FC2ブログ

「吾妻鑑」

「吾妻鑑」と頼朝

武家政権を開き、鎌倉幕府の初代将軍として活躍した源頼朝は、京都の資料(猪隈関白記)によれば正治元年(1199)正月に53歳で死亡したと記録されている。

死因は御家人。稲毛重成の亡妻(北条政子の妹?)の冥福を祈るために新造した相模川の橋供養に参列し、その帰りに落馬した事が原因で死亡した。(異説・糖尿病説)
源頼朝・法華堂跡・石塔(鎌倉・雪の下)
s-2010_1011_103140-DSC01041.jpg

「吾妻鑑」に頼朝の死亡記事が記載されるのは建暦二年(1212)二月条になる、何と死後13年後記事である。 建久七年(1196)正月から正冶元年正月までの三年一カ月間にわたる記事が欠落し、頼朝死去の翌月から記事がが再開している。
   鎌倉幕府における頼朝の役割から考えると、当然記載されるべき頼朝の死亡記事が「吾妻鑑」に何故欠落したのか、大きな疑問が残る。

同じ時期の京都朝廷の動きをみると建久八年(1197)後鳥羽~土御門天皇への譲位を鎌倉に通告している、幕府の意志に反しての譲位であるが、それを排して準備を進め、翌九年正月に土御門天皇が誕生したのである。  このような時期に頼朝は三度目の上洛を計画し、朝幕間の諸問題打開を図るべく準備をしたが、その途中での事故(?)である、目的を果たすことなくの死亡である、「吾妻鑑」の欠巻時期にあたる三年、一カ月間は幕府にとっての重大な危機に直面していたわけで「吾妻鑑」の編纂者たちは、この時期を故意に記述しなかったのか、記述できなかったのか、あるいは編纂後に何らかの理由で削除したのか、真相は謎である。

「吾妻鑑」の現存・写本の体裁から考えると、巻45(建長七年・1255年)のように一巻分の記事が脱落(紛失)してしまった場合とは異なり、 巻15(建久6年)(1195)・巻16(正治元年)(1199)と続き、1196年~1198の三年間は原本にあったものが写本の段階で脱落したものではなく、明かに原本は無かったことになる。

嫡男頼家が頼朝の名跡を相続する事になるが、 頼家が正式に征夷大将軍に任じられるのは、建仁二年(1202)七月になる。(吾妻鑑)   
この相続が何を意味するかは推測するしかないが、三年間・征夷大将軍に任官できなかった理由は、やはり頼朝の不慮の死と何らかの関係があると考えられるが・・・・・。

「吾妻鑑」が幕府の吏僚の手になる記録をもとに編纂されたであろう事は、古くから推測されてきた事でありますが、それがどの様な記録であったかを、大きく以下のような将軍・年代記として分類する説もあります。

>頼朝・頼家・実朝将軍記 主な出典・記録人・・・政所奉行人(二階堂行政・行光)
>頼経・頼嗣将軍記        々    ・・・恩賞奉行(後藤基綱・中原師員)
>宗尊将軍記           々    ・・・御所奉行(二階堂行方・中原師種)

以上のように頼朝の死亡に関する記事であるとか、頼家への相続に関する記事などは、(1)の将軍記に分類されます。
若宮大路・段葛石塔(鎌倉・小町)
s-2010_1011_095331-DSC01025.jpg



平成二十四年・壬辰・癸卯・庚申
スポンサーサイト



「曽我物語」と「吾妻鑑」

成立年代は共に鎌倉末期。一方は曽我兄弟のかたき討ちに取材した物語、他方は幕府の実録。  このように同時代に創作・編纂された歴史書であるが、「曽我物語」は「吾妻鑑」の前史を扱うとともに、ほぼ頼朝の時代全体についても語っている。   しかも幕府成立時代の、「吾妻鑑」にはない様々なことをも語っている。   「吾妻鑑」の欠落は補えるのだが、はたしてこの二つの作品は全く別々につくられたものなのか疑問が残る。

