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征夷大将軍

頼朝・征夷大将軍任官

後白河法皇の死去により、頼朝の征夷大将軍が成った、これは京都・朝廷の摂政・関白、九条兼実の推挙に依るところが大きい。  どの様な関係かは詳しく判らないが、頼朝旗揚げの早い段階から情報を得ていたようだ。  頼朝側(源氏勢力)の状況が好転するにつれ、頼朝側に沿うような情報を送ったようだ。  (玉葉)(giyokuyou)

吾妻鑑・元暦元年(1184)の記事に次のような記事がある、頼朝は木曽義仲を討った段階で、「征夷将軍」などの、武士の棟梁として相応しい、何等かの官職を朝廷に要求した。しかし、この時点で朝廷(後白河)は要求に応じなかった。

朝廷は、現段階での武官職最高位の右近衛大将(ukonoe・taisiyou)の官職を与えたが、頼朝は間もなく辞任している。   建久三年(1192)後白河が没すると、頼朝は改めて武家の統括者としての「大将軍」への任官を望んだ。  側近文官・大江広元ら幕府吏僚達が知恵を絞り、朝廷に対し「征夷大将軍」への任官を申請したのであろう。
大江広元墓所(鎌倉・雪の下) 「やぐら」と呼ばれる鎌倉特有の墓
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摂政・九条兼実をはじめ、朝廷は極めて前向きに先例を勘案し、征夷大将軍の地位を鎌倉の頼朝に与えた。   これが後に武家を統括する象徴的な官職として用いられ、室町・江戸幕府へと継承されていくことになる。

「征夷大将軍」」という官職は、当時武士としての最上位に位置するポストであり、「源氏」出身でなければ任官できない官職であった。  後代の天下人、豊臣秀吉も「征夷大将軍」への任官を望んだが、任官していない。 結局秀吉は関白に就任し、天下人となっている。  織田信長は「右府」(右大臣)で本能寺で明智光秀に討たれた。近世の天下人・徳川家康は秀吉の死後「内府」(内大臣)~「太政大臣」と進み、さらに「征夷大将軍」に任官した。  家康は清和源氏の出身であった。
建長寺・唐門・・・・・元々芝・増上寺の徳川秀忠(二代将軍)夫人「お江(ごう)」(大河ドラマ)の御霊屋を唐門と共に建長寺に移築されたもの(解体修理)
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平成二十四年壬辰・癸卯・壬子
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「征夷大将軍」

木曽義仲は後白河上皇によって「征東大将軍」(seitou・daisiyougunn)に任命されていた。従来言われていた「征夷大将軍」(seii・daisiyougun)は誤り。・・・・・建久三年・頼朝は「大将軍」の官職を朝廷に要求している。従来言われたような「征夷大将軍」を望んでいたわけではなく「大将軍」を要求したのである。  これに対し朝廷は協議の末、義仲の「征東大将軍」、平宗盛が任じた「惣官」(畿内・軍事司令官)等を考慮し、坂上田村麻呂(sakanoue・tamuramaro)の縁起の良い先例を踏襲して「征夷大将軍」を頼朝に与えた。

「吾妻鑑」元暦元年の記事に次のような記録がある、頼朝は木曽義仲を討った段階で、「征夷将軍」(seii・siyougun)など、武士の棟梁として相応しい何等かの官職を朝廷に要求した。だがこの時点で、後白河は要求に応じていない。・・・・・その後勢力を蓄えた頼朝は、右近衛大将に任じ、朝廷が常置している武官職の中では上位の地位を得た。・・・とあり、少々の食い違いもあるが、まずは同様の記録とみてよいだろう。

後白河が没すると、頼朝は近衛大将への任命実績に基づき、改めて武力の統括者の指標たる「大将軍」の任官を望んだ。  大江広元ら幕府吏僚たちが知恵を絞り、請求に及んだのであろう。朝廷はきわめて前向きに先例を勘案し、征夷大将軍を頼朝に与えたのであろう。これが後に武家を統括する象徴的な官職として用いられ、室町・江戸幕府へと継承さて行くことになる。

一説によれば「征夷大将軍」という官職は、当時、武士の最上位に位置するポストであり、しかも「源氏」出身でなければ任官できない、と云う慣例があったようだ。   

後代の天下人・豊臣秀吉も「征夷大将軍」への任官を望んだが、任官していない。結局秀吉は関白に就任し、天下人となっている。 織田信長は「右府」(右大臣)で本能寺で討たれた。 近世の天下人・徳川家康は秀吉の死後「内府」(内大臣)~「太政大臣」と進んだ後さらに「征夷大将軍」に任官している。家康は源氏の出身であった。