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執権

執権・北条時頼

宝治元年(1247)宝治合戦を制した北条時頼は、連署に北条重時を就任させた。  長く六波羅探題を勤めた重時は鎌倉に下向し、北条泰時ゆかりの故北条経時の小町亭を居所とする。  執権・北条時頼は重時を、仁治元年(1240)北条時房の死去以来置かれていなかった連署に就けて、政治基盤の強化を図る。又、重時の邸宅に評定所や小侍所(kosamuraisiyo)が設置された。(将軍の近侍を管轄)   (吾妻鑑)

建長元年(1249)執権時頼による訴訟制度の改革、引付を設置する。  裁判の迅速化を図るため、御家人の所領に関する訴訟を担当する機関として引付を新設する。
1番頭人・・・北条政村・・北条義時の子、重時の後をうけて連署に就任。モンゴル問題対応。
2番頭人・・・北条朝直・・北条時房四男、北条泰時の娘との結婚を固持し続け、出世が遅れた。
3番頭人・・・北条資時・・ 々    三男、和歌に才あり、文官?

さらに引付衆に御家人・二階堂行方らが就任するが、次第に北条氏一門の若年者によって占められ、評定衆に昇任する出世コースとなる。  (関東評定衆伝)
夷堂橋付近より八幡宮方面を望む・旧小町大路(鎌倉・大町)
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建長三年(1251)幕府が鎌倉中の小町屋を指定する。  商業地域である小町屋を七か所(大町・小町・米町・亀谷辻・和賀江・大倉辻・気和飛坂山上)を指定し、それ以外の場所での商業を禁止した。 また、牛を小路に繋ぐことを禁止し、小道を清掃する事などをさだめる。そのほか建物を道路に張り出して建てることや町屋を造って道路を狭くすることを禁じている。  (吾妻鑑)

同年、鎌倉では謀反の情報が広まり、幕府や北条時頼邸の警備が強まっていた。  宝治合戦で没落した三浦氏や千葉氏の残党が捕えられ、 これに京都の藤原(九条)道家・頼経父子が計画に関与していたとされる。 翌年三月には、将軍藤原(九条)頼嗣(頼経の子)が廃されて、京都に送還される、と同時に九条道家はこれまでの関東申次を更迭され失脚した。 (吾妻鑑)

建長四年(1252)執権・北条時頼の申請により宗尊親王(munetaka・sinnou)が鎌倉に下向する。  宗尊は、後嵯峨上皇の第一皇子であったが、生母の身分が低いため、皇位継承の可能性がなかった。幕府の申請により、鎌倉に下向して、親王将軍が実現した。  (吾妻鑑)

建長五年(1253)建長寺落慶供養が行われる。  北条時頼により、鎌倉・山ノ内に建立された寺院。建長三年より建設工事が行われ、すでに完成し、中国(宋)より来日していた蘭渓道隆(rankei・douriyu)を導師として供養が行われる。丈六の地蔵菩薩像を本尊とし、地蔵菩薩像千体が安置される。 天下泰平の祈願と三代の源氏将軍と北条政子、北条氏一門の供養のために、五部大乗経(gobudaijiyoukiyou)の写経が行われた。  (吾妻鑑) (建長年間建立により、建長寺となる)
仏殿前の白槙(ビャクシン)七本・・・道隆が宋から持ち込んだとされる。
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康元元年(1256)  時頼が北条長時に執権を譲る。  嫡子(正寿丸・時宗)が幼少の為、長時に代理として執権を譲り、武蔵国の国務・侍所の別当・鎌倉の邸宅を預ける。  長時は、時頼の義兄にあたる。その後時頼は最明寺(saimiyouji)で蘭渓道隆を戒師として出家する。(現・明月院、アジサイ寺)   赤痢を患ったようだ。  (吾妻鑑)

文応元年(1260)日蓮は、前執権で得宗の北条時頼に「立正安国論」を提出するが、幕府に受け入れられなかった。  この後日蓮は、松葉ヶ谷の草庵を襲撃され(松葉ヶ谷の法難)、伊豆に配流される。  この時執権は長時であったが、病の癒えた時頼に実権があったのであろう。  (日蓮上人註画讃)

平成二十四年壬辰・甲辰・甲申
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名執権・北条泰時(三代)

