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大仏

鎌倉・大仏の謎

6・鎌倉大仏の原資材は・・・・・

詩人・与謝野晶子の詩ではないが「ハンサムだけど、傷の跡が痛々しいネ・・・」     近くで大仏さんを良く見れば、それもよくわかる、痛々しいお姿である・・・。

しかし、出来あがった当時の大仏は金色に輝き、もちろん傷跡も無い美しいお姿が想像される。  大正の関東大震災後の修理の際に頬やあごの周辺から僅かな金箔が見つかっており、金箔が全身を覆っていたと思われるから。

金銅仏の多くが鍍金を施すのに、この大仏が金箔を押した理由は、像・材料の成分の純度が低く、鉛分が多かったからのようだ。
露座の高徳院・大仏(鎌倉・長谷)
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鎌倉大仏            東大寺大仏

銅   68・76%           91・09%

鉛   19・58%            2・04%



奈良の大仏と比べなぜ鉛分が多くなったのだろうか。  これについては専門家で意見の分かれるところでありますが、なかなか面白い説が有りますので紹介しておきます。

鎌倉大仏の勧進、僧・浄光が北陸から西国を勧進する為、幕府に許可願をしている文中に、当時大陸の宋から大量に入ってきた「宋銭」が流通しており、その鉛分の多い宋銭を万民から集め鋳造したのではないかという文言が想像されます。

大仏が誰の手で造られたのかも謎の一つである。  大和国金峯山蔵王堂鐘銘に、「文永元年甲子八月二日鋳之、鎌倉新大仏鋳物師丹治久友」とあり丹治久友という鋳物師が大仏鋳造に携わった事が考えられる。他に当時相模国で活躍していた技術者・物部重光・季重らが棟梁として指揮をしたのではあるまいか。   (了)

平成二十五年癸巳・甲寅・丙申
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鎌倉・大仏の謎

5・鎌倉大仏の大きさ

鎌倉の大仏は高徳院の本尊である。・・・この寺院は、もとは大異山高徳院清浄泉寺と称していたようだが、現在は高徳院が寺号である。  門前の石標をみると、聖武天皇草創三十三ヵ国・総国分寺という肩書が有るが、史実として証明できていないようだ。
高徳院・観月堂(鎌倉・長谷)
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現在の宗旨は、浄土宗。 材木座にある光明寺の末寺である。しかし、古くは真言宗であった。極楽寺の忍性によって供養されていたり、一時は建長寺の僧によって管理されていたこともある。

本尊の大仏は、大きさに於いては奈良の大仏に次ぐものであるが、修理も殆ど行われず、鎌倉時代の創建のままの姿で今日に至っている点でははるかに価値があろう。  奈良の大仏は、頭、手などは後世のもので、当初の部分は胴体と蓮華座のみである。

美術的な価値も鎌倉大仏に軍配が上がると思う。・・・やや大きめな頭部との全体のバランス、優しく、知的な表情もいい。 特に下向きかげんの顔にある切れ長の目の彫りは、下から見上げる参拝者の目を意識したものと思われる。  もちろん奈良の大仏さんは奈良時代の造像で鎌倉大仏の祖先であることに間違いはない。

さて、鎌倉大仏の大きさだが、

総高(台座とも)・・・13・35㍍  (仏身)・・・11・32㍍

顔の長さ・・・・・・・ 2・35㍍                 

目の長さ・・・・・・・ 1・00㍍

耳の長さ・・・・・・・ 1・90㍍

口の幅 ・・・・・・・ 0・82㍍

重量  ・・・・・・・ 121トン


先にも触れたが頭を下向きにした顔には、何かを計算した鋭い彫が見られる。上瞼を出し、目は顔面に直角に刻みこまれ、これは視線を落とす効果を狙ったものであろう。  専門家の意見では宋風彫刻の影響を受けているそうだ。

平成二十五年癸巳・甲寅・甲午

鎌倉・大仏の謎

4・大仏鋳造の方法は?

「かまくらや、みほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」・・・与謝野晶子
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遠くから大仏を眺めると、縦や横に継ぎ目を見る事が出来る。特に上部の継ぎ目の跡が、くっきりと浮き出ている。  この継ぎ目を見れば大仏が分割して造られた事がよく解る。

大仏の鋳造の方法は諸説あるようだ。  例えば原型が木型か塑土なのか?。しかし、下から上へ順に造っていった事に替わりはない。   木像を原型とする鋳造法は次のような工程になる。まず、木像原型に対して鋳物砂を外側に塗り固め、外側の鋳型を造る。

鋳物砂・・・・・耐火度が高く、通気性・粘着力のある粘度分を含んだ砂。

このあと、外型を使って中型をつくる。これらはいくつにも分割して、十分焼き固めてつくられ、中型は表面を鋳物の厚さ分だけ削り取る。次に中型と外型をそれぞれ土で固定する。そして、中型と外型の間に溶金を流し込む。この作業が終了すると次の段へと同じ作業を八回繰り返している。  溶金についてはおそらく少量ずつ手鞴(tefuigo)でつくり流し込まれたのであろう。

鎌倉大仏の場合、この作業が下から八段階に分けて行われている。そのたびに土が積まれ、最終的には大仏と同じ高さまで周囲に土が積み上げられ、大仏が土中に埋まった形となった。最後は大仏の周囲や体内の土を取り除き、仕上げをしたわけだが、大仏の背中の窓の部分は、体内の土を取り出した穴だと言われている。

一方、塑造原型による鋳造説も有力だ。詳しい造像方法はここでは省略しますが、木像原型、塑造原型いずれの場合も、最終的には大仏を積み上げていった土が埋め尽くした事に変わりはない。

