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鎌倉の武将

平氏と結んだ大庭氏

*源頼朝  挙兵

大庭景親が京から相模に帰着してから半月後の8/17日、源頼朝は伊豆の目代平兼隆を討ち、20日には三百騎の兵を率いて相模国に進出した。  これに対し、大庭景親は相模一国の武士団を中心とする三千余騎を糾合し、23日、両軍は石橋山にて戦端を開いた。  云うまでもなく、この合戦は景親側の圧勝に終わったが、ここで両軍の軍事構成を見ておきたい。

まず頼朝軍であるが、伊豆から引率した武士のほか相模国から中村氏一族、それに大庭氏一族の景義・景俊兄弟が加わり、三浦一族もこれに合流するため進軍中であった。  このうち大庭一族の参加は、大庭一族内部の対立がこの時期まで尾を引いていたことが解ります。「源平盛衰記」によれば戦に敗れた一方は勝者につくという一族の延命策のように説明されている。

当時の武士団においては、兄弟といえども全く独立した生活体を営み、族的結合の基盤は親の教令権にあったと思われます。

景親に敵対した勢力について考える場合に、重要なことは、景親の勢力伸張が、三浦・中村氏ら国衙系武士からの職権簒奪によるものであったこと、さらには、景親の領主的発展にともなう景親の所領周辺の一族をも含む在地領主たちの犠牲の上に成り立っていたということである。  こうした国内武士層と景親との対立が、平家による権力構成の進行に伴って激化するのは必然であった。

その様な状況の中で、平清盛はクーデターを起こし、後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉して政権を掌握したが、国内における平家追討の動きは日に日に強まり、国家に対する反乱を企てた頼朝に対し、すぐさま呼応して起こったのが国衙を存立基盤とする三浦・中村氏一族と、景親の所領周辺に本領を有する懐島景義・豊田景俊であり、石橋山合戦で頼朝に心を寄せながら景親の陣に加わった飯田家義、頼朝の所在を知りながら見逃した梶原景時も、その所領が大庭御厨に接する関係にあったことは決して偶然とはいえない。

彼らにとって頼朝の奉ずる以仁王令旨(motihitoou・riyouji)は、大庭景親打倒の大義名分となり、挙兵への呼応は状況打開のまたとない機会であり、彼らのすべてをかけたのです。  かつて源義朝の命を受けて中村庄司ら相模国の源氏家人たちと共に大庭御厨に乱入した三浦義明が、この時の心境を「吾妻鑑」は以下のように記述しています。

*三浦義明のアピール・・・われ源家累代の家人として、幸いにその貴種再興の時に遭うなり。なんぞこれを喜ばざらんや・・・・・・。

源氏再興と表裏一体の関係にある三浦一族の在地での地位回復を期しての感懐としてとらえれば、かなり真実味を帯びてくるように思われる。

一方、大庭景親直属の軍事力を構成したのは、弟の俣野景久以下同族の梶原・長尾など「鎌倉党」と称される武士団で、その中には足下郡の武士も含まれ、平家に密着して地位を向上させた大庭景親に対し、国内の小武士団が服属の動きを示したと推測される。

大庭景親は相模のほか、武蔵・駿河にもそれぞれの国の棟梁や目代を介して軍事動員を行い、弟の俣野景久に駿河一国の軍事力を与え甲斐源氏の軍に対処した。(吾妻鑑)

この様に頼朝挙兵時の大庭景親は、平氏政権を背景に大きな実力を有し、頼朝が房総・武蔵を平定して再度相模に侵入した時点でも一千騎の兵力を有し、西国から下る平維盛の率いる追討軍への合流を目論んでいた。  (吾妻鑑)

しかし、富士川の合戦で維盛軍があっけなく敗れ、西走したことで大庭景親の再起は不可能となり、相模国府に対陣していた頼朝のもとに降人として出頭し、その身柄を上総介広常に預けられたが、治承四年十月二十六日固瀬川にて斬首された。(吾妻鑑)      (終)

平成二十六年甲午・辛未・辛酉
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平家と結んだ大庭氏

*大庭景親の平氏接近

源義朝の御厨侵入事件以降、大庭一族は、御厨に隣接する豊田庄(平塚市・豊田本郷)は嫡子の平太景義・三郎景親・四朗景俊・五郎景久によって分割相続された。  このうち御厨下司職を継承したのは三郎景親(kagetika)で、 景義は御厨の南西部に当たる懐島(futokorojima)(茅ヶ崎市)、景俊は父景宗の墳墓の地である大住郡豊田庄、景久は御厨内俣野郷(横浜市戸塚区俣野町)を伝領して、それぞれの所領名を苗字としたと思われます。

