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旧跡

大幹線路・朝夷奈

*鎌倉・四角四境

元仁元年(1224)12/26条、疫病が流行したので、執権・泰時は四角・四境の鬼気祭を陰陽道に命じた。   四境とは、東は六つ浦、南は小壺、西は稲村、北は山内を指したようだ。案外近距離だが、六つ浦は鎌倉からは異郷の感が深かった。
朝夷奈切通しの鎌倉側・梶原景時、大刀洗の名勝
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南東方面の三浦・房総にかけては、主に三浦氏の領域であり、北西方面に比較して、幕府の管理の及ばない地域が多く含まれ、神経が強く集中していたことを示します。  幕府のまなざしが北西よりも南東の方に厳しく注がれていたが、その極限が六浦ということになる。

以上、述べてきました諸祈祷や祭事はすべて朝夷奈切通しが開通以前の古来の必要性に応じて対処していたことが解ります。 別な言い方をすれば、長い歳月の間の要請に応えるようにして、ようやく朝比奈切通しが開設されたということになる。 当然造られるべくして造られたと考えられる。  軍事上・政治上の必要性は無論だが、必ずしもそればかりでなく、祈祷・祭事等、種々の生活条件を満たすための要望を受け入れたという点も同時に見逃せない。

もっと明確な言い方をすれば、鎌倉の市街地の外郭もしくは外輪を完成するために、必要に迫られて急いで工事を実施したということになる。つまり大幹線道路「朝夷奈切通し」の開通は、鎌倉の外輪を強化したしたという意味で、線の発展ではなく、面の拡充をした結果にもなった。   (終)

平成二十六年甲午・辛未・庚午
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大幹線路・朝夷奈切通し

*朝夷奈切通し・開通

「吾妻鑑」建長二年(1250)6/3条、山内並びに六つ浦等の道路の事、先年たやすく鎌倉に直通させるために、険悪な道を改修したのであるが、当時まだ土石が通過道路に埋没していた。  要するにまだ開通しただけで道路と云える状態ではなかったようだ、従ってあらためて工事命令が出された様です。
横浜・横須賀道路の下を通過する朝夷奈道路(横浜市・金沢区)
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着工から十年、ようやく完成した切通しは一応完成したのだが、まだ不十分な点が残っていたので、総仕上げの命令が出た。 これでようやく工事が完了するわけである。やはり足かけ十年がかりの大事業だったことになる。

ここで特に取り上げたのは、「吾妻鑑」の記録に、「険阻な道を改修した」とある事です。  十年前、この工事を開始した時、すでに山越えの間道があったことを示唆している。  鎌倉と金沢港とを幹線は、細々とした素朴な形のまま早くから存在していたことになる。 自然発生した古い抜け道だったのでしょう。

いま、この切通しを訪れてみると、側壁の崖の上に熊野神社が鎮座しています。  切通しが開削される前、その神社の前を山越えの古道が通っていたことが覗える。  神社は峠の守護神だったと思われます。 そのような細い峠道を軍・官用に耐えられる程度の公道に仕上げるという事業が、執権北条泰時の掲げた大目標であった。

*切通し開通の真価

金沢地区は古くは六つ浦(mutura)といわれ、古記録にも多くその名で出てきます。 六つ浦の重要性を考えることは、結局は朝比奈切通しの価値を検討することになります。  両者を切り離して考えることはできません。その様な観点から鎌倉幕府にとって、六つ浦がどんなに大切な地域であったかを検証する。

「吾妻鑑」等によれば鎌倉は様々な災難に襲われたことが記録に残ります。その都度熱心な祈祷が行われている。祈祷の実態を調べると、鎌倉の四周の地域を含めて、幕府の視野はかなり広範囲に拡大されていたことが解ります。 その様な視野の中で、六つ浦がどういう位置を占めたのか、鎌倉と六つ浦とを直結する切通しがどの様な意味を有したか等を観て行きたい。

更に「吾妻鑑の記録から、祈雨のために七瀬の祓いをしたといわれる、ここに云われる七瀬のうち、金洗沢は行合川河口から西の七里ヶ浜の海岸で、腰越付近の古い地名と思われる。  六浦の金沢とは別である。・・・・・いたち川は頼朝が奥州討伐に出陣するときに渡った「出で立ち」がなまったものと思われます。横浜市・栄区を主に流れ柏尾川に合流し、江の島付近に流れ込んでいます。・・・・杜戸(森戸)は現在の葉山町。  結局七瀬というのは鎌倉海岸全域を中心として、三浦半島の六つ浦や葉山の地域を抱合していることになる。  鎌倉及びその周辺をかなり広い視野でとらえていることが解ります。 六つ浦はそういう視野の中で、重要な一角を占めていることを重要視したい。 (続)

