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景観

鎌倉時代の家の構造は?

建長四年・幕府が民家の酒つぼを調査した数で推定すると、三万七・八千戸と云われている。  かなり人口密度の高い町であったことがうかがえる。
鎌倉時代以前はどうだろうか>「吾妻鑑」などでは、田舎で、人の数も少なかった様に書かれているが、最近の発掘調査では、古墳時代から豪族的な武士が住み、奈良時代には群家(guuke)がおかれれていた様子が見える。
御成小学校(今小路西遺跡)の発掘では糒(hosii)を上納した旨を書いた木簡が出ており、ここが役所であったと推定された。広さ八十平方メートルもの倉跡が五か所も見つかっている。又この付近から掘っ立て柱建物跡も見つかっている。
このことからも、鎌倉は、奈良時代の昔から寂しい土地ではなかったといえそうだ。
密度の高かった鎌倉時代の家はどの様な造りだったのだろうか。・・・現存する絵図などの、史料を参考に考えると、武家の館の場合は、周囲に堀をめぐらし、板塀を設け、門には櫓をつくり弓や楯を備えている。
かやぶき、板ひさひの、主殿は板の間、一部に畳が敷かれている。又主人を警護する郎党の詰める遠侍(toosaburai)もある。
一般の民家と違い敷地も武芸の鍛錬が出来るくらい広い。しかし、外敵に備えた実践的な造りで、華美なところはなく、質素である。
幕府の建物にしても、広さは東西二百七十メートル、南北二百メートル、造りは寝殿造りではあったが、質素なことは御家人の館と変わらない。

町屋・小町屋と呼ばれる民家はどの様な構造になっていたのだろう。
町屋を建てられる場所は限定され、幕府によってきめられていた。大路・小路に沿って建てられていたようだ。    町屋らしい建物跡は、鎌倉駅西口の市役所付近、諏訪東遺跡等から発見されている、方形竪穴と呼ばれるものである。
木器・漆器などの生活用具が出土していることから、民家と想定される。ただ諏訪氏・千葉氏の屋敷跡とみられるので、その従者の家とも考えられる。
最近佐助ヶ谷遺跡で発掘された建物跡によく似ているらしい。方形で半地下になっている、深さ三十センチほどの竪穴を家のスペース分だけ堀り、周囲に板材を立てる。そして土を穴に戻すと壁となった板材はしっかり固定できる。内部の土の上に角材などを置けば板床にもなる。「方形竪穴」である。
良い材料がなくとも、簡単にできる質素なものでよく。耐用年数はないが、壊れればまたすぐ建てればよかったのである。
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鎌倉時代の繁華街は小町大路(+7

鎌倉で最も賑やかな通りといえばやはり小町通りであろう。鎌倉駅から八幡宮前の通りまでのわずかな距離ではあるが、あれよあれよという間に観光客相手の店舗が立ち並んでしまった。

小町通り(鎌倉駅)s-2011_0124_104155-DSC01342.jpg
鎌倉時代に最も賑やかだった通りというと、恐らく小町大路か、大町大路ではないだろうか。なかでも、大町大路が若宮大路と交差する下馬付近、大町小路と交差する大町四つ角付近は当時の最大の繁華街と云われている。
下馬四つ角(一の鳥居方面)span>
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下馬四つ角(長谷方面)<s-2011_0124_105245-DSC01346.jpg
大町四つ角(八幡宮方面)
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大町四つ角(下馬方面)
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大町四つ角(三浦方面)s-2011_0124_110143-DSC01349.jpg

