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名門・三浦氏

幕府創設の功労者・三浦氏

*その後の三浦氏

五代執権・北条時頼の本当の狙いはおそらく相模国を実質支配する三浦介の地位と権限を奪い、同国を武蔵国同様北条得宗家の地域支配の基盤に据えようとしたところにあったのではなかろうか。  宝治合戦のあと時頼は相模守となるが、それ以降相模国は「相州御分国」と呼ばれたようです。
「ぼんぼりまつり」、立秋の前日から三日間鎌倉在住の文化人の書画をぼんぼりに託して奉納
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相模はもともと将軍知行国(関東御分国)の一つであり、北条得宗家はそれを簒奪したことになる。 このような点からも、いよいよ得宗専制と云われる体制が固まりつつあったと考えられる。  ちなみに三浦介の名跡は、宝治合戦で時頼の味方した佐原盛時(sahara・moritoki)が継承したようだが、実情は「吾妻鑑」の記述を見る限り、将軍や北条一族に対する供奉などの奉仕ばかりで、三浦介としての権限は手にしていなかったと思われます。

宝治合戦のあと三浦氏は相模守護の地位を失い、以後この国には守護は置かれずに、政所と侍所が権限を分掌したと考えられています。  かくして幕府の宿老筆頭三浦惣領家は滅亡した。

頼朝以来の宿老体制(合議制)の解体を意味し、幕府政治は最終段階の得宗専制体制へと移行したのです。  三浦氏に関して云えば、先述したように三浦介の名勝を継承した盛時の家計が生き残ったので、その後の三浦氏の歴史を検証しておこう。

鎌倉時代の歴史の中で、二度にわたる蒙古襲来(文永の役=1274、弘安の役=1281)はまさに国難というべき大事件であったが、 その危機を何とか切り抜けた鎌倉幕府にとっては、弘安八年11月に起こった霜月騒動(simotuki・soudou)も幕府史上最大といっていいような大騒動が起こった。 この事件は執権貞時(九代)(時宗嫡男)を補佐する安達泰盛(yasumori)と得宗家内管領(utikanrei)平頼綱(yorituna)が争ったもので、結果的に泰盛が敗れ、得宗家内管領の政治的発言権が強まり、この事件によって得宗専制体制は確立されたと考えられています。

この騒動で三浦一族は、盛時の子三浦介頼盛(yorimori)は動かなかった。・・・・三代下った高通(takamiti)の代(南北朝)に、宝治合戦で失った相模守護の地位が復活したとみられ、三浦介の名跡に実が伴うようになり、三浦氏が相模の実力者として再興する道が開けた。

室町期に入り三浦氏は三浦介・時高(tokitaka)が相模の雄として完全に復活していたが、実子がないため、扇ヶ谷上杉氏出身の義同(yosiatu)、(三浦道寸)を養子としていた。   しかし急速に勢力を伸ばした新興の小田原北条氏・伊勢早雲によって岡崎城・新井城と籠城戦を戦ったがついに敗れた。

こうして平安時代から続いた相模武士三浦氏の本宗は姿を消したが、多くの支族が、本宗家滅亡の後も各地に名跡を残しています。

*美作・三浦氏、 越後・三浦、和田氏、 陸奥・芦名氏、 安房・正木氏、 周防・三浦氏等・・・

(終)

平成二十六年甲午・癸酉・辛亥
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幕府創設の功労者・三浦氏

*三浦泰村・光村兄弟

リポートが少し脇道にそれていますが、もう少しそれます。・・・・・執権・経時が死亡してからひと月もたたない頃、昼前から鎌倉中に原因不明の騒動がおこり、間もなく噂を聞いた近国の武士たちが続々と鎌倉に集まった。 そしてこの騒動はしばらく続き、甘縄の安達義景(yosikage)邸から中下馬橋を中心に武装した兵士たちがひしめいた、戦乱を避ける市民たちが家財道具を担いで右往左往したという。
下馬・石塔(鎌倉・大町下馬四つ角)付近
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しかし、この争乱の結果はあっけなかった。  誰もが何のための争乱か解らないうちに、名越光時(nagoe・mitutoki),(名越朝時(nagoe・asatoki)の長子)が出家して恭順の意を表したのである。 ということは名越光時が首謀者で、幕府転覆を企てたという事になるのだが果たしてそうだろうか。

執権職を継承した北条時頼側が機敏に反応して、時頼邸を固め光時を牽制した。 事態の不利を悟った光時が髪をおろして時頼に帰順し、光時の兄弟たちも野心のないことを誓った為、騒動が収まったというところが真相であろう。  光時は越後守を罷免され、伊豆への配流が決まり、前将軍も失意のうちに京都へ強制送還された。

この事件は「寛元の乱」と呼ばれる事件であるが、この事件を通して三浦一族は、泰村の弟で前将軍の寵臣であった光村が深く関わっていたものの、光村自身も泰村ら兄弟にも何の咎めもなく、北条時頼邸における「神秘の沙汰」に泰村も参加している事が「吾妻鑑」の記述からも判ります。