一方、大庭氏の一族には、彼らの従兄弟として高座郡長尾郷(横浜市栄区長尾台)に長尾新五為宗・新六定景兄弟が、鎌倉郡梶原郷(鎌倉市梶原)には石橋山合戦の際、頼朝を助けたことで有名な梶原平蔵景時がいた。  そこで、鎌倉権五郎景正の子孫(鎌倉党)の分立範囲を見てみると、東限は鎌倉郡南部の梶原郷、そして高座郡南部を占める大庭御厨を中心にして、西は大住郡豊田庄に至るほぼ一群規模の領域ということができる。

保元の乱(1156)に際して、大庭氏一族から平太景義と三郎景親が義朝に従軍していたが、続く平治の乱(1159)で、大庭氏が義朝の軍に参戦しなかった理由は不明であるが、結果的にこれが大庭氏にとって幸いしたことは言うまでもない。義朝に属した坂東の武士たちは所領の没収など直接処罰を受けることはなかったが、謀反人への加担者として雌伏を余儀なくされ、義朝亡き後、国家唯一の軍事統括者としての地位を固めた平氏から危険視されたことも、また事実であったと思われる。  ところが、大庭氏は源氏との関係の深い相模国の有力な武士でありながら、偶然ではあったが義朝の軍に参加していなかったことから賊軍加担の汚名をきることなく、かえって国内における地位を相対的に向上させることに成功した。

こうした有利な状況を背景に、大庭景親(ooba・kagetika)は積極的に平氏への接近を図ったようです。  ちなみに、景親が平氏に従属した契機として、何らかの罪科によって処罰されるべきところを平氏に除名されたことを上げている。  (源平盛衰記)

いずれにせよ、平治の乱後、景親が平氏と急速に接近したことは確かで、坂東武士団の統括に苦慮する平氏にとって景親は都合よく、重要な存在となり、大番役の催促をはじめとする相模国における軍事・警察的機能も、従来これを掌握していた国衙在庁の有力者であった三浦氏や中村氏の手から景親のもとに奪取されたのである。

諸国の武士は平治の乱後、王朝の侍大将となった平氏のもとに再編成された大番役などを勤仕する体制が作られたが、景親は相模国におけるその統率者、つまり守護のような役割を担うことになったのである。

*源氏の挙兵と大庭氏

治承四年(1180)5月、以仁王・源頼政が平氏打倒の狼煙を上げた時、大番役で在京中であった景親は、官軍に属してその追討に当たり、さらに清盛から関東に居住する源頼政の孫を追討すべき私命を帯び、同年8月在京の軍を率いて相模国に下着した。(吾妻鑑)

当時、坂東で不穏な動きを見せていた上総権介広常の召喚も清盛は景親を通じて行っています。 また、平氏の有力御家人で坂東八か国の侍奉行・上総介藤原忠清も頼朝挙兵の動きについて景親に諮問しています。  (吾妻鑑)

このことから、平氏政権の坂東支配における景親の比重の大きさを推察することができるでしょう。    (続)

平成二十六年甲午・辛未・戊午

平家と結んだ大庭氏

*大庭氏の成立

石橋山合戦で平家方(政府側の追討軍)の総大将となった大庭三郎景親について、いままでの研究では鎌倉政権の成立という側面から見てきたと思われますが、彼が国衙と関係した形跡もないのに、どうして国内の武士団を統率し得たのかということや、平氏政権の東国支配の中で、どのような役割を担ったのかといった問題はあまり考えられていなかったように思われる。

大庭氏の系譜については、諸系図間の異同が多く、正確な所は解りませんが、ほぼ一致する処は、大庭氏が三浦氏同様に桓武平氏の出身で、源頼光(minamoto・raikou)の四天王のひとりであった村岡五郎忠通の子孫であるということである。・・・・忠通はまた頼光の弟で、東国に於いて武名の高かった頼信にも仕え信頼を得ていたようだ。(今昔物語)