小町大路は、若宮大路を挟んで小町通りと反対側にやはり若宮大路と平行にのびている住宅地の中の道だ。八幡宮寄りの武家の街と南寄りの商人の街をつなぐ道としてにぎわった。
日蓮上人が辻説法をしたのもこの辺りと言われ碑が残る。
小町大路(日蓮辻説法の跡)付近
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大町大路とは、甘縄あたりから現在の由比ヶ浜大通りをへて若宮大路を横切り、名越から長勝寺付近まで道筋を云ったものと思われる。これは箱根足柄山を越えて相模に入り、藤沢・片瀬・腰越を通って極楽寺坂から鎌倉に入り、横須賀の走水までの古東海道の道筋といわれる。
若宮大路と交わる下馬、小町大路と交わる大町四つ角付近が賑やかだったわけは、主要道路が交わっていたこともあるが、大町とか材木座などの商業地域を控えていたからだ。 鎌倉幕府は、ある種の規制が必要になり、実朝の時に、町人以下鎌倉中の諸商人の員数を定むべきとの下知があった鎌倉で正業に着かないような人間は田舎に追いやり農耕に務めるよう奉行人に指示をした。鎌倉中小町屋の事定め置かるる處々。 大町・小町・米町・亀谷の辻・和賀江・大倉の辻・気和飛・坂山上・定められた地以外は商売地域と認めないとされた。では、>そこではどのような商いが行われていたのだろうか。衣食住関係はもちろんだが、武具・武器・馬具といったものを造る職人もいただろうし、土器・鍋・包丁・傘・草履といった日用品関係と日常の必需品である炭・薪・藁・糠等で公定価格を示した事から、span>幕府の介入が見える。鎌倉には鎌倉七座と云うものがあり、座とは物を置くところ、物を売る店の事。中世では商工業者の一種の独占組合を意味していた。 絹座・炭座・米座・檜物座・千朶積座(senndazumiza)・紙座・馬商座の七座で、室町期の文献に、これに加え桶結座・材木座・銅座・油座・塩座・カラカサ座・素麺座の名が記されている。材木座は現在も地名になっている、傘町という地名も八雲神社付近に残っているらしい。商業地域の様子については詳しくはわからない、幕府が度々それぞれの奉行人に指示している内容から判断すると、相当入り組んだ混雑した町を形成していたものと思われる。   鎌倉は狭い場所だ。人口がどれくらいいたのかはっきりしないが、過密都市であったことは想像できる。 幕府が禁じた項目を拾ってみると、辻々での売買・路上芸・相撲・などをして道路の通行を妨げてはならない、車や物を置いたり、牛をつないではいけない、勝手に路を作ってはいけない。家の庇や荷物を路上に出したり、店を張り出してはならない。溝の上に小屋掛けをしてはいけない。夜歩きをしてはならない。等事細かく禁令を発していたようだ。又篝火をたいて夜の町を警護していたようだが、人々に松明を用意させ、夜討ちや殺人事件が起きた時は、その声がする所に松明を持って出るように指示している.建長四年(1252)に幕府は酒の販売を禁止し、民家一軒に一個の酒壺しか持たせなかった。鎌倉中の酒壺は合計三万七千二百個程あったようだ。酒による弊害を考えたのだろうが、町屋の密集地帯ではトラブルが多かったと思われる。こうしてみると、鎌倉時代の町屋も今の大都会の夜の街も同じ町だったと思う。狭い場所に雑多な人間が集まり、それぞれの欲や夢を追い求め、必死に生きていた点に置いては少しも変わらない町屋の指定地区は文永二年(1265)に改められ、大町・小町・穀町・魚町・武蔵大路下・須地賀江橋(sujikae)大倉辻の七か所になる。
小町大路(夷堂橋)より大倉方面を望む
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小町大路(日蓮宗・妙本寺門前)入口
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小町大路(八雲神社)入口
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亀谷辻・賀江・気和飛坂山上は外された。 壽福寺の門前に造仏や仏具の制作や修理などをする仏師が住んでいたところがある   後藤・三橋家などがそうである、鎌倉彫が鎌倉仏師によって造られたことはよく知られているが、運慶の子孫といわれる後藤家は八幡宮の門前に、三橋家は由比ヶ浜通りに鎌倉彫の店を構えている鎌倉仏所には刀工として名高い正宗の屋敷もあった。相州物といわれる刀剣をつくる一派の代表的な人物が五郎正宗である。正宗が刀鍛冶の代表のように云われるのは、相州伝の創始者であること。鎌倉末期から南北朝時代の激しい戦闘を思わせる豪壮な造りで、皆焼刃であることが特色だ。
そもそも相州伝は北条時頼が鎌倉に呼び寄せた当時の名工が草分けである、山城の国・栗田口国綱、備前の国宗等である。しかし相州伝を完成に近付けたのは国綱の子国光であり、行光でありその子正宗だ。

頼朝時代の八幡宮(+6

鎌倉と云えば八幡さま、新年の初詣の人出は全国屈指の社らしい。若宮大路から連なる整然とした広い神域は、頼朝の時代とほとんど変わらないそうだ。 建物自体は江戸時代に再建した本宮などだが、配置や池、参道などは鎌倉時代と変わらないらしい、ただし当時は神仏混淆の時代で、鶴岡八幡宮寺と呼ばれていたが明治の神仏分離令で、仏教関係の建物は取り除かれた。
八幡宮の歴史は、前九年の役で奥州を鎮定した源頼義が源氏の守り神として石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請、由比若宮と呼ばれた。s-2010_1112_103404-DSC01165.jpg