「曽我物語」について見てみよう、全十巻のうち第一巻は日本国の始まりを記し、平氏の流れ、源氏の流れを述べて、頼朝の世となった事を語り、次いで伊豆国伊東氏一族の内紛を述べて、曽我兄弟のかたき討ちの発端となった事件を描いている。

巻二・三は、伊豆に流された頼朝が伊東から北条に移り、やがて鎌倉に入り関東の主となるまでを詳しく描いている。  巻二の終りの部分で、頼朝と時政の接触があり、続く巻三の全体は、時政と頼朝が結びついて、如何に天下統一を成したかが描かれている。  まさにこれは、頼朝挙兵前史を正面から扱ったもので、「吾妻鑑」の欠落部分を補完している。

巻四以後になると、曽我兄弟が工藤祐経(kudou・suketune)を敵と狙う中、三原・那須・富士野の狩倉での関東武士団の姿が鮮やかに描かれ、そうした武士団の交流が記述されている。

さらに興味深いのは、曽我兄弟の成長と共に、鎌倉幕府が成長し、その成長に合わせて「曽我物語」の記述も膨らんでゆく構成である。  兄弟の足取りは、上野・下野へとひろがり、やがて富士野に勢揃いする武士は四ヵ国のほか、安房・上総・下総・常陸・下野・上野・信濃の大名たちであった。

曽我物語」と「吾妻鑑」との緊密な関係が明らかになってきた、「曽我物語」と「吾妻鑑」とは、北条氏を共通の基盤としているのである。  「曽我物語」もまた、北条氏の側から構想された物語のようだ・・・・・。

以前にもリポートしましたが、「吾妻鑑」の編纂に金沢北条氏周辺が関わった可能性が推測されている。金沢氏は北条氏一門きっての文人武士であり、  学問に精通する金沢実時から顕時・貞顕とつづく文人一族が「吾妻鑑」を編纂する立場に近い、編纂に関わる記事が金沢氏周辺と結びつく。  同時代に創作された「曽我物語」も北条氏周辺の構想となるとその関連性は・・・・・・・・。
金沢北条氏・菩提寺、称名寺の唐橋(横浜市・金沢区)
s-2011_0303_091627-DSC01472.jpg

隣接する金沢文庫で開催された・運慶展(平成23・1~3)
s-2011_0303_091556-DSC01471.jpg

平成二十四年壬辰・壬寅・辛巳

「吾妻鑑」の構想

鎌倉幕府と呼ばれる新しい政権が誕生した。その政権を理解するうえで注目すべき歴史書が「吾妻鑑」だ。「吾妻鑑」は治承四年、以仁王の令旨が下されたところから始まっている。

その以仁王の令旨が伊豆国・北条館に源行家によって持ち込まれた、そこに北条時政が同席していたことから始まる。 令旨と頼朝と時政の結びつきは、正統性のシンボルと、東国に下ってきた武士の貴種と、東国の豪族的武士の三者の組み合わせが、結合したものであろう。何れを欠いても、幕府は成立しなかったでしょう。

しかし、令旨と頼朝はともかく、他の豪族でなく、時政がそれらと結びついている点に「吾妻鑑」のもう一つの意図がうかがえる。北条時政から始まらなくてはならない必然性はないと思う。 他の豪族ではいけなかったのでしょうか。

挙兵は一旦成功したが石橋山で敗れ、以後、東国の豪族の許を経廻りながら、鎌倉に到着している。その豪族とは三浦・千葉・上総・秩父等の諸氏である。「吾妻鑑」のなかで頼朝の器量が認められる処となり、東国の主に成長していったように記されているのだが、他の諸豪族の其々にとっても、令旨を帯した頼朝との出会いは重要な意味を持っていたはずである。

>吾れ源家累代の家人として幸いにも貴種再興の時に逢うなり。(三浦氏)
>源家中絶の跡を興せし給うの条、感涙眼を遮る、言語の賈ぶ(oyobu)所に非ず。(千葉氏)
>その形勢、高峻の相無くんば、直ちに討取り平家に献ずべし・・・・・(上総氏)


