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鎌倉五山

五山制度の展開

2・五山・十刹の成立

中世禅林の官寺機構・・・五山・十刹・諸山の展開に従って、五山制度の概略を見てみよう。  まずは、蘭渓道隆(rankei・douriyuu)門下の大覚寺派・無学祖元(mugaku・sogen)の仏光派をはじめとする臨済宗の諸門派と曹洞宗宏智派(wansiha)は、室町幕府の統制のもとに、官寺の体系を全国に展開して、大教団を形成した。
臨済宗建長寺派・大本山建長寺全景・・・・・半蔵坊より望む(鎌倉・山ノ内)
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これらの禅宗諸派の複合体を総称して五山派と言う。

その前提となるのは、宗代における禅宗の貴族化と共に進行した、禅宗の内部組織への官僚制度の導入、その成果としての五山十刹制度(gozan・jiusatu)の創設である。

五山十刹と云うのは、インドの鹿苑(rokuon)・祇園・竹林・大林・那爛陀(naranda)の五精舎と頂塔・牙塔などの十塔所に倣ったものだと云う。  十刹の下には、さらに諸山が定められ、五山・十刹・諸山という三段階の格付けにそって、禅宗寺院が編成され、官僚組織の統制下に置かれたのである。

以上、室町初期まで京都・鎌倉双方がほぼ対等な位次であったが、次第に京都側優位の五山位次が設定されていく、これまでは、とかく鎌倉幕府時代の遺制が残存していたが、ここに足利氏独自の方針によって一新されて行く。

さて、五山の下に置かれるのが十刹である。  五山が京都・奈良に限定されていたのに対し、十刹は、全国のわたって広く設定された。十刹は鎌倉末期から存在したが、足利直義の主導で五山が制定されるのと同時に、十刹も定められた。

鎌倉四ヵ寺・京都三ヵ寺・筑前聖福寺・上野長楽寺・豊後万寿寺という構成であった。  この後、五山の移動に連動する位次の変更などを経て、禅林統制機構の整備に伴い、十刹にも大きく手が加えられた。その結果十刹の序列も改訂され、京都十刹・関東十刹がそれぞれ定められた。  これらを軸として、多くの寺院が十刹に列し、全国に展開してゆくのである。    

十刹の下には諸山(siyozan)があり、こちらも鎌倉末期に起源を持つ。  諸山には数の制限もなく、相互の序列もなく、増加の一途をたどった。  室町の後期以降は、諸山への新規の加入や親住持の任命などの機会に納入される謝礼金が、幕府にとって重要な財源となっており、諸山の数は増加、江戸初期には二百三十にも及んだと云う。    (終り)

平成二十四年壬申・癸丑・壬寅
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五山制度の展開

1・宗教の役割

平成二十二年十月から中世都市・鎌倉に附いて撮りとめもなくリポートしてきました、現在までに幕府の成立から江戸・明治期までを視点を変えつつ何度か取り上げリポートしてきました。  ブログ開設当初は自分で撮影してきた石塔・神社・寺院などの画像を整理をするつもりで記録する事を目的にしていました。

一方で世界文化遺産認定への登録申請を行っている鎌倉市(横浜市・逗子市も)商工会議所の主催による鎌倉文化検定の受験が契機でした。
(残念ながら今年も最上級々への挑戦は断念しました、中々合格レベルに達しない為です)
九月から始まった「吾妻鑑」シリーズも戦国時代の入り口まで来ました所で少し休みます・・・・・。

さて前置きが長くなりましたが、室町幕府が政治的・軍事的な支配力の低下を補い、宗教理念を通じての全国掌握を試みた。 五山禅宗寺院とは、どのような存在だったのだろうか。

中世の政権に於いては、当事者主義の原則が社会の基層を成していたこともあって、政治のカバーする範囲はごく限られていた。 その不足を補うために、宗教の公共的機能は不可欠であった。

鎌倉幕府について、その役割を担ったのは「律宗」で、道路や橋の建設などの公共事業、病者や貧者の救済などの社会事業を行うとともに、勧進によって、様々な資金調達を実現したのである。        勧進・・・人々に信仰を勧めて喜捨を得る行為。
真言律宗の名刹・極楽寺  (鎌倉・極楽寺)
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室町幕府が、宗教分野のパートナーとして選択したのが禅宗であって、足利尊氏・直義時代以後、幕府の成長と共に、その役割を拡大していったと位置づける事が出来る。まず、夢窓疎石(musou・soseki)という傑出した政僧の存在がある。    彼こそが尊氏。直義兄弟の絶大な信頼の元に、室町幕府の宗教政策を主導し、禅宗が政権に伴走する道を開いたといえよう。

