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御門葉

御門葉(gomonyou)

御門葉・・・一般的には「同一血統の血縁者」と云うことだが、「吾妻鑑」でのそれは少し違う意味だったらしいい。  本来清和源氏と云う頼朝の同族だと云う意味だったが、頼朝にとっての「御門葉」というのは、血統だけによるものではないと云うことである。
若宮大路幕府跡・石塔(1236~1333)鎌倉・雪の下
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いずれにしても頼朝が創始した「御門葉」には、いくつかの特権が付与されていた。
>源姓呼称が許される。・・・・・ただし、国司在任中の一代限りの尊称。
>家政機関・政所・・・・・・の役職名を名乗る。(右大将家・御氏族)
>重要な席・行列などに頼朝の直後の位置を与えられる。

血統的に清和源氏であること、頼朝の推挙を得て、朝廷から関東御分国の国司に任命される事。以上のような条件をクリアーして、「御門葉」となる。

元暦元年(1184)頼朝が京都朝廷に推挙した清和源氏の三人が、朝廷から国司に任命された。
>源範頼(三河守)
>大田広綱(駿河守)
>平賀義信(武蔵守)
続いて文治元年(1185)、同じく清和源氏の六人が国司に任命された。
>山名義範(伊豆守)
>大内惟義(相模守)
>足利義兼(上総介)
>加賀美遠光(信濃守)
>安田義資(越後守)
>源義経(伊予守)
元暦元年の三人と文治元年の六人が国司に任命された九ヵ国のうち、三河・駿河・武蔵・伊豆・相模・上総・信濃・越後の八ヵ国は、頼朝が知行国主である関東御分国(kantougobungoku)だったと云うことに、間違いない。したがって八ヵ国の新国司については、みな頼朝の推挙があっての任命だ。  だが義経が国司に任命された伊予国は、関東御分国ではなく、後白河が推挙権を持つ後白河院分国であった。  つまり義経の伊予守就任は、頼朝の推挙があったわけではなく、後白河法皇の任命だったことになる。 義経と頼朝の行き違いはこのあたりが発端かもしれない、建久四年、兄範頼が謀反の嫌疑を受け失脚している、これら一連の動きが、義経を平泉へ逃避させたのかもしれない。

以上のような「御門葉」とは別に、「准門葉」(jiyunmonyou)と云うものもあった。 大江広元、毛呂季光(moro・suemitu)、下河辺行平、結城朝光であるが、いずれも、血統は清和源氏ではない。

この制度の恒久化を頼朝は期待していたが、頼朝の死後、それまで無位無官だった北条時政が遠江守になり、北条義時が相模守になるなど、制度は崩壊していった。

余談であるが、「吾妻鑑」を愛読したと云う徳川家康は、紀州大納言家・尾張大納言家・水戸大納言家をもって「御三家」としている。 御門葉の制を真似たのかも知れない。

平成二十四年壬辰・癸卯・甲辰
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