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源義経

義経・奥州へ

源義経はどこに行ったのか!

大胆にも京の近くの寺院に現れていながら、幕府の追手は後手後手に回り逃がしているが、あるいは何らかの意図を持っての捜索だったのかもしれない。義経をあちらこちらに逃げのびさせなければ、頼朝は全国的な組織を掌握する事など出来なかったであろう。
鎌倉幕府・別当、大江広元宛てに送られた腰越状  (腰越・満福寺)
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いよいよ追い詰められた義経は奥州・藤原秀衛(hidehira)を頼って平泉へ逃げ込んだのである。これは、頼朝にとって都合のよい展開で平泉の藤原氏を討つ口実になってしまった。  頼朝は全国の組織を握ったと云っても、実質的には奥州藤原氏のように幕府の力の及ばない地域があった。 この事を利用して、初めて天下統一が出来たと言えるのである。くしくも義経がこの口実をつくってやったようなものだ。

奥州・衣川の館で、三十一歳の波乱の生涯を閉じた義経の首は、奥州から藤原泰衛(yasuhira)の使者によって、再びあの腰越浦に運ばれ、和田義盛・梶原景時がこれを実検した。 義経の首は黒漆の櫃に納め、美酒に浸され運ばれてきたもので、見る者みな涙を流したと云う。

前々年、藤原秀衛を頼って平泉に逃れていた義経であったが、秀衛死後、頼朝の圧力を受けた、その子泰衛によって討たれたのである。  なお義経の首は、後日藤沢の白旗神社に葬られたと伝えられる。

源義経といえば、ジンギスカンについて触れておかなければならないでしょう。ジンギスカンは蒙古より勢力を伸ばし、南ロシア、西夏、イラン、シリア以東も平定。そして宋を包囲。遂には「元」を立国、元の太祖となった希代の英雄である。  のちにその「元」の軍勢が二度にわたって日本に侵攻したのは日本史史上重大な出来事と言える。「蒙古襲来」「元寇来襲」は鎌倉時代の大事件となり、歴史に大きな影響を与えた事は御承知の通りである。

このジンギスカンこそ、衣川の戦火から逃れて大陸に渡った源義経その人といわれている。 平家討伐の戦功をたてながら頼朝に鎌倉入りを拒まれ、各地を逃亡し、苦難にあいながら恩人である奥州藤原秀衛の元に身を寄せたが、秀衛の死後衣川で泰衛の兵に急襲され、力尽き、自刃したというのが歴史の通説である。

しかし、戦上手の義経ともあろうものが、そう簡単に討たれるはずがないという主張する人は少なからずいた。まず、光圀が力を入れた水戸藩の編纂の「大日本史」は「世に伝う義経は衣川の館に死せず、逃れて蝦夷にいたる。」と、また所謂義経の死亡した日から鎌倉・腰越での首実検までに四十三日間の隔たりが、いくら美酒に浸したとしても、熱暑の季節でありその真偽が判別できたのだろうか?。と疑問視している。 「大日本史」の列伝には、日本史上の人物の詳細な伝記が記録されているが、記述には周到な準備が行われ、事実を調べぬき、私観を挿まずという編纂の方針が貫かれた歴史書であるが、  単なる判官びいきで「義経自刃せず」と記したのだろうか。

ほかにも、「梅園雑話」・「鎌倉実記」・「残太平記」などにも同じような記述がみられ、明治時代になってもジンギスカン説は衰えていない、しかし致命的に時代が少しずれてしまうので、有り得ないと考えています。  了

時代の差異等の検証は又の機会にリポートします。

平成二十四年壬辰・巳酉・巳亥
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源義経の滅亡について

頼朝と義経の決裂

希代の戦上手、源義経が兄の頼朝に疑われ、滅びの道をたどっていったのも、やはり根は官位授与にある。  元歴元年(1184)朝廷は頼朝の推挙の通り、源氏三人を国司に任じた。弟範頼(noriyori)を三河守(mikawanokami)、源広綱(源頼政の子)を駿河守、平賀義信(hiraga・yosinobu)(父義朝と共に東国を目指した家人)が武蔵守である。  任官を期待していた義経の名はそこにはなかった。
鎌倉入りが許されなかった義経宿陣跡(鎌倉・腰越満福寺)
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同年、義経は頼朝の推挙を得ずに、後白河法皇によって左衛門少尉(saemonnojiyou)(検非違使を兼任)に任官し、従五位下に叙せられて院への昇殿を許された。この任官に対し義経は鎌倉に釈明の報告をしている。  後白河法皇(朝廷)からの積極的な任官要請を無視出来なかったと、報告したのである。

この義経の報告は事実であったろうと思われますが、頼朝の反応は違ったのである義経自身が「任官を熱望したのではないか」との疑いを強く持ったのだ。(後白河の陰謀説も有りうる)  義経にしても兄頼朝の性格を承知していたと思われるので、自らの任官要請は有り得ないと考えられるが?

