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鎌倉上杉氏

戦国時代へ

*室町幕府と古河公方との和睦・成立。

足利成氏による反幕府的行動は停止されますが、配下に多くの諸将を持つ古河の成氏と幕府公認の公方としての権限を持ちながら関東に入れない堀越の政知の二人の公方が並存する状態が続くことになります。  (文明十四年・1483)

長尾景春の乱は太田道灌の活躍で鎮圧されましたが、関東管領である山内上杉家の上杉顕定の権威は落ち込み、道灌の主君である扇谷上杉家の上杉定正の権威が高まります。これを憂慮した顕定は、道灌に対する猜疑心を煽る一方、秘かに定正との戦いの準備を進めます。

文明十八年(1486)、上杉定正は功臣である太田道灌を相模国大住郡糟屋荘で暗殺します。 翌年、山内上杉顕定が、扇谷上杉定正の討伐を開始します(長享の乱)。十八年続いたこの戦いは顕定の勝利に終わりますが、享徳の乱から通算して五十年にわたった戦乱で関東は荒廃します。さらに、上杉定正が堀越公方を攻め滅ぼした伊勢宗瑞(ise/souzui)(後の北条早雲)を関東に招き入れた事によって、後北条氏台頭のきっかけとなりました。
太田道灌邸旧跡(現・英勝寺、鎌倉・扇ヶ谷)
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明応四年(1495)、伊勢宗瑞の後北条氏は、小田原城を奪取、相模平定を経て、関東中心部へと勢力を拡大してゆきます。  これに対し、山内上杉家は二度にわたる家督争い(顕実と憲房、憲寛と憲政)によって自ら勢力を後退させます。

*大仏殿・倒壊・・・・・北条早雲が関東進出を目指したころ、鎌倉高徳院の大仏殿が地震による津波のため倒壊したとされる。以後、大仏は露座になったといわれています。(2000人以上の死者を出した)

永正元年(1504)、駿河守護今川氏親(imagawa・ujitika)、鶴岡八幡宮中における軍勢の乱暴狼藉を禁ずる。山内上杉顕定が川越城に扇ヶ谷上杉朝良(uesugi・tomoyosi)を攻めたことに端を発する立川原(立川市)の合戦に、今川氏親は朝良側の援軍として参戦していた。

伊勢長氏(ise・nagauji)(宗瑞)、駿河守護・今川氏親とともに鎌倉に入る。 同じころ山内上杉顕定は川越城に扇ヶ谷上杉朝良を攻撃した。これに対し朝良が、伊豆の韮山城に居た伊勢長氏に援軍を求めた。その後、駿河の今川氏親も朝良の援軍に加わった結果、立川原での戦闘で上杉顕定軍が大敗した。  勝利した二人が鎌倉入りしたことになります。
    (続)

*今川氏親・・・・・駿河今川家の七代当主、母北川殿は伊勢長氏(北条早雲)の姉といわれれている。  今川家の家督争いを巡り伊勢長氏の助けを借りて、今川家当主となる。 戦国大名の先駆。

平成二十六年甲午・丙寅・己卯
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戦国時代へ

*関東管領上杉氏の衰退

長禄元年(1457)、将軍足利義政の異母兄・政知(masatomo)が、新たな鎌倉公方(鎌倉殿)として鎌倉に下向した。幕府は、天竜寺・香厳院主(kiyougonninsiyu)だった政知を環俗させ鎌倉公方とする方針を、決定していた。関東探題として渋川義鏡(sibukawa・yosikane)が同行して京都を進発したが、近江国大津で留まった。



長禄二年(1458)、鎌倉公方・足利成氏に対抗するために、将軍の異母兄・足利政知を鎌倉に下したが、直ぐには下向できずにいたが、同年八月頃までには伊豆の堀越に入り留まった。    (堀越公方)

*堀越公方御所・・・・・伊豆の国市韮山町付近。

現在・鎌倉中の旧家(鎌倉・笹目辺り)
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それ以降、東国はおもに下野・常陸・下総・上総・安房を勢力範囲としていた古賀公方・・伝統的豪族と、おもに上野・武蔵・相模・伊豆を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家とが、関東を東西を二分して戦い続けます。

寛正二年(1461)、関東管領山内上杉房顕(13代)、武蔵国の鶴岡八幡宮領のうち横領されている諸所の返付の処置をとるよう被官・長尾尾張守に命じる。 本来ならば、こうした命令は鎌倉公方である足利政知を通じて出されるものであった。鎌倉公方と関東管領との関係の薄弱さを露呈したものと理解されています。  (八幡宮文書)

堀越公方・足利政知は、鎌倉五山住持の任命を幕府に申請したが、関東管領山内上杉房顕の添状が無いために許可されない例があった。鎌倉公方が案件を幕府に申請する場合、関東管領の添状を必要とすることは、古川公方・足利成氏の勢力を抑制するためであった。

堀越公方・足利政知の発給文書に関する資料をもう少しリポートしておきます。文正元年(1466)、僧・玄泉を円覚寺住持に、僧・受寅を寿福寺住持に推挙して幕府の許可を得る。政知は亡くなるまで三十三年間にわたり鎌倉公方として伊豆堀越に居たが、政知の発給文書の多くは社寺に関するもので、政治的・軍事的な行動を伴ったことを示す資料は残っていない。

応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が始まる。

関東でも古河公方・足利成氏は伊豆に遠征して堀越公方・足利政知を攻撃するが、攻めきれずに敗れて古河城にする。
また、長尾春景(nagao・harukage)が山内上杉家の家宰職に就けなかった恨みから、主君である関東管領の上杉顕定(uesugi・akisada)(14代)に反旗を興す
。  (長尾景春の乱)
翌年には武蔵国児玉郡五十子で古河公方と対陣していた山内上杉顕定及び扇谷上杉定正(uesugi・sadamasa)を急襲して、上野国へ敗走させた。

文明十年(1478)、危機感を抱いた上杉顕定(関東管領)は、古河公方・足利成氏との和睦を成立する。  長尾景春の反乱は、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌(oota・doukan)の活躍によって鎮圧されます。  上杉氏の力の衰退始まる。    (続)

*太田道灌・・・・・祖は源氏の流れをくむ太田氏で扇谷上杉氏の執事。古河公方足利成氏を迎え撃つために築いた「江戸城」の築城などで知られます。

平成二十六年甲午・丙寅・丁丑

鎌倉上杉氏まとめ

鎌倉上杉氏の祖、上杉重房(sigefusa)は鎌倉