北条泰時が政治家として多くの仁政を行ったことは、よく知られている。 冷静・沈着・温厚で政治的にも貞永式目の制定、評定衆制度の創設等「法律に従って話し合いで行う執権政治」を確立した偉大な人物とされる。 もちろんこのような泰時の人物像は、基本的に「吾妻鑑」によっている。そして「吾妻鑑」には、多くの偏見と不正確な描写があることは周知の通りである。

いずれにしても、鎌倉幕府を安定させ軌道に乗せた功績は泰時にある。 頼朝の死後、有力御家人の勢力を陰謀・諜略によって倒してきた父、祖父の強引な手法の反省があったかもしれないが、見事に慎重に改革を進めたことが他の記録にも見える。(新編追加)

 他に鎌倉・材木座の和賀江嶋築港事業を後援し、物資流通の便を図ったこと、武蔵野の荒野開発、新田開発を奨励したり、鎌倉東北側の朝夷奈口(asahinaguti)を拡幅し弟、実泰の武蔵六浦荘と結び、西北の小袋坂口を切り通し、山ノ内荘との便を図り、鎌倉への物資流入を円滑にした。

朝夷奈切通・石塔(鎌倉・十二支)・・現在の切り通し
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しかし、それだけであったかは疑問である、緊急用の軍事道路でもあったと思われる。鎌倉の東南に名越口と大切岸とを築いて、三浦半島からの兵力侵入を阻止できるようにしている。
大切岸(名越・法正寺)
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連署の北条時房が死ぬと、以降泰時は連署を置かなかった。泰時の自信の程が覗われる。 しかし、二ヶ月後泰時自身も死んだ。六十歳だった。  かつての頼朝の死を書かなかった「吾妻鑑」は、この時も泰時の死は書かなかった。  泰時の墓は粟船御堂、現在の常楽寺にある。

北条泰時がその執権職に18年間在職したことは前記したが、家庭の運には恵まれなかった。 頼朝生前の下知に従って、三浦義村の娘と結婚し、長男・時氏をもうけたが、10年後に離婚している。    その嫡男時氏は六波羅探題北方として在京していたが、寛喜二年(1230)病に倒れ鎌倉に帰って二十八歳で死亡した。

だがすでに、安達景盛の娘を妻にしていた時氏には、経時、時頼、時定のほか、四人の娘もあった。  夫時氏に先立たれた安達ノ方は、鎌倉甘縄の実家に戻って松下禅尼と名乗った。

この松下禅尼に育てられた、泰時の孫三人も、立派に育っていた。しかし祖父泰時は、嫡孫経時は心許なく感じられていたらしい。だが十一歳で小侍所別当、十七歳で評定衆と後継者として順当に昇進し期待されていた。一方弟の時頼は泰時のお気に入りだったらしい、さる御家人の些細な喧嘩の裁定を二人の兄弟がどの様にした処理したかで、経時を叱る一方、時頼の慎重な態度を褒めたと云う。

平成二十四年壬辰・甲辰・戌寅

家法制定と家令職

三代目執権としてスタートした、泰時は、義時の遺領配分で弟妹たちに多くを与えたのも、政村に厳しい処置を執れなかったのも、泰時の立場が弱かったからであり、その立場を強化する意味合いであろうと推定する。

このような立場で泰時が実行したのが、家令職の創設であった。  初代・家令に尾籐景綱を任じた。 (北鎌倉の尾籐ヶ谷は、彼の館の地であろう。)   北条氏の家令職は、その後、複数制になって執事と呼ばれ、その筆頭が内管領(naikanrei)となる。  鎌倉末期に権力を振るった長崎円喜(nagasaki・enki)がこれにあたる。
建長寺・半蔵坊より境内全景を望む(鎌倉・山ノ内)
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家令職創設に続いて泰時が行ったのは、北条氏家法の制定であった。 泰時が式を定めたと云う「家務ノ条々」が、それである。貞永式目よりも先だから、これこそ(日本最初の武家法)になるはずであったが、惜しくも現存しない。以降、随時に付け加えられ、御内法令と呼ばれることになる。

北条氏の惣領を亡父義時の法名である「得宗」と呼び、その系統を「得宗家」、その所領を「得宗領」と呼んで、北条一門庶家と区別する事によって、一定の権威性の確立を図ったのである。

鎌倉北条氏は、初代は時政になるわけだが、泰時が時政を初代としなかったのは、牧ノ方事件などの汚点があるためと云われる。 これに対し義時の名には、輝かしい承久の乱の勝利者と云うイメージがあり、北条一門はもとより、一般御家人にいたるまでの支持が大きい。