その他、「高徳院国宝銅像阿弥陀如来坐像修理報告書」をはじめとした調査報告からみた、注目すべき個所としては・・・・・首は胴体に造った棚にはめ込まれていること。完全に接着されていないのである、耐震性を考えてのことであろうか。

平成二十五年癸巳・甲寅・壬辰

鎌倉・大仏の謎

3・露座になった鎌倉大仏

鎌倉・高徳院の本尊は阿弥陀様であり、国宝だが、雨ざらしの露座である。  本尊が露座と言うのも珍しい。もちろん鎌倉大仏も創建当初は大仏殿の中に収まっていた。現在も大仏の周囲には礎石が残っていて、存在を主張している。
鎌倉・大仏礎石(鎌倉・長谷)
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その大仏殿が無くなったのは何時頃の事なのか、記録を辿ってみよう。  最後の執権・北条高時の遺子・北条時行(tokiyuki)が鎌倉に攻め込んだのが、南北朝時代の建武二年(1335)。  中先代(nakasendai)の乱である。時行の兵三万余騎が鎌倉に攻め入った際に大暴風雨に襲われ五百余りの兵が大仏殿に逃げ込んだと云う記事が有り、この時に大仏殿が強風に倒れたようだ。   (太平記)

大仏殿はその後も修復や再建を繰り返しながら存在していたからである。  応安二年(1369)九月にも台風に襲われ転倒したらしいが、明応四年(1495)八月の洪水、明応七年(1498)の大地震による津波によって、二百人以上の死者を数え、その水勢は大仏殿を破壊してしまった。

それ以降大仏の修復に関する記録は無い。  幕府を失った鎌倉は草深い里になっていくばかりだから、補修される事も無く天災の度に痛み続け、遂に建物が朽ち果ててしまったのではあるまいか。参るものも無く、雨に打たれ孤独な露座を受け入れざるを得なかったようだ。

このような荒れた時代がしばらく続くが、江戸時代に入った頃の大仏の様子は外国人の紀行・印象記がよく伝わっている。しかし、大仏はさらに傷みを増し続けた、もちろん管理する寺も無くなっている。

正徳二年(1712)、これを修復しようとしたのが、江戸の増上寺の顕誉祐天大僧正であり、施主は江戸の町人野島新左衛門(商人?)。  高徳院と呼ばれたのもこの頃とされる。大仏前にある灯篭も同じ時代のものと思われる。

この時の修復が十分で無かった様で、二十年後に本格的な補修が施された。  高徳院の住職・養国上人が中心となり、芝・増上寺の通誉頓秀大僧正らのバックアップのもとに行われたそうだ。  養国上人が修復を発願したのは享保十九年(1733)であったが、工事に三年掛かっている。

明治に入って、この大仏が外国へ潰しの値段で売りに出された事があるそうだが、真偽のほどは解らない。  明治初めに大仏殿再建の話が持ち上がり、財界人らの資金集めが行われたが、失敗に終わっている。

大正十三年の関東大震災では、台座が崩れ、大仏は50センチも前方に動いた。その後、何度かの補修が加えられたが昭和期に大仏像と台座を固定しない方法で補修された。地震には以前の構造の方が強いことが解ったからだ。

それにしても、数々の受難を潜り抜け、造立当初の姿で大仏が今日も座っているという事は驚きである。年齢にしたら七百歳をはるかに越える。

平成二十五年癸巳・甲寅・庚寅

鎌倉・大仏の謎

2・二代目は金銅八丈の釈迦如来?

当初の大仏は木造であった事が有力であるが、大仏完成後、僅か四年目の宝治元年(1247)九月の台風によって多くの仏閣が人家と共に破壊され、失われてしまった。
建長四年(1252)「吾妻鑑」の記述に鎌倉大仏の記事が有り、これが最後の記述となっている。「今日、彼岸第七日に当れり。  深沢の里に金銅八丈の釈迦如来の像を鋳始めたてまつる」
鎌倉・大仏・・・大仏殿礎石(鎌倉・長谷)
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台風で失われてしまった大仏をまた作ろうと云うことである。 同じ深沢にである。  ただ最初の大仏と違うのは、阿弥陀仏では無く釈迦如来であることだ。倒壊した大仏が木造・金銅かは何も記録が無いので、経緯で想像するしか無いのだが、今度ははっきり金銅仏と記している点も注目される。

八丈の金銅仏と言えば、造立の資金も莫大であろうし、鋳造の技術も簡単ではない。それなのに、誰が、何の為に造るのか全く触れられていない。  前の大仏がどの様になっていたのかもわからない。以前の大仏は僧・浄光の勧進だと伝えているが、今回は浄光の名もない。不思議としか言いようがない。

作家の永井路子氏の説によれば、三浦一族を滅ぼした北条氏が、鎮魂の意味を込めて造立させたのではないかという。  三浦の乱に戦功のあった安達氏の館が甘縄にあり、長谷とも近い。しかしこれは余りにも規模が大き過ぎるのではないか、疑問が残る。「吾妻鑑」も沈黙したのは一体何故だろう。

現在ある大仏が、建長四年に造り始めた大仏である事は間違いないようである。  普通八丈と云うのは、大仏が立った場合の高さを言い、坐像そのものの高さはその半分に見ればいい。  現・大仏の大きさは合う、しかし、今の大仏は釈迦如来でではなく、阿弥陀仏である。

建長の大仏は釈迦如来と、「吾妻鑑」は記していて、現阿弥陀仏と食い違ってしまうが、これは「吾妻鑑」の誤記という説で一応決着しています。  もし釈迦如来の大仏が本当に存在していたとすれば、現大仏は三代目?

平成二十五年癸巳・甲寅・戊子