*神秘の沙汰・・・・・執権邸における参会、参加者・北条時頼・北条政村・北条実時・安達義景等得宗側近

時頼には三浦一族に対する警戒心が萌ししていたのでしょう。  三浦泰村を自邸に招き、当時京都・六波羅探題を勤めていた泰時の弟、北条重時を鎌倉に呼び戻したいと相談したところ泰村が即座に反対したという。  こうした状況で泰村と時頼の関係はかなり微妙になったと考えられる。

三浦泰村という人物を「吾妻鑑」の記述から調べますと、かなり気性が荒かったようで、些細な事からトラブルを引き起こしていたようです。 例えば、将軍の前での射芸の見証(判定)で争ったり、御所内で行われる闘鶏会が開かれた際にトラブルを起こすなど数多く見られます。  生前の泰村との喧嘩が原因で出家するものまで現れた。三浦泰村が宿老三浦氏の家格をいかに誇りとしていたかを示すものと思われます。

しかるにこのような泰村の尊大な態度は、周囲の人々の批判の的となり、やがて泰村の惣領家が幕府内で孤立せざるを得ない状況を招くこととなっていった。 そしていわゆる「宝治合戦」へと引き込まれていく、三浦介として相模国に君臨していた状況の崩壊、つまり相模国の一般武士が三浦介の差配にもはや従わなくなったことを意味しています。  現に宝治合戦の初期の段階で執権・時頼邸の警護の一部にこれらの武士達が含まれていたという記述もあります。

執権・時頼の狙いはただ一点。 宿老三浦一族そのものの排除にあったことは疑いない、開幕以来三浦氏は宿老筆頭として並み居る御家人に対する影響力は大きく、何よりも宿老たる地位は鎌倉殿(将軍)を支えることを期待され、現に泰村の父義村は、将軍頼経に対し宿老として奉仕しており、泰村の弟光村も頼経とは幼いころから「側近」の関係にあった。 泰村自身もいつ何時将軍と組んで北条氏の築いた「得宗権力」への足場を危うくするとも限らなかったのである。     (続)

平成二十六年甲午・癸酉・戊申

鎌倉幕府創設の功労者・三浦一族

*二つの性格

鎌倉幕府創設に最も功績があり、その後も北条一門に迫る権勢を誇ったのは三浦一族だが、  この一族にはどうやら二つの性格があったようです。
代々の・三浦氏居城衣笠城址(横須賀市・衣笠)
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頼朝の信頼が厚く、多くの御家人の中から真っ先に三浦介という官職が与えられ、建久三年には頼朝の代行として、鎌倉に勅使を迎えた際に接待役を勤めた義澄(yosizumi)のごとく、温厚篤実なタイプがその一例である。

義澄の子義村(yosimura)も、とかくの風評はあるがやはりこの部類に入るだろう。 一族の和田義盛(yosimori)との盟約を裏切って「三浦の犬は友を食う」とまでさげすまれたが、自らは事をかまえず、大勢に順応しながらじっと時を待つ謀略家であった。  そしてその子泰村(yasumura)も幕府の中枢にあって評定衆を勤め、時に感情に走って争いごとをおこしたこともあるが、それでもまず軌道を外れる男ではなかった。

**評定衆・・・・・鎌倉幕府・執権、連署とともに幕府の政務や訴訟にあたる役職

しかし一方では、我が子、我が孫の犠牲となり、衣笠城で八十九歳の老腹切って自害した義明(yosiaki)や、義明の孫和田義盛(wada・yosimori)のごとき、武士の意地をたてて自害した激情家ともいうべきタイプがある。

宝治元年(1247)、に名門三浦氏を滅亡の淵に追いやったのもこの後者の方で、泰村の弟光村(mitumura)の直情が直接の引き金になったようです。   (宝治合戦)

*二つの勢力

不慮の死を遂げた将軍実朝の跡を継いだ九条頼経(kujiyou・yoritune)(摂家将軍)は、二歳の時に京を出て二十五年間、征夷大将軍に任じられてからでもすでに十八年余りを経ており、傀儡将軍とはいえ、名目上は鎌倉の主であり、北条家の上にあり、それだけに側近く伺候する者も多く、いつしか北条家の執政に不満を抱く御家人たちが、自然に御所に集まるようになった。 そして 鎌倉に二つの勢力の対立が生じつつあった。

当時の執権北条経時(tunetoki)はそれを恐れて頼経を廃し、 その子頼嗣(yoritugu)を将軍職に押し上げた。頼嗣は僅か六歳である。そのうえ翌年には十六歳になる経時の妹をめあわせている。  七歳の将軍と十六歳の花嫁である。どう考えても不自然であるが、それだけ急速に将軍家と北条氏の融和を図る必要があったのであろう。