頼信の子頼義が、もともと坂東平氏の嫡流であった平直方の女婿となり、鎌倉の屋敷を譲られたことは、相模国の武士と源氏との関係をさらに緊密なものとし、前九年・後三年の役では、それぞれ頼義・義家軍の中核は相模国の武士が構成したと考えられる。  この中で忠通の子孫の活躍もめざましく、後三年の役(1083~87)では、弱冠十六才の鎌倉権五郎景正の大活躍が記録されている。  (奥州後三年記)

この剛勇無比な鎌倉権五郎景正こそ、大庭氏の祖である。  景正が「鎌倉」を苗字にしていることから、相模国鎌倉郡が彼の本拠地であったことは間違いない。  その後、彼の子孫が郡内及びその周辺に自己の所領を開発し、武士団としての発展を遂げていったのである。

*源義朝の大庭御厨侵入事件   (頼朝の父)

長治年間(1104~06)、景正は高座郡鵠沼郷(藤沢氏・鵠沼)を中心とする一帯の荒野を伊勢大神宮の御厨とする条件で開発を国衙に申請し、許可を得たので浮浪人を招き寄せて開発に当たった。

永久五年(1117)に至って、この土地を大神宮領として寄進し、大庭御厨が成立した。  これによって景正の子孫は下司(gesi)(現地管理者)として実質的な領主権を手中に収め、下司職を継承する嫡流は大庭氏を名乗ることになる。

大庭御厨が成立した十二世紀初めの頃、源氏内で内紛が相次ぎ、嫡流の為義は院政権から疎外され受領にもなれないという状況に陥っており、かつて源氏に従属していた地方の武士たちも源氏との関係を弱めていきつつあった。  また、源氏と最も強い関係にある相模国に対して、白川院はその近習で北面に精通した藤原盛重や源重時を国守に任命するなど源氏内の分断を図った形跡があり、大庭氏も徐々に源氏との関係に距離を置くようになっていた。  (平氏政権期・相模守)

受領(zurixyou)・・・・・国司四等官のうち、現地赴任の行政官の筆頭。

こうした状況を打開するために、坂東武士団の源氏再服属を強硬に推し進めたのが、為義の子義朝(頼朝・父)である。彼は、「上総曹司」と呼ばれたことから、坂東、とりわけ上総国で成長したと思われる。  (天養記)

康治二年(1142)、義朝は下総国相馬御厨をめぐる両総平氏の千葉・上総間の内紛に目をつけ、上総常澄に加担して千葉常重から同御厨の下司職を奪い取り、同時に軍事的にも千葉氏を服属させることに成功している。・・・房総で成功した御厨介入の次の矛先は大庭氏に向けられることになる。

天養元年(1144)、当時、鎌倉に住んでいた義朝は、相模国・目代(国守の代官)源頼清と結託し、大庭御厨内鵠沼郷が鎌倉郡に属する公領であるという口実をもうけて、郎党を侵入させ、大豆・小豆等を刈り取らせたのみならず、郷内の住人にも危害を加えたという。

これに対して大神宮側は、太政官へ提訴を行っているが、この訴訟手続きが進められている最中、義朝は国衙の軍事警察部門を担当し、すでに義朝の配下にあった三浦氏・中村氏などを御厨内に乱入させた。 この時に、義朝の軍に参加した目代・在庁官人の軍を加えると、ゆうに千騎を超えていたという。

この様にして南坂東の武士団の再編成を進めてきた義朝は、その後在京して鳥羽院の信任を得て、父の官職・検非違使・左衛門大尉を超えて下野守に任じられ「都の武者」として重きを成した。  この頃から鎌倉の館には長子・義平が居住し、坂東における勢力拡大にあたった。  (続)

平成二十六年甲午・辛未・乙卯

策士・梶原景時

*景時の最期

源頼朝の死後、比企一族に急接近し、幕府政治の主導権を掴もうとした、景時が六十六名の連署状によって追われる立場となり、清水ヶ関まで落ち延びてきたが、まる一昼夜、休むことのない強行軍と合戦は、疲労の極み、そのうえ飢えと寒気はすべての意欲を喪失させてしまう。  しかも地侍たちは刻々と人員を増やして行く手を阻んでいた。  ついに、嫡男・景季は父に潔い自決を求めたという。  ここに梶原一族が京へ上って挙兵する野望は挫折したのである。
例年7/15に行われる・梶原施餓鬼会(鎌倉・建長寺)
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*施餓鬼会に参列される梶原氏の末裔の方々・・・・北条氏創建の鎌倉建長寺に於いて景時公の霊を弔う行事とは、何かの因縁か・・・・・。