中世社会における宗教の役割について考える場合、社会経済的な側面を見逃してはならない。  政治の責任範囲が非常に限定されており、社会を運営していくための様々な要素が未分化で、制度が整備されていない状況下では、そこから漏れる様様な必要を宗教が担っていたのである。  室町幕府と禅宗との関係も、政治・経済・社会的な視点から検証すべきだと考える所である。

平成二十四年壬辰・癸丑・庚子

鎌倉五山(Ⅷ)最終回

鎌倉五山第五位の稲荷山(toukasan)浄妙寺は文治四年(1188)、源頼朝の重臣、足利義兼が退耕行勇(taikou・giyouyuu)を開山として建立した臨済宗・建長寺派の古刹。
浄妙寺・山門(鎌倉・浄明寺)
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元々は極楽寺と云う密教系の寺だったが、 建長寺開山・蘭渓道隆の弟子月峯了然(getupou・riyouzen)が住職となり臨済宗に改められ、寺名も浄妙寺となった。  中興開祖は足利尊氏の父貞氏。

歴代の住持には約翁徳倹(yakuou・tokuken)・高峰顕日(kouhou・kenniti)・竺仙梵僊(jikusen・bonsen)・天岸慧広(tengan・ekou)等の名僧が多い。  至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めたころは七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などの漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裏等で伽藍を形成している。 境内は国指定史跡。

行勇律師(1163~1241)は相模国・酒匂(sakawa)(小田原)の出身、幼くして薙髪出家し、真言密教を学んだ。 養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺(共に廃寺)の別当にも任じ、文治4年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。  正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済宗を修め、栄西没後は壽福寺二世に任じている。

鎌倉公方御所屋敷に隣接していた為に、戦乱の被害を受けたことであろう。文明十八年(1486)頃には著しく荒廃したが、小田原北条(後北条)氏、徳川家康等の保護を受け江戸時代には直心・禅昌二庵の塔頭が存続したが、現在は全て廃絶し、現在にいたっている。

瓦噴きの総門を抜けると梅や柏槙(ビャクシン)が植えられた境内を本堂へと石畳が伸びる。本堂には本尊の釈迦如来像や、淡島明神像が祀られている。  本堂左手に喜泉庵が復元され、枯山水を眺めながら抹茶を戴ける。また、本堂手前を右に進むと、鎌倉の地名の由来にもなった鎌足稲荷神社がある。大化の改新を断行した藤原鎌足に因む。

本堂裏の墓地に中興開基・足利貞氏の墓(鎌倉市文化財)がある。 
(写りが悪くてすみません、代わりの写真も有りませんので悪しからず。)

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寺のある鎌倉市・浄明寺の街は浄妙寺からの街の名と考えられるが、古刹・浄妙寺さんと同名では畏れ多いと浄明寺になったと言われる。

平成二十四年壬辰・丙午・庚辰

鎌倉五山(Ⅶ)

五代執権北条時頼の三男宗政(時宗弟)の菩提を弔うために、夫人と嫡子師時(morotoki)(第七代執権)が創建した浄智寺は、鎌倉五山第四位の禅刹である(臨済宗・円覚寺派)。
浄智寺・山門(鎌倉・山ノ内)
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開基の七代執権・北条師時は渡来僧の兀庵普寧(goxtutan・funei)(1197~1276)と大休正念(daikiyu・siyounen)を開山招請した、大休正念の語録により、弘安六年(1283)には仏殿・法堂・僧堂・庫院・方丈・山門を備えていたことが確認でき、仏殿には本尊釈迦如来ならびに脇侍の三尊が安置されたとあります。

北条氏の保護により繁栄した浄智寺は、正安元年(1299)執権北条貞時により五山に列せられ、至徳三・元中三年(1388)鎌倉五山第四位の位次が確定した。

南北朝時代に焼失したが、室町時代に鎌倉公方の足利持氏や子成氏が鎌倉での滞在場所として使っている事から見て寺観は保っていたと思われる。「鎌倉五山記」には塔頭11院の他、方丈・書院・法堂・山門など堂宇の整っていることが記されている。  戦国時代には小田原北条氏より寺領寄進「七貫七百四十六文」などで保護されるようになった。 天正十九年(1591)には徳川家康より六貫文あまりの寄進が成されるが、以降は徐々に衰微したらしい、関東大震災により大破して、現在は昭和に再建された仏殿・惣門・山門等が現存する。