その、北条氏惣領家としての権威性を高める努力をしている時期に、側近の大江広元、叔母・北条政子と相次いで死亡している。  背後から支えてくれた重要人物二人を、失ったのである。(吾妻鑑)

嘉禄元年(1225)故頼朝夫人の北条政子が死去して以来、問題になっていた将軍御所の移転が行われ、将軍継嗣の藤原頼経が、義時邸南の仮御所から宇津宮辻子(utumiyazusi)の新御所に移った。  (吾妻鑑)
宇津宮辻子幕府跡・石塔(鎌倉・小町)
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御所を移した泰時は、叔父時房に援助を求め、六波羅探題・南方の時房を鎌倉に呼び寄せた。 執権複数制である。  鎌倉幕府の職制で連署(執権補佐役)への就任を要請した。  それと同時に、泰時は幕閣の重臣11人を評定衆に指名して、史上初の評定衆会議を開いた。

中原師員(morokazu)・・・大江広元の庶流、鎌倉に下向し、初代評定衆就任、時房の死後泰時に続き署名する
三浦義村     ・・・(武将)三浦義澄次男・三浦党
二階堂行村    ・・・(文官)二階堂行政の子、鎌倉中期の実務官僚
中条家長     ・・・(武官)幕府初期の活動は少ないが、北条氏との関係良。御成敗式目の策定に寄与
三善康俊     ・・・ (文官)初期問注所・執事
二階堂行盛    ・・・ (文官)二階堂行政の孫、政所執事
三善倫重(tomosige)・・・ (文官)初期幕府官僚、御成敗式目起草者の一人
後藤基綱(motutuna)・・・(武官)武将であるが官僚としての実績が残る
三善康連(yasutura)・・・(文官)御家人、幕府法曹官僚
佐藤業時(naritoki)・・・(文官)御成敗式目起草文に署名  
斎藤長定(nagasada)・・・(文官)文人官僚    初期の宿老会議に比べ文官官僚が多くなる。         以上11名

執権・連署と共に、以上11名の評定衆により、重要事項に合議制を取り入れると同時に、重臣たちの協力が得られるような体制にしたのである。 (関東評定衆伝)

嘉禄二年(1226)、将軍実朝が殺害された後、将軍の後継として鎌倉に下向していた藤原(九条)頼嗣が、承久の乱処理が一段落したこの時点で、正五位下右近衛少将、征夷大将軍(四代将軍)に任ぜられる。 (吾妻鑑)

それからの数年間は、鎌倉は平穏で、鎌倉中の境界の四ッ辻に灯籠のような石塔を建て、夜間には灯りを点じて、「塔の辻」と呼んだ。

貞永元年(1232)、勧進聖人往阿弥陀仏が鎌倉への船の着岸の煩いをなくすために、和賀江嶋(wakaejima)を築くことを幕府に申請した。執権泰時以下の助力を得て早々に完成している。  この付近は現在、材木座と呼ばれる。  (吾妻鑑)

平成二十四年壬辰・甲辰・甲戌

執権政治の確立へ

元仁元年(1224)北条氏の地位を鎌倉幕府に強固に据え付けた執権、従四位下前陸奥守北条小四朗・平義時死去・・・六十二歳。(法名・安養寺殿得宗禅門)

義時が死ぬと、すぐに京に早馬が発ち、六波羅探題赴任中の嫡男泰時・弟時房に報告された。 双方ともに、早い段階で京を発ったが、泰時は途中、伊豆北条(地名)に立ち寄り、兵を伴っての鎌倉入りであった。由比ヶ浜から泰時館までは、三十分程の距離であるが、なぜか由比ヶ浜に一泊している。
奈良時代の鎌倉・郡衙跡(現鎌倉・御成小)(鎌倉時代は幕府関係の建物と・有力御家人の屋敷跡?)近くに、時代は下るが、問注所跡も発掘されている。
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直後に京を発った叔父時房も由比ヶ浜に到着した。  又、下野足利荘から泰時の女婿の足利義氏も若干の兵を率いていた。 翌朝、時房・足利義氏と共に鎌倉に入った泰時は、若宮大路東側北端の泰時館に入る。 (現・宝戒寺)

泰時館にはすでに、腹心・郎党等が詰め警戒にあたっていた。  尼将軍政子が「早く家督を嗣ぎて、執権たるべし」と命じたが、時期尚早として、大江広元に相談をかけている。 (泰時は自分が家督と執権職とを嗣立する事にためらいがあったようだ)

