukuhara)まで落ち、さらに九州大宰府へ向かいました。

**寿永二年十月宣旨

京に入った木曾義仲は後白河法皇から京中守護に任ぜられ歓迎されていましたが、力不足から兵士たちの窃盗や乱暴が目立ち一気に反感を買ってしまった。 義仲に見切りをつけた後白河法皇は頼朝に使者を送り「流人以前の従五位下にもどす。急ぎ上洛せよ」と頼朝を頼ったのです。

しかし今や、頼朝は東国武士の頂点である鎌倉殿であり、前の平家のように京の貴族社会に参加することは出来ません。 後白河法皇は、朝廷の制度に鎌倉殿の立場を取り込めるように工夫。  「寿永二年十月宣旨」を頼朝に発したのです。

寿永二年十月宣旨・・・・・現在の東海道・東山道の公領・荘園を一旦、本来の領主に戻された。実質的に頼朝の東国支配が認められた。

これで朝廷は実質的に頼朝の東国支配を認め、頼朝勢力の取り込みを図ったのです。 しかも元の領主からの年貢徴収が確実になったことも事実です。 後白河の要請を受け頼朝勢力は入洛の準備をしていました。    (続)

平成二十六年甲午・甲戊・丁酉