「吾妻鑑」に記された頼朝との接触の状況は、もしそれぞれの豪族が後に滅ぼされることなく、幕府内において実権を有する立場にあったとすれば、其々の豪族における「吾妻鑑」が出来たと推測される。

元来東国の豪族が都から下ってくる貴種を迎えることは広く行われてきた。 頼朝の父義朝を房総半島に迎えたのは上総氏である。義朝が下総国相馬御厨に乱入した時、その後ろに上総常時がいたと云う、また義朝が相模国大庭御厨に乱入した時、義朝は「上総曹司」と呼ばれた。  その後相模国・鎌倉に迎えたのは三浦氏である。

鎌倉・亀ヶ谷に居館を構えた義朝は、三浦氏の娘との間に「鎌倉・悪源太」義平を儲けた。  東国の豪族の「家」が、貴種との結びつきで、起こされた事とよく関係していよう。北条の家もまた、頼朝を迎えた時に始まるのである。

頼朝の挙兵から南関東への進出は、多くの家々を生みだす効果があった。 またその家々が連合して貴種を擁して造り上げたのが幕府と云う「武家」の権力なのであろう。 頼朝の初期には南関東の家々だったものが、東国十五カ国の家々へとひろがり発展して来たのだ。

「吾妻鑑」は、その家々のなかでも中心に位置したのが北条氏であると主張している。 よく知られているように将軍家の関係者とともに、北条氏についても「北条殿」・「北条主」・江間殿」など敬称を付しているのはその現れといえる。  幕府は東国の家々を代表する北条氏と、令旨を帯した「将軍」頼朝とともに始まったと云うのが、「吾妻鑑」の主張であろう。
北条氏三つ鱗紋(鎌倉・円覚寺)の瓦s-2010_1201_095242-DSC01244.jpg

平成二十四年壬辰・壬寅・戌寅

「吾妻鑑」の欠巻(Ⅱ)

「吾妻鑑」に欠巻があることは既にリポートしたが、もう少し詳しく調べた。まずは将軍・頼朝の死亡記事の欠落から・・・・・。

武家政治を開き、鎌倉幕府の初代将軍として活躍した源頼朝は、京都の資料によると正治元年(1199)正月53歳で死亡している、死因は相模川の橋供養に臨んだ帰途、落馬したことが原因で死亡したとある。 これは、「吾妻鑑」建暦二年(1212)二月条の記事によるもので、死後13年後の記事である。


建久七年(1196)正月から正冶元年(1199)正月までの三年一カ月間にわたる記事が無く、頼朝死去の翌月から再び記事が表われる。  鎌倉幕府における頼朝の役割から考えると、当然記載されるべき頼朝の死亡記事が「吾妻鑑」にないのか、素人目に見ても不自然である。

現存の写本の体裁から考えると、巻45(建長七年・1255)のように1巻分の記事が脱落(紛失)してしまった場合とは異なり、巻15(建久6年条)・巻16(正治元年条)のようになっており、建久7年正月~正治元年正月条は原本にあったものが写本の時点で脱落したものではなく、明かに原本に無かったことになる。

建久三年(1192)に後白河法皇が崩じて院政の中心が失われ、名実ともに廟堂(biyoudou)の首班となった九条家(兼実)は、源頼朝のために征夷大将軍の宣下を取り計らった。これは頼朝が熱望していたにもかかわらず、後白河法皇の勅裁が下りなかった為である。

建久六年(1195)頼朝は奈良・東大寺再興の落慶供養に臨む為、二度目の上洛を行い、頼朝と九条兼実が両軸となってその全盛を誇っていた。兼実はすでに女(musume)・任子を入内させていたが、頼朝も春日局と連携し大姫入内運動をしたような見解が最近承認されつつある(結果的に大姫の入内は実現しなかった)。一方、故後白河法皇の近臣たちは土御門通親(tutimikado・mititika)を中心に権勢回復策を進めていた。