今は鬱蒼とした杉木立の中、石段を行けば唐様の鐘楼門が迎える。  本堂・曇華殿(dongeden)に安置されているのはそれぞれ過去、現在、未来を意味する阿弥陀、釈迦、弥勒の木像三世仏坐像(室町時代)   (県・重要文化財)

境内には、鎌倉一の大きさを誇るコウヤマキやハクウンボク、市・指定天然記念物のビャクシン等が有り、四季を通じて草・花が参拝者を迎える。  山門から総門に至る階段の両脇一面に白いシャガの群生が見られる。 {四月下旬~連休ごろ)

週末ともなるとここ浄智寺は、源氏山ハイキングコースの入り口にある為に観光客で賑う、JR北鎌倉駅で降りた観光客は円覚寺から東慶寺、明月院、と巡り源氏山を越え鎌倉へ向かうコースだ。

平成二十四年壬辰・丙午・戌寅

鎌倉五山(Ⅵ)

寺のある扇ヶ谷一帯は、源頼朝の父義朝(yositomo)の屋敷跡とされる。  鎌倉入りした頼朝は父ゆかりのこの地に館(幕府)を建てようとしたが、亡き父の御堂があったことや、館の要地としては狭い事から断念したという。
壽福寺・山門(鎌倉・扇ヶ谷)
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鎌倉五山第三位の壽福寺(臨済宗・建長寺派)は、頼朝夫人・北条政子が栄西(eisai)を開山に招いて、正治二年(1200)に建立された。 栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた高僧である。

山門からまっすぐに続く石畳の左右に繁る木々が幽玄な雰囲気を漂わせる。 この地は、かつて奥州討伐に向かう源義家が勝利を祈願したと云う源氏山を背にした源家父祖伝来の地である。 壽福寺建立は頼朝の意志をかなえることでもあった。

往時は七堂伽藍を整え、塔頭も十五を数えた大寺であったが、現在は総門、山門、仏殿、方丈を残すのみである。境内全域が国史跡に指定されている。 山腹の墓地には北条政子と実朝の墓と伝えられる五輪塔が「やぐら」に安置されており、俳人・高浜虚子、作家・大仏次郎、の墓もある。

宝治元年(1247)及び正嘉二年(1258)に仏殿・惣門・方丈以下諸堂舎が焼失したが、次第に復興された様で、鎌倉末期には五山に列せられ、至徳三年(1386)、鎌倉五山第三位の位次確定した。  室町期になると、火災もあり、次第に衰退したものと思われる。  現在、江戸後期に復興された仏殿及び総門が残り、仏殿前に生育する白槙(ビャクシン)が目を引く。

釈迦三尊

釈迦如来の脇侍(従者)としては、文殊菩薩と普賢菩薩が従うものが最も多い。これは平安時代中期以降に一般化したもので、古い釈迦三尊像には様々な菩薩がつき従う。当寺の如来像は「籠釈迦」と云われ、鎌倉では唯一の脱活乾漆造(datukatu・kansituzou)による宝冠釈迦如来(漆箔、玉眼、像高282.6㎝)で、禅定印を結ぶ。
脇侍は寄木造(漆箔、玉眼、像高・文殊菩薩148.2㎝、 普賢菩薩149.0㎝)で中尊像と一具として、室町時代に造立されたとみられる。  (拝観不可)
仏殿への参道(鎌倉・扇ヶ谷)
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栄西は、宋から帰国の折に茶の苗を持ち帰った事でも知られる。  寺宝「喫茶養生記」(国重文)は、宋で学んだ栄西が彼地で見聞した茶の効用を記し、三代将軍実朝に献上した著書である。

今頃の季節(新緑)仏前への参道はアマチュア画家でいっぱいになる、鎌倉らしい雰囲気のある佇まいは人気のある場所のひとつであろう。  秋の紅葉、雪の降った後、の風景は人気があるようだ。   (鎌倉の写生ポイントについては、機会をみてリポートします)

平成二十四年壬辰・丙午・丙子