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貞永式目

貞永式目(Ⅱ)御成敗式目

以前にも式目に触れたことがありますが、北条泰時の流れに沿って記事を進めることにします。

承久の乱後、急遽鎌倉に呼ばれ執権に就任した北条泰時は、連署を置き叔父の北条時房を指名した。次いで泰時は、幕府の政務・裁判の最高議決機関としての評定衆を設置し、幕府政治を合議政治、集団指導体制に移行し、執権政治の確立に努めた。  (メンバーは前記参照)

これら評定衆のメンバーを見ると、中原・二階堂・町野・大田氏の政務官僚と三浦氏・中条氏等の御家人中の長老格を加えており、広く御家人層の支持の上に幕府運営を進めてゆこうとする泰時の政治方針が伺えよう。 メンバーは、評定会議に臨んで起請文を提出し、政道に尽くすことを誓ったと云う。  (吾妻鑑)
円覚寺・舎利殿(正続院・国宝舎利殿) 西御門・旧太平寺からの移築とされる
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承久の乱後、新恩領地を得た幕府御家人達と各地区の旧領主との所領紛争が表面化し、これらの紛争を円滑かつ公平に裁判するには、判決の基準となる法律の成文化が必要とされ、全国政権としての武家政権にとっても成分法の制定が求められた。

執権就任から八年後の貞永元年(1232)北条泰時は「貞永式目」の起草を大田康連に命じ、式目制定に着手した。 着手以来80日余りで幕府の基本法典「関東御成敗式目」は完成した。 短時間での完成である。 式目の末尾には、理非の判断については、ただ道理の推すところを思いのままに申し立てること、評定における決定は、全員の連帯責任で処すると神仏に誓っている。  (吾妻鑑)

御成敗式目の詳細については、カテゴリー「貞永式目」参照

同年、六波羅探題として京都に赴任中の弟重時に書状を送り、「この式目は、公平な裁判を行うために、武士社会の習慣である道理に基ずいて作成されていること、あくまで武士の便宣のためのものであり、これによって律令の規定が変更される事はない」と述べている。  (弟に対する心構え?)  (対朝廷対策)?

一方、一門に対して泰時は、故義時の法名得宗を持ち出し、幕閣では「右大将家ノ先例」を振りかざしている。一門に対しては家令職の創設と家法の制定、幕閣では評定衆と貞永式目である。

何を意味するかは、泰時の立場である。一門に対しても幕閣においても、決して強固なものではなかった、執権泰時の立場が弱かったからこそ、執権政治派確立したのだと言えよう。  その執権の職に、泰時は十八年間も在籍していた。その時期は安定した。
若宮大路幕府跡・石塔(鎌倉・小町) 嘉禎二年(1236~1333)幕府滅亡までの97年間
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嘉禎二年(1236)第四代将軍、九条頼経が宇津宮辻子御所から北側の若宮大路に新造された御所に移る。 若宮大路御所である。  この新御所は、宇津宮辻子御所の北西寄りにあったが、どうやら両御所は同一区画内にあったらしい、この御所移転により鎌倉中の中心は鶴岡八幡宮・大蔵御所・永福寺を結ぶ地域から、鶴岡八幡宮と、それから南に延びる若宮大路に移っていく。  (吾妻鑑)

平成二十四年壬辰・甲辰・丙子
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貞永式目(武家政権の自立)

元仁元年(1224)鎌倉政権樹立に大きな役割を果たした執権北条義時(二代)が急逝した。  承久の乱後も六波羅探題として京都にとどまり、戦後処理にあたっていた長男泰時が、鎌倉に呼ばれ執権に就任した。泰時、時に四十二歳であった。

泰時は、幕府の最高議決機関である評定衆を設置し、また日本最初の武家法典である貞永式目(jiyoueisikimoku)・「御成敗式目」を制定するなど執権政治の確立に努め、北条氏歴代の中で名執権として、古来その誉れが高い。

新執権に就任した泰時は式目制定の準備(明法道の目安に目を通す等)をし、また、承久の乱後、激増する訴訟に対して、円滑にかつ公平に裁決を下せるよう、その準拠となる法典の成文化の必要性を強く認識していたことと想定される。

幕府政治を推進しようとする泰時であるが、鎌倉幕府草創期の中心的存在であった大江広元と、実質的な将軍の役割を果たしていた大伯母・北条政子が相次いで死去する等、大きな打撃を受けた。しかし、これを契機に幕府の政治改革を実行し、まず連署(鎌倉幕府で執権と連名で署名をする役)を置き、叔父の北条時房を指名した。