義時の死後、後妻・伊賀ノ方の陰謀を察知していたようだ。  彼女の実家の兄弟・伊賀光宗らと図り所生の子政村(北条)の家督相続と、執権就任を目論んでいた。  伊賀の方が頼みとする、政村の烏帽子親の三浦義村であったが、尼将軍・北条政子が介入し、三浦義村を説得して三浦党を陰謀の与党から外している。  もっとも頼みにした三浦党に逃げられては、伊賀ノ方たちも手の出しようがなかった。 (吾妻鑑)

次に政子の打った手は、三浦義村、小山朝政、結城朝光などの宿老諸将を泰時館に呼び集め、将軍頼経と執権泰時を認めることを誓わせた。

問題は、政村の処置だった。泰時に代わって家督と執権とに擬せられたのだから、処置は厳しくなるのが道理であるが、  三浦義村が庇ったのである、政村は咎めを受けずに終わった。  この処置で判るように、泰時の地位が、決して強固なものでなかったと云うことである。

この時期の北条一族を系図で見ると、男子だけでも30人を超す大家族になっている。  この様に一族分流の傾向が濃くなっていたとき、これをまとめ上げ、北条一族として結束させ、三浦、安達、足利などの大豪族たちと力を拮抗させていくのが、三代目惣領としての泰時の責務であろう。

平成二十四年壬辰・甲辰・壬申

本当の権力者・執権~得宗

鎌倉幕府にあって、将軍が権力を持ったのは初代の頼朝だけで、頼家・実朝の彼の息子たちは、政権をめぐる葛藤の中で横死に追い込まれる。  その後の将軍は、京都から摂関家の子息や親王を迎えるようになったが、いずれも成長したり、周囲に側近団が形成されたりするようになると、犯罪者のように京都に送還された。
北条・執権邸跡(現鎌倉・宝戒寺) 萩の寺で有名
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鎌倉幕府において将軍に代わって権力を握ったのは、頼朝の妻政子を出した北条氏である。  北条氏は伊豆国の下級在庁官人クラスの出身で、千葉や小山、三浦などの豪族御家人に比べると見劣りのする家柄であった。

北条氏は将軍を補佐し、将軍の意を実行する「執権」として政治を主導するが、その地位を保つために、歴代の将軍が独自の権力を形成しないように監視し、干渉し、さらに競争者となる御家人達を次々と諜略し、倒す事によって力を伸ばしてきた。

拡大する権力は、その担い手に一族をも拡大させる。  幕府権力の成長・充実とともに、幕政を担う重要な役職が北条氏一門で占められるようになり、北条氏は多くの家に分かれ、そのメンバーは増大する。  北条氏嫡流の当主は「得宗」と呼ばれるようになり、政治の実権を握る。「執権」「連署」などの幕政上の公式の役職の意義は後退し、「得宗」はそれらの役職から独立した権威・権力の源泉となったのである。

鎌倉幕府の内情を見ると、実に陰惨である(頼朝・将軍以降)北条氏の実効支配下は、自らの優越を確保するため、有力御家人や京都から下ってきた将軍などについて、先回りしての謀反や陰謀の噂をでっち上げ、武力で潰しにかかった。  源氏の血を引く者、将軍に近侍する者、京都朝廷と縁故を持つ者などは、北条氏によって、悉く排除された。  北条氏内部でも得宗を脅かす存在は粛清の対象となった。

当時、姻戚関係によって勢力を広げることは一般的であり、鎌倉でも多く利用された。しかし、有力なるがゆえに将軍や得宗と姻戚関係を結び、幕政を盛建てる努力をした。  そのために危険視された。まさに骨肉の争いである。

建仁三年(1203)・・・・・比企氏  二代将軍頼家の妻の実家
宝治合戦(1247)・・・・・頼朝旗挙げ以来の豪族(三浦氏)
霜月騒動(1285)・・・・・    々     (安達氏)
比企一族の墓所(現鎌倉・大町妙本寺) 日蓮宗
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他に滅ぼされた主な御家人を列記すると、まず上総介広常、梶原景時、畠山重忠、和田義盛、北条一族で、名越光時、と次々と有力御家人を葬っていった。

鎌倉時代と云えば、源頼朝をイメージすると思いますが、頼朝を始祖とする鎌倉幕府を維持した勢力として、源氏(源家)の支配は約30年、以後約120年間は北条氏の執権・得宗政治が支配。  足利氏の室町幕府へと続くのである。

平成二十四年壬辰・癸卯・戌午