頼朝は義経を平氏追討の命令系統から外してしまう(吾妻鑑)。 その後苦戦する範頼を援護するために義経が用いられたのは半年後のことであった。

権力者にとって、優秀な弟は極めて厄介な存在であった。いつでも自分に代わることが可能であった。日本での、長子相続は江戸時代になってからであり、弟ならではの行動規範は明確には育たず、弟は兄にとり、競争者であり続けたのである。

このため、権力を掌握する過程で、弟を手にかけた人物は少なくない。  最も有名なところでは、足利尊氏と直義(tadayosi)の確執があった。 この兄弟は互いを無二の存在として求めあい、次いで武家政権の首長の座を賭して戦った。 兄につくか、弟を支持するか、全国を二分した内戦は二年に及んでいる。  織田信長は家督相続に際して弟の信勝を犠牲にしている。  毛利元就も同様だ。まだある伊達政宗も弟を殺害している。

義経の軍事的な優秀さには異論がないとして、京都及び畿内の治安を守る政治的な力量を再評価する研究が進んでいます。つまり義経の行政手腕が評価されてきたと云うことでしょう。

武家の棟梁である自分にとって、「仕事のできる」義経は危険な存在である。 頼朝はそう判断した。その義経を除く為に、最も有効な手段は何であろう。手段を誤れば、鎌倉殿の立場は危うく人心ははなれ、戦上手な義経を担ぐ武士も出るやもしれません。そこで注目されたのが任官の問題である。

義経が許可なく任官したことは、やはり相当に問題のある事であった。 戦乱の収束時には粛清はつきものである。頼朝は左衛門少尉に任官した後の義経を屋島・壇ノ浦での戦いに参加させながら、排除する機会を慎重に計画したようだ。  任官問題は格好な理由として挙げられ、御家人達も了解せざるを得なかった。実際に、義経が頼朝追討の旗を挙げた時、義経に応じた御家人(武士)はほとんどいなかった。

頼朝と義経の決裂、義経の没落が任官問題に端を発したことは、以前からの説であるが、本当にそれが原因であったかは疑わしいと思われる。  兄範頼(noriyori)の軍がさんざん手こずり、食料も乏しく士気も衰え、兵たちは鎌倉に帰りたがっていたのを、義経は二カ月余りで討ち破ったのである、この功績は疑いの余地はない。 しかしどの様な戦功があっても、頼朝の命令に背くとこうなると云う見せしめの役を演じさせたのではなかろうか。 朝廷が何かしようとしても、頼朝が認めなければこの様になると云う意思表示であった。

頼朝に反旗を翻し、罪人となった義経が全国を逃げ回ったおかげで、頼朝は、日本国総追捕使(soutuibusi)、総地頭(soujitou)の地位を朝廷より認めさせることが出来た。  全国の軍事警察の司令官であり、同時に地方の役人の任免、兵糧米の徴収を認められたのだから、頼朝の地位はほぼ確立された云っていいだろう。

京を追われた義経は、少人数での逃亡生活を強いられた。  この後の足取りは謎であるが、比叡山・延暦寺、奈良・興福寺、京・鞍馬寺、仁和寺といった強大な僧兵を抱えた治外法権下の寺院などを転々としていたようだ。 愛妾・静御前は吉野山中で捕えられている。  (続)

平成二十四年壬辰・巳酉・丁酉

義経合戦記

以前、腰越状の所で義経(yositune)について触れたが、「平家物語」等から義経の活躍を義経の立場から見てみる。 元暦元年(1184)になると合戦の主役は明かに木曽義仲から義経に転ずる。「吾妻鑑」

それは西征した軍士からの報告がたくさん載せられており、此処の合戦の合戦記の造られ方を知ることが出来る。 その合戦記を「吾妻鑑」編集に利用した可能性もある。

元暦元年の、義仲との合戦について報告記事からみてみよう。  これによると、源範頼・義経・義定らの大将軍からそれぞれ使者が出され、頼朝の許に報告が届いている、やはり合戦が終わると、各大将軍の許で合戦の集約がなされ、それを頼朝に報告していたようだ。(口頭で報告され、合戦記にまとめられてはいない)

正式には、軍奉行・梶原景時からの「交名注文」(kiyoumiyou・tiyuumon)が届き、頼朝の御感に預っている。合戦での記録への関心の高さがうかがえる。

義仲との合戦に続く一の谷の合戦では、範頼・義経から直ちに合戦記録が作成され、頼朝に届けられている。これによれば、合戦が終わると各大将軍の許で合戦記が作成されたのである。

「平家物語」では義経の合戦についてのみ大きくスペースを割いている。作者が義経の合戦記だけを採用した結果であろう。 逆に範頼の合戦記にについては利用しなかったか、手に入らなかったのではなかろうか。

次に壇ノ浦の合戦の戦勝報告をもたらしてきた時の「吾妻鑑」の記事に平氏討滅を内容とする「一巻記」が頼朝の許に届けられている。  作者は中原信康(nakahara・nobuyasu)である。    信康は義経の右筆であろうと推定される。後に義経と共に鎌倉に下って頼朝に款状を提出した。「腰越状」である。
鎌倉・万福寺の腰越状
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この時期の義経にとって祐筆の存在は欠くべからざるものがあった。  合戦記の作成もあるが、畿内における兵士役・兵糧米の賦課・免除にかかわっており、さらに権門・寺社から寄せられる東国武士の濫妨の訴えを裁き、頼朝から西国に所領を与えられた者に沙汰をしつけるなど、極めて多くの事務をこなす必要があった。そこに信康の文筆の才が高く評価された。
義経の合戦記が中原信康によって作成され、それが頼朝の許に送られ、そのまま失われずに幕府に残されていたとすれば、「吾妻鑑」はこれを利用したと考える。一方「平家物語」も信康の手になる合戦記を利用していたとすれば「吾妻鑑」と「平家物語」は似通ったものになっているに違いない。

やはり、「吾妻鑑」も「平家物語」も、ともに義経の合戦注文を基に構成されたとみられ、「平家物語」の描く源平合戦の主人公は義仲と義経である。 この二人が目覚ましい活躍をし、後々まで記憶に残る結果にもよろうが、義仲や義経には詳細な合戦記が残されており、それが利用されたからであろう。 

平成二十四年壬辰・壬寅・癸未