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北条時宗

モンゴル襲来と北条時宗

大陸ではモンゴル(元)の襲来によって宋朝が滅亡の危機にあり、やがて征服されました。北条時頼の招きによって来日した禅僧にはモンゴルへの敵対する思いがあり、その影響もあって時頼の死後に若くして政治指導者となった嫡子・時宗は、モンゴルの襲来に強硬に対応、二度にわたる元の襲来を全国の御家人を動員して退けました
北条時宗廰所・仏日庵の寺院、臨済宗円覚寺・山門
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さらに高名な禅僧の無学祖元(mugaku・sogen)を宋から招くと、時宗は建長寺に次ぐ禅宗寺院として同じ山之内に円覚寺を建立してその開山としましたが、ここには二度のモンゴル(元)との合戦で亡くなった人々の霊を敵味方無く慰める意図がありました。

禅宗が渡来僧によって直接にもたらされた事もあり、禅宗の背景にあった宋の文化も直接鎌倉に入ってきて、その生活文化や学問が武家文化に大きな影響を与えるようになったのです。この影響を加速したのが大陸との貿易です。  元(モンゴル)の方針が経済交流を望んでいたこともあって、多くの唐物(karamono)が流入した。

中国から仏典や漢籍が入ってきました。それとともに日本や中国の古典学習も進み、和書・仏典・漢籍などを蒐集し、それを収める「金沢文庫」のような武家の文庫も生まれました。

鎌倉に入ってきた仏教信仰は禅宗だけではありません。武家政権の保護を求めて、戒律の護持を求めた律宗や法華経に基づく政治改革を求める法華宗(日蓮宗)、そして踊り念仏と念仏札の配布とによって念仏を勧める時宗(jisiyuu)など、それぞれに鎌倉をめざしてきましたが、これにら対して幕府は戒律の重要性を認識して律宗を受け入れたので、極楽寺や称名寺、浄光明寺、覚園寺などが律院として発展したのです。

*西大寺流律宗・・叡尊(eison)、金沢実時の招きだ鎌倉に下向。  弟子の忍性(ninsiyou)が開山として極楽寺に入る。

こうした新・旧仏教の鎌倉進出は著しいものがあったが、一方この時期の鎌倉の人々は厳しい生活環境の中に置かれていた事について触れて置かなければならない。僧・日蓮が著した「立正安国論」の冒頭には、[近年から近日に至るまで、天変地異・飢餓疫病があまねく天下に満ち、広く地上にはびこっている。 牛馬は巷にたおれ、骸骨は道にあふれている。これを悲しまないものは誰ひとりとしていない]との記述が見える、これは決して誇張された表現では無かったと思われる。  実際に、鎌倉はたびたび、火災・大風雨・異常現象などの災害や飢饉に見舞われていた事も記憶しておくべきでしょう。

平成二十五年癸巳・己未・甲子
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北条時宗その後

弘安五年、元寇襲来の戦没者供養のために建立された、北鎌倉・円覚寺の開基は、鎌倉幕府第八代執権・北条時宗(1251~1284)は、円覚寺建立の二年後、弘安七年四月に死亡した。 原因は判らないが、33歳と、まだ若く働き盛りの年齢だが、若くして執権となり文永・弘安の役で元寇を撃退するなど、激務による過労が命を縮めたのでは、と言われている。  (関東評定衆伝)
北鎌倉円覚寺・山門(鎌倉・山ノ内)(鎌倉五山・二位) 
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次に時宗の兄弟について少し触れておきたい。  父時頼は子息の序列を定めたことは前記したが、特に異母兄との葛藤は想像に耐え難かったに違いない。三郎時輔である。 少年時代のコンプレックスが、青年に達したときの自分の立場を考えた時に相当の重圧であったに違いない、自分が嫡流で、自分より優れている異母兄が冷遇される時に時宗の決断は想像しにくい。 結局、周囲の判断で六波羅探題・南方(空席であった?)と云う閑職に出された。 文永九年の二月騒動  (反得宗勢力の名越教時等の反乱) に連座したとされ、京都で北条義宗に討たれてしまった。

同母弟・北条宗政は、建治三年(1277)に武蔵守と一番引付頭人を兼任し、公武の要職を務めた。さらに筑後国の守護職を任命された。 元弘による日本再侵略の危機が迫った状況下、時宗は、最も信頼のおける宗政に、最前線の困難な任務を託したのである。

筑後守護職の前任は「二月騒動」で教時と共に殺害された名越氏の・北条時章であった。 その名越家の影響力が強く残る筑後国で、宗政は、元寇との戦争に備えて、御家人の動員や兵糧の徴発業務を行わなければならなかったのである。
元弘による二度目の日本侵略に対する防衛戦争である「弘安の役」を苦難の末に勝利した数ヵ月後に、宗政は亡くなった。

文永の役・弘安の役の戦後処理を巡っては、御家人の恩賞に関する紛争が多く発生した、元来「反得宗」の土地である。その様な状況の中での宗政の死である。はたして病死であったのでしょうか。  北条宗政は、時宗が〈執権」として、「得宗」として、天下を治めるに当たり、その影となり、つらい役目を引き受け、兄である時宗の為に尽くしたのである。

その宗政の死を、時宗は深く嘆き悲しんだ。  時宗の遺言かは不明であるが、次の執権は嫡子・貞時が就任したが、その次の執権に宗政の子・師時(morotoki)が執権に就いている。  (第十代執権)
北条宗政・菩提寺・浄智寺 (鎌倉五山・四位) 嫡子・師時の創建
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弘安七年(1284)  幕府は、新式目三八箇条を制定する。  前半十八箇条は、寺社領に関する項目から始まり、学問や武道の奨励、僧や女人の政治介入禁止、倹約実行、過分の進持や造作の禁止、臨時公事(kuji)の停止等、為政者の心得を、後半二十箇条は、幕府のとるべき施策をあげており、屏風絵等の贅沢禁止や、武士でない者が鎌倉市中で騎馬する事を禁じるなど、生活細部にわたる統制内容が定められた。・・・・公事・・領主が領民に課した臨時の年貢のこと、諸行事等に課せられた。  (新式目)

北条時宗の死後、空位となっていた執権の座に嫡子で十四歳の北条貞時(sadatoki)がついた。  時宗急死の報に、六波羅北方であった一族の長老時村(政村・子)は、急遽鎌倉に向かったが三河で追い返された。  こうした複雑な事情の中で、貞時執権就任を主導したのは、貞時の外祖父で有力御家人の安達泰盛といわれる。  (関東評定衆伝)

平成二十四年壬辰・甲辰・庚寅