平成二十六年甲午・辛未・丁卯

(続)大幹線路・朝夷奈切通し

*上総国朝夷奈郡・・・和名類聚抄に記載あり

「和名類聚抄」の安房国には朝夷奈郡(asainagun)の名がみえる、 朝夷奈(朝比奈)という名称は、古代より安房国・上総国の地名と不可分な関係にあったことを知る。  その様な意味で朝夷奈切り通しの開通は本来のあるべき姿に戻ったと云うこともできる。
朝夷奈切り通し金沢口(横浜市・金沢区)
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鎌倉から金沢港に直行する道路の要衝が、「朝比奈道」(朝夷奈切り通し)と称せられる部分であるが、そこはそれほど高峻ではないにせよ、本来は山越えで実用上不便きわまりない山道だったので、種々苦心の結果、そこに大きな切通しを造成したのである。  この切通しがなければ、幕府にとって六つ浦(mutura)(金沢港)はほとんど無用の長物となってしまう。

幕府という大所帯になると、今までのような細々とした間道では用が足りなくなっていた。  特に有事の際、何百騎という大軍の通過が見込まれ、その間道では対処できないことになると、著しく不利な状況が発生することになる。

しかしこの切通しは工事が困難を極め、本格的に開通したのは三代執権・北条泰時の時代になる。  山越えの難儀がようやく解消された。  「吾妻鑑」の記事にある工事開始の指令に注目したい。

*仁治元年(1240)11/30条、  鎌倉と六つ浦の津(金沢港)との間に、始めて道路を設ける必要があるということをお定めになった。 今日縄を曳き丈尺を当て、御家人等に工事を分担された。 明春三月末までに完成しなければならない旨、御下命があった。 武州(泰時)が工事の現場に監臨なさったのである。

記録によれば、上記の工事の予定が発表されてから、四か月以上経過しても一向に進捗しなかったらしい。 幕府・執権による命令が、四か月たっても始まっていない。・・・・・同じ命令が改めて公布され、完成予定を一年間延期し次の年の三月としたのである。  ここにもまた執権自らが現場に臨み、諸人群集し、土石を運んだとあります。

さらに記録によれば、二度目の命令が出てから一か月以上経過しても、まだ工事は停滞していた様子である。  執権職の泰時がたまりかねて、自分の乗馬を持ち出して、現場に出かけては土石の運搬を援助したという。執権・泰時が積極的に工事に加わっていることを重ね重ね強調していることに注目したい。

万難を排してまで、切通しを貫通させようとする鎌倉幕府の激しい意気込みが伝わってきます。 (続)

平成二十六年甲午・辛未・甲子

大幹線路・朝夷奈切り通し

*幹線道路と金沢港

鎌倉八幡宮から杉本観音前を通り、十二所(jixuunisou)に至る道は金沢街道と呼ばれ、重要な幹線道路であった。 金沢街道の東の端は現在の横浜市金沢区に相当する。  金沢町は称名寺や金沢文庫があるところで、歴史的風土の点では重要な地域であり、東京湾岸で、観光地としても注目される。  現在でも金沢街道と呼び、景観は変わっているが、幹線道路としての性格は変わらない。
旧金沢街道・朝夷奈道(鎌倉側・荷馬車のわだちが確認できます)
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鎌倉時代初頭のおいては、金沢港は六つ浦と呼ばれ、江戸湾内舟航の為の中心港であった。軍事的にも注目すべき要衝とされた。 安房・上総・下総・常陸の諸国全般ににらみを利かせるためには、絶対に抑えておかなければならない重要な拠点であった。

鎌倉幕府がそれらの国々の動静に絶えず神経をとがらせていたことは言うまでもない事で、六浦の管理権をどうしても掌握しておく必要があった。  繁栄を極めた幕府でも、もし万一政情不安定で武運急を告げ、鎌倉の地を放棄するような事態が発生した場合、六浦から出港して房総方面に遁走するのが最上の手段となるからだ。