(元八幡)後に義家が修復、そして治承四年(1180)鎌倉入りを果たした頼朝は、新たな社殿を小林郷北山に造営遷座し、鶴岡若宮と称した。
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若宮は現在の舞殿辺りに建てられ、その後浅草の大工を招き、本格的な社に建て替えられた。材木などは由比浦に着く云々の記述が「吾妻鑑」にあるから鎌倉以外の地で調達したものと思われる。同じ時期に若宮を取り巻く回廊が造られたと思われる、有名な静御前の舞があったのはこの回廊であろう。当時舞殿はまだありませんでした。
建久二年(1191)小町大路付近で発生した火災が燃え移り、焼失してしまう。しかし頼朝はすぐに再建を命じている。若宮の裏山に以前からあった稲荷神社をやや西方の丸山に移し、山を削りそのあとに本宮を構えた。現在の上宮のある場所で、石段や下宮もこのときつくられた。本宮を山側に移したのは類焼を避ける為だろう。遷宮の儀式も行われ、その後下拝殿(舞殿)も完成した。
上宮(本宮)
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下拝殿(舞殿)
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そのあと薬師堂が現在の白旗神社の場所に、五重塔が今の若宮の手前に建つなど、堂宇が整ってくる。江戸時代の絵図などを見ても、神仏混淆をうかがわせる多くの建物が目につく。舞殿のある場所が一段高くなっている。その石階に仁王門があり(仁王像は現在壽福寺に有る)その東に大塔その東に鐘楼・仁王門の西側には護摩堂が建つていた。
次に現在の社殿について少し触れておきたい・・・・・。
本宮。徳川家斉が文政11年(1828)に再建した。朱塗りの権現造り。若宮も同じ造りで寛永三年(1626)の造替え、舞殿は新しく、関東大震災以後のものだ。近年造替られたようだ。白旗神社の社殿は、油分を含ませづに造った漆を塗り、表面を磨くという蝋色塗りをほどこした御霊屋造りの社殿だ・(明治30年の改築)最も古いのは丸山稲荷の社殿で室町中期のものといわれる。
白旗宮
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丸山宮s-2011_0124_113958-DSC01365.jpg

凛々しい鎌倉武者をほうふつさせる行事に鶴岡八幡宮の流鏑馬神事がある。

源平池の太鼓橋を渡り参道をしばらく行くと、東西に交わる一直線の道がある。流鏑馬道といわれる馬場で、鎌倉時代に全国に通じていた旧鎌倉街道の起点でもあった。頼朝がこの馬場で流鏑馬を行って以来、途中衰微した時代はあったものの今日まで続いている神事である。
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流鏑馬道
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実は鶴岡八幡宮でも、明治の初めに「競馬」が行われていた。騎芸としての競馬(umakurabe)でなく、今日いう競馬でした。馬場は白旗宮から源氏池を廻るコースで、社務所の所に馬券売り場があったという。走る馬は、古老の話では駄馬だったようだが、鎌倉武士の守り神である八幡宮が競馬場だったとは・・・・・・・。明治二十九年に発行された「鎌倉名所江の島絵図」によると、はっきり競馬場らしいコースが描かれている。このころの鎌倉はさびれていて、八幡宮などは荒れ放題だったらしい。
現在のような往時の様式になったのは、大正八年関係者の努力で、古記録をもとに復元されたそうだ。・・・完

若宮大路とは何か(+3

若宮大路の成立  
寿永元年(1182)源頼朝の造営、妻政子の安産を祈願して段葛と共に造営されたようだ。  鶴岡八幡宮からまっすぐに由比ヶ浜まで約1.8キロの参道。八幡宮を内裏に見立て、京の朱雀大路を模したと考えられる。鎌倉幕府による中世都市鎌倉の町造りの中心線としての役割を果たしたと思われるが、政治的な基軸ではない、大蔵御所の位置とは軸を異にする、政所(まんどころ)も大蔵御所に隣接し、政治の中心軸は横大路、六浦道の東西軸。    段葛 造営当初若宮大路の路よりも高い所に置石を置いて置道とも呼ばれたようだ。段葛と呼ばれるようになるのは江戸時代以降のことである。江戸時代末には現在の下馬四つ角までとなり、さらに明治期に横須賀線の開通で姿を変え、現在は二の鳥居から宮前の三の鳥居までの約500メートル、段葛の桜は大正時代に植えられ現在も季節には美しく市民を楽しませる。置路が残るのは全国でも鎌倉だけのようだ。           
二の鳥居付近の石碑
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海岸通り交差点より「一の鳥居」s-2010_1124_113659-DSC01216.jpg
一の鳥居(江戸幕府四代将軍徳川家綱の寄進によって造られた。)高さ約8・5メートs-2010_1124_114202-DSC01220.jpg
一の鳥居より八幡宮を望むs-2010_1124_114227-DSC01221.jpg

畠山重保邸址 (19)   大正11年3月   鎌倉町青年団   一の鳥居
畠山重忠の長男、北条時政との政争に敗れた。このあたりは屋敷跡。
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