幕府政治の主導権を握ったかに見えた景時と比企氏一族は、政敵の一方である北条時政との権力闘争の中で、景時は評定衆13人の中の一人であるにもかかわらず、頼家の側近となり、無法な布告に同調する様になったのだから、時政が景時の誅殺を考え始めたのは当然なのかもしれません。

父時政の意を受けた阿波局(北条政子・妹)の暗躍が、かねてから景時の振る舞いを心よからず思っている御家人たちの怒りの炎に油を注いだと思われる。  「吾妻鑑」には、訴状に署名した六十六人のうち三十八名の氏名があるのみで、北条一門の名がないのはまったく不自然なのだが。・・・・・

鎌倉幕府の正史と考えられる「吾妻鑑」に、北条一門にとって不都合な事を記載しないのは当然だが、ここにも、北条氏の作為を感じます。

後世に梶原景時は吉良上野介と並んで悪評の中に埋まっていますが、これも北条氏を中心とする「吾妻鑑」に起因するところが大きいと思われる。  先述しました、鎌倉・建長寺での施餓鬼会が700年以上に渡って欠かさずに行われている事との因果関係はどう解釈するのでしょうか・・・・・。  (終)

平成二十六年甲午・辛未・己酉

策士・梶原景時

*追われる景時

六十六名の連署状によって追われた景時は、罪状を明らかにされることなく、再び鎌倉に引き返している。  その後、正式に鎌倉追放ときまり、鎌倉の屋敷から一之宮へ戻り、じっと時節の到来を待っていた。
鎌倉・仏行寺・・・梶原景季の墓(鎌倉・笛田)
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その時節とは、知己の多い京に上り、後鳥羽院に鎮西管領の宣旨を乞い、源氏一門の武田有義(義家の弟、義光の直系)を頭領に西国で挙兵、その勢いで東国へ攻め込むつもりだったと思われます。

景時が守護職を勤めていた播磨(兵庫南部)、美作(岡山北部)二国には味方も多いはず。  座して死を待つよりも、再挙を図るために秘かに活動を始めていたと思われるが、将軍頼家が一の宮付近にまで足を延ばして狩りに出た折に、これを追討の軍と錯覚した景時が一族諸共逃亡したのです。

1/20の午前二時に一の宮を旅立ち箱根峠を超えて、駿河・清美ヶ関に着いたのが午後十時頃という。  一の宮から実に120㌔の距離を二十時間かけて、一睡もせずに歩いたことになる。  しかし、鎧の上に蓑を付けた景時たちは深夜とはいえ目立った。その挙動不審を酒を帯びた地侍達に見咎められ、競り合いになってしまった。

しかし、腑に落ちないことも多い武装した三十三騎もの武士が深夜(午後十時)に清美ヶ関に達するまで、怪しまれずに到着出来たのか、・・・・・つまり景時とその一族が、鎌倉を追われて清美ヶ関を通過する事を知り、武装してこれを待ち伏せしたと考えた方がいい。  明らかにその場所で警戒し待っていたに違いない。

それではいったい誰がその様な指示を出したのでしょうか。・・・  当時北条時政が駿河国の守護職だったということを考え合わせれば、上記のような行動はいとも簡単に実行出来たと考えられる。 ということは、時政一行の行動を事前に察知し、地侍たちに通知していたといっていい。

北条時政はなぜ梶原景時を清美ヶ関で待ち伏せしてまで討伐に及んだのでしょう。・・・時政ほどの先見性ある人物ならば、頼朝亡き後も景時の才能を利用できたはずである。すなわち和田義盛のような無骨一辺倒の坂東武者群と、大江広元のような事務官僚の中間に位置する景時は、十分に使いこなせたと考えられるが。・・・・・   頼朝と同様に、場合によっては執政者の責任を景時に転嫁することも可能であったはずである。

それほど利用価値のある景時を追放せざるをえなかった理由は何か。・・・梶原景時が将軍頼家の乳母夫だからである。そして景時は、頼るべき主上頼朝の死後は、 比企一族と共に頼家に密着して、幕府政治の主導権を握ろうとしていた。比企氏は能員(yosikazu)の妻が頼家の乳母であり、娘が頼家の妻若狭局で嫡子・一幡(itiman)を生んでいる。したがって、北条一門に代わって幕府政治のトップに立つことは衆目の一致するところであった。      (続)

平成二十六年甲午・辛未・乙巳