古来三浦半島を支配していた三浦氏が、本拠とする衣笠城を放棄するような状況になりました。  治承四年(1180)頼朝の旗揚げ以後、頼朝に合流できず反頼朝勢力に衣笠城を攻められ、城主三浦義明が籠城戦を戦っている間に、次男義澄が全軍を統率、安房に渡ったのです。このとき、どのようなコースで安房に渡ったかは確定できないが、あるいは金沢港を使った可能性も一応考えられます。

*三浦大介義明・・・・・三浦一族当主。 源家累代の家人として、幸いに貴種としての源家再興の時に遭遇したのである。今、老命を武衛(源頼朝)の為になげうって、わが子孫の勲功に委ねよう。・・・・・という有名な言葉が残る。

ここで注目すべきは、三浦氏には安房国や上総国があったから、本拠の衣笠城を放棄しても、生きる手段があり得たと云うことである。千葉氏と三浦氏とは姻戚関係にあったということです。 あらかじめ房総方面へのパイプをしっかり構築していたのだ。

あとになって鎌倉に本拠を構えることに至った幕府についても、衣笠城にあった三浦氏とまったく同じ事が言える。 常に房総の領主たちとの間に親密な関係がない限り、平穏無事では済まされなかったに違いありません。  そのためには鎌倉から江戸湾に抜ける幹線道路の貫通は必須であったと思われる。

後年そのために執権職自らが陣頭指揮に立ち切通しの開設に専念することになる、それはまさに鎌倉と房総とを直結する大幹線路となるからだ。・・・・・ (休)

*朝夷奈切り通しに付いてはまだリポートを続ける予定ですが、ここで一旦終了します。

平成二十六年甲午・庚午・己亥

鎌倉地方の「やぐら」とは

2・法華堂・その後

仁冶三年(1242)正月、幕府は次のようなふれを出した。

「一府中墓所事  右  一切不可有 若有違乱之所者 且改葬之由 被迎主 且可被召其の屋地矣」

つまり、鎌倉御府内に墳墓は一切あってはならない。もしこれに違反すれば持ち主に改築させ、土地を没収すると云うのだ。以前からある墓地に対しても規制したものであろうとなれば、大変な規制だ。府内の大改造を試みた都市計画大作戦というところか?・・・・。
源頼朝・法華堂跡(鎌倉・雪の下)
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鎌倉という所は山に囲まれた自然の要塞のような町であるが、残念ながら非常に平地の少ない都市である。その平地に無制限に墳墓が出来ていったら生活する場所が無くなリかねない、軍事的にも経済的にも都合が悪い。時の執権北条泰時は鎌倉中の、辻々売買、小路を狭くする事、辻相撲等の禁止令を出している。

要するに道路や土地が狭くなるようなことは規制しなければならなかったのである。 しかし、墓所である法華堂を造れなくなった御家人達はさぞや困ったであろう。せっかく建てた法華堂も取り壊し、墓所を改葬しなければならない。が、府内に土地は無いのである。

苦肉の策として彼等が考え出したのが「やぐら」だった。

やぐらを思いついたきっかけは、奈良、平安時代の横穴式墳墓(ouketusiki・funbo)だと言われている。掘ってみると、鎌倉石と呼ばれる石は比較的軟らかい。要するに加工しやすいのである、法華堂風の横穴も出来ると云うことになったのかもしれない。

あるいは、石窟寺院などに影響された結果だと指摘されている。  また、寿福寺から八幡宮へ向う途中にある岩窟不動尊(iwaya・fudouson)は、「吾妻鑑」に窟堂(iwayadou)と記されている。この寺院は、不動明王を祀る岩窟が仏堂なのである。それから逗子の岩殿寺(gandenji)も本堂裏の岩窟に本尊が祀られている。

これら石窟寺院は鎌倉周辺だけのものではないそうだし、京都、奈良周辺にも多く作られている。仏殿としての岩窟と言う意味では充分に「やぐら」の前身と考えてもいいのではないか。

土地不足を「やぐら」という代用品で解消した事によって、鎌倉時代の史跡として今日まで残されたともいえる。木造の法華堂や寺院建築はみな焼失したまま再建されていない。  鎌倉には廃寺も多く、現存している物でも建物は江戸期に再建されたものが殆ど。肝心の鎌倉時代の史跡そのものが無いのが物足りない・・・・・。

だからこそ、「やぐら」と言う、先人が残した貴重な史跡を心して保存し、将来へ継承して行く必要があると考えますが・・・。

平成二十五年癸巳・戊午・丁酉