次いで泰時は、幕府の政務・裁判の最高議決機関としての評定衆を設置し、幕府政治を合議政治、集団指導体制に移行し、執権政治の確立に努めた。  「吾妻鑑」には、[相州(時房)・武州(泰時)・助教(中原師員)・二階堂行村・三浦義村]らが評議始に参列したとある。評定衆は他に[中条家長・町野康俊・二階堂行盛・矢野倫重・後藤基綱・大田康連・佐藤業時・斎藤長定]の執権・連署を除いた11名が任命され、最初の評定衆の会合に参列したと推測される。

これら評定衆のメンバーを見ると、中原・二階堂・町野・大田氏等の政務官僚と三浦・中条等の御家人中の長老格を加えており、広く御家人層の支持の上に幕府運営を進めてゆこうとする泰時の政治方針がうかがえよう。 メンバーは、評定会議に臨んで起請文を提出して、政道に尽くす事を誓ったと云う。

承久の乱の勝利によって、新しく新補地頭が広く設置されて幕府の勢力が進展し、その支配領域が拡大するに伴って、各地に公家と武士、もしくは御家人同士による所領紛争が激増していった。 これらの紛争を円滑かつ公平な裁許を下すためには、判決の基準となる法律の成文化が必要とされ、全国政権としての武家政権にとっても、成分法の制定が強く求められたのである。

執権就任から八年後の貞永元年(1232)北条泰時は「貞永式目」の起草を大田康連に命じ、式目制定に着手した。  着手以来八十日余りで、鎌倉幕府の基本法典である「貞永式目」を完成させた。  短時間での完成である、また式目の末尾に、理非の判断については、ただ道理の推すところを思いのままに申し立てること、評定における決定は、全員の連帯責任で神仏に誓っている。

日本最初の武家法である貞永式目が制定・公布されたが、この式目を幕府はどのように位置づけたのであろうか。この日以後の裁許には、必ずこの式目が運用されるよう定められたことが知られる。また式目公布以前の法律事象に遡及適用しない事を意味していた。

式目は、決して律令格式(公家法)がいささかも影響を受けるものではなく、式目が公家法と明確に区別されるべき事を強く主張している。  泰時が六波羅探題として京都赴任中の弟・重時への書状であるが、京都の朝廷・公家社会を強く意識したものである。 式目の制定は武家法の公家法からの独立を意味するものであろう。

式目は全文五十一条からなり、武士にも解りやすいように平易な言葉で書かれていることも特徴の一つである。「吾妻鑑」には、全文五十一条の記載はないが、式目は今日も現存するので、その主な内容について触れておきたい。  前にも記したが、新法不遡及の原則を規定している。 
一・二条 / 神社・仏寺の修理と祭祀、仏事の励行を規定。
三・四条/ 守護の職務・警察権限の規定。
五条/ 地頭の年貢滞納の処分規定。

六条/ 幕府と朝廷・本所との裁判管轄に関する規定。
七条/ 不易(fueki)の法と呼ばれ、源頼朝から実朝に至る三代将軍と北条政子の時
     代に、幕府から与えられた所領は、旧知行者が訴訟を提起しても改め
     られないと云う規定。
八条/ 知行年記法で、二十年を超えて継続して知行してきた所領は、知行するに至
    った事情の如何を問わず、知行権を保障すると云う規定で、7・8条どちらも
    御家人の所領保護を原則としており、律令・公家法に対する武家法の独自性
    を強く示すものである。
九~十五条/  刑法に関する規定。
十八~二十七条/  民事訴訟に関する規定で、御家人層の親子・夫婦・兄弟関係
          における所領の相続、帰属をめぐる問題を規定。
二十八~三十一条/  裁判制度・訴訟手続に関する規定。
  
  以下五十一条に至るまで、各種の規定が入り混じり配置されている。
式目は土地関係の規定が多く、また武士社会の生活の中から作り出されただけに、極めて実際的・現実的な規定であったと言えよう。   時代の経過に伴って、式目の不備を補充・修正する単行法令を発布した。 「式目追加」である。追加法は750ヵ条に及ぶと云う。  こうして実際に運用され出した式目によって、東国の鎌倉幕府が政権を担当して、独自の武家政権を担ったのでしょう。