「吾妻鑑」には、この頃転変地変が続き将軍自身が譲位を思い立ったように記述されているが、当時の支配層の大方の見方は、不自然な将軍職の継承だったに違いない。 それというのも、当時誰しもが気にしていたのが、北条一門ではあるが名越氏の動向である。  執権・経時は前執権・泰時の孫である。泰時の子、時氏が早世した為に執権職が孫にまわったのだが、まだ十九歳の青年に過ぎず、泰時のすぐ下の弟、名越・朝時(tomotoki)が執権職を継承してもおかしくない。 おそらくはそれを一番期待したのは将軍頼経だっただろう。 名越朝時が側近ナンバーワンだったからだ。  しかし、朝時はこの噂を恐れた。  もともと兄泰時とは不仲であり、その様な噂が身を亡ぼすことを知っていたからだ。 そして泰時や一門の噂を晴らすために、泰時が死ぬ直前に出家して野心のないことを証明した。

しかし、噂は決して消えることなくくすぶり続け、その結果頼経が将軍職を譲らざるを得なくなったことが真実だと思われます。  「吾妻鑑」には、天変地異が続いたためと記述されているが、明らかに不自然だ。  執権・経時は将軍交代という大事を成し遂げた二年後に二十三歳という若さで病没しています。  この時経時の遺児二人が幼少の為、弟の時頼に執権職を依頼したが、これがいよいよ名越氏に火をつける結果となった。(続)

平成二十六年甲午・癸酉・丙午

源氏に賭けた・海の武士団、三浦氏

*三浦氏発展の基盤

相模国三浦(御浦)郡に発展した武士団三浦氏は、平忠頼の弟、村岡五郎忠道を祖とする。  源頼光(minamoto・raikou)に仕えていたことが知られており、坂東平氏の中で最も早い時期に源氏の家人となった人物である。
衣笠城址・石塔(横須賀市・衣笠町)・・・三浦氏の居城であった。
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そのためか、三浦氏は忠通以後も源氏との関係が深く、後三年の役には忠通の孫三浦平太郎為継が義家(八幡太郎)の私兵として従軍している。  「吾妻鑑」・・・建保元年5/2条。

*後三年の役・・・・・平安時代後期・前九年の役の後、東北地方の覇者、清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦い。

頼光に仕えた忠通は、多くの郎党を伴って京都と東国の間を頻繁に往復したらしいが、為継の頃も同様で、弟の為俊が白川上皇の目に留まって北面の武者となり、検非違使佐兵衛尉を経て、駿河守に任じられている。    延慶本平家物語。

先の話だが、鎌倉幕府が成立してから、御家人の中から国守に任官するものが現れ、その中でもとりわけ早い時期(承久元年)に三浦義村が駿河守に任じられているのは、その為俊の先例があったかだとされる。

三浦氏は天治年間(1124~26)に義明が相模国雑事(zouji)にたずさわり、国衙の在庁として三浦介(miuranosuke)を称するようになったことはよく知られている。

三浦氏の先祖の忠通は村岡五郎と称したが、 この村岡は武蔵国大里郡村岡である。三浦氏関係の殆どの系図によると、三浦の地にはじめて居住して地名を苗字としたのは忠通の子為通であるが、「康平六年(1063)、源頼義より相模国三浦郡を宛がわれ、城を衣笠山に築き、始めて三浦を称す」 という意味の説明を付したものが多く残される。

ちなみに、「吾妻鑑」建保元年(1213)、5/2条には、「三浦平太郎為継、八幡殿(源義家)に属し奉り、奥州・家衛を征せしより以降、飽くまでその恩禄を啄ばむところなり」 とある。  いずれにしても、三浦氏は為通ないし為継の代より、源氏から経済的恩給を受けていたことは間違いないようだ。

*三浦氏の水軍

十二世紀末における三浦氏の所領は三浦一郡に留まるが、その存在基盤として見逃すことが出来ないのが、浦賀水道を中心とする制海権を掌握していたということであろう。  残念ながらそれを証明する史料は見つかっていないそうだ。しかし、有力な傍証がある、治承四年、頼朝の挙兵に呼応して衣笠城を攻め落とされた三浦一族が、海路安房へ脱出していること。   ここで態勢を立て直した頼朝軍の中で、三浦次郎義澄が案内したとある。
(吾妻鑑)
石橋山合戦に敗れた頼朝が再起を期して安房に上陸したとき、同国の武士として最初に参向した安西氏が三浦氏の支族と伝えられている事。  (三浦系図)

以上は、三浦氏が安房国への進出と勢力範囲をの動きを示した例であるが、その場合、当然のことながら、船舶とそれを運用する海人とを徴用できる態勢が準備されていることが必要である。したがって、三浦氏は常に動員可能な水軍力を保有していたことになる。

さらに、三浦氏はその水軍力を効果的に機能させるために、三浦半島対岸諸国の武士団とも緊密な関係を結んでいたことが解ってきました。

三浦半島は関東沿岸諸国の海上交通を扼する重要な拠点であり、三浦氏武士団の水軍力への依存度は相当大きかったに違いない。当時、国衙は国内の船舶や水夫を強制的に動員・徴発する権利・支配監督権を有していたと思われる。

衣笠城が落城した後、三浦氏一族が海路安房への脱出を果たしたのに対して、大庭景親を大将とする平家方の軍勢がこれを追撃しなかったのは不可解であるが、すでに兵船や海人達が三浦氏に抑えられ、追撃したくとも出来なかったのが真相であろう。   (終)

平成二十六年甲午・辛未・壬子