兼実が期待をかけた女(musume)「中宮・任子」の妊娠・出産は皇女で在ったのに対し「後宮・在子」(土御門通親の女)は第一皇子を産んだ。 これに勢力を得た通親は後白河の寵妃・丹後局等と計り兼実の排斥策を講じ、建久七年(1196)関白・九条兼実を解任したのである、同時に弟の太政大臣・兼房や天台座主慈圓の地位も奪った。

建久八年(1197)に譲位のことを幕府へ通告し、その不賛成を排して準備を進め、翌九年正月に土御門天皇が誕生したのである。 このような時期に頼朝は三度目の上洛を計画し、朝幕間の諸問題打開を図るべく準備をしたが、その途中での事故(?)であり、目的を達せずの死亡である。「吾妻鑑」の欠文時期にあたる建久七年から正治元年正月の頼朝の死に至る三年一カ月間は幕府にとって、最大の危機に直面していたわけである。「吾妻鏡」の編纂者が、この時期を故意に記述しなかったのか、記述できなかったのか、あるいは編纂後になんらかの理由で削除したのか、そして頼朝の死因は何であったのか、真相は全くの謎である。

「吾妻鑑」(鎌倉幕府の記録)の写本

「吾妻鑑」は和風の漢文で書かれた鎌倉幕府の記録で、治承四年(1180)の源頼政の挙兵から、文永三年(1266)の将軍宗尊親王の帰洛までの八十七年間にわたる歴史書である。  幕府や武将の家に伝わる文書記録、公家の日記等に基づいて、月日をおって編纂したものである。 そのうち欠巻が十年に及ぶ事はすでにリポート済みである。

「吾妻鑑」の原本は存在しないが、写本・木版本・研究書等のかたちで伝来され現在に至る。

写本  吉川家伝来(kitukawake)で大永二年(1522)書写の奥書をもつ吉川家本(重要文化財・岩国市の吉川重喜蔵)・・・・・小田原北条氏伝来と云われる北条本(内閣文庫蔵・16世紀初)・・・・・前田家伝来で僅か一巻(寿永三年~元暦元年)(1184)改元年、ではあるが、最も古い写本と考えられる前田家本(重要文化財・前田家尊経閣文庫蔵・鎌倉時代末写)・・・・・島津家本(原本紛失)・・・毛利家伝来と伝える毛利家本など数種類の古写本が現存するが、いづれも金沢文庫伝来本・関西伝来本が典拠と思われる。

1. 紙本墨書  吾妻鑑 51冊  内閣文庫所蔵
  
  本書は北条本の原本である。 金沢文庫本を応永11年(1404)に書写した古写本をもとに転写したと考え  られるもので、書写年代は文亀年間(1501~1503)と推定されている。 伝、小田原北条氏に伝来し  たもので、豊臣秀吉の小田原攻めの時に北条氏より黒田孝高に贈られ、それが黒田長政によって徳川秀忠に献  上されたものと云われる。 以後の木版本はみな北条本によっている。


2. 重要文化財  紙本墨書  吾妻鑑  1巻  前田家尊経閣文庫所蔵

   本書は僅かに1巻、紙数24枚(寿永三年四月八日~十二月十六日)のみ、残っている。    「吾妻鑑」の現存最古の写本とされている。
 本巻は仁和寺心蓮院旧蔵で、紙背は霊山実厳僧正作の山密往来である。 奥書に応永13年(1406)書写とあるが、現在は鎌倉時代の書写と伝えている。

3. 重要文化財  紙本墨書  吾妻鑑  抄録1冊  前田家尊経閣文庫所蔵

   本書は吾妻鑑の抄録で文治三年(1187)から嘉禄二年(1226)までの記事のうちから40数日間を抜きだしたものである。  記事の半数は弓箭・狩猟に関するもので、他に曽我兄弟の仇討の記事なども見える。  包紙に文治以来記録と書かれているが不明な点が多かったが、しかし前田松雲公(前田綱紀)が吾妻鑑の抄録である事を突き止めた。  現在は室町時代の写本と伝えている。

4.  重要美術品  紙本墨書  吾妻鑑寛元二年記断簡 1軸 称名寺所蔵                   (金沢文庫保管)  本書は断簡七葉から成る巻子装の資料で、「吾妻鑑断簡」と題箋が付されており、古くは「吾妻鑑」の断簡であると考えられていたが、現在では前三葉が「二条教定卿記」の寛元二年(1244)断簡とされ、後四葉は藤原頼嗣(yoritugu)が覚書風に書きとめた「藤原頼嗣元服行始等聞書」であることが考証されている。  筆跡も前三葉と後四葉では違っており、明かに別のものであることは間違いない。  吾妻鑑編纂時に補助史料として使われたものであろう。(鎌倉期)

5. (参考資料)  重要文化財  紙本墨書  建治三年記  1巻 
                           前田家尊経閣文庫所蔵

    建治三年記は鎌倉幕府の問注所執事三善康有の記した日記で、その職務に関係している幕府の重要記事が伝えられている。特に建治三年(1277)は文永・弘安両役のほぼ中間にあたり、この日記にも緊迫した国際情勢の一端がうかがえる。 尊経閣本は、もと金沢文庫に伝わったもので、三善康有が抄録した建治三年日記の原本にあたるものである。したがって吾妻鑑断筆後の鎌倉時代史研究の基礎資料となるものである。

木版本

江戸幕府は慶長十年(1605)に北条本を底本として「吾妻鑑」を木活字で刊行した。  その後次第に校訂が加えられ、四種類の版本が神奈川県立博物館に所蔵されている。

慶長古活字本  慶長10年(1605)刊  25冊
同本は慶長10年に徳川家康が西笑承兌(seisiyou・siyoudai)(相国寺92世住持で家康の政治顧問)に命じて木活字で刊行したものである。本文には「吾妻鑑」とあるが、表紙では「東鏡」と中国風に改めている。  木活字を組んだものなので、刷りの濃淡や行のずれが見られる。

寛永木版本(初版)(再版)  寛永三年(1626)刊 25冊
 寛永本は慶長版を校訂して木版で刊行したもので、仮名や訓点が付けられている。  初版・再販本ともに巻末に林道春(羅山)の奥書がある。

寛文木版本  寛文元年(1661)刊  25冊 

寛文本は寛永本を基にして刊行したもので、巻末には承兌や羅山の奥書を載せている。内容に大差はないが、前三版に比較して紙質・刷り共に粗雑である。
吾妻鑑/版本には以上四種のほかに寛文八年(1668)の平仮名版84冊がある。これは、中野等和が四代将軍家綱の命により北条本を基にして、仮名本に訳したもので、内閣文庫所蔵のものは、その原本である。巻末に「東鑑全部改亍仮名 総合八十一冊也 外目録二冊 中野等和」とあり、版行して世に流布させた。

研究書

「吾妻鑑」は武家の記録として重要な資料であったので、江戸時代以来多くの研究がされている。徳川家康が「吾妻鑑」に多大の関心を示したことは、周知のことだが、徳川三代に仕え幕政の枢機に関与した林道春(羅山)は、慶長12年に家康の命に奉じて東鑑綱要を著した。  吾妻鏡を精読して記事の重要なものを抜き出して目録としたものである。  その子鷲峯(春斎)も研究を続け、慶安四年(1651)に酒井忠勝の求めに応じて東鑑末記を著した。 これは、吾妻鑑断筆以後の文永三年(1266)から鎌倉幕府滅亡直前の元弘元年(1333)までの歴史を、仮名交文で表したものである。
近年に吾妻鑑を研究した学者に大塚嘉樹がいる。彼は東鑑別注等を著わし吾妻鑑全般にわたる注釈評論を加えているが、編纂時期について泰時・時頼時代と考証し、編纂者が北条氏の為に曲筆している事などを指摘していることは注目されよう。  明治に入り、東京大学に史学会が結成され、吾妻鏡に関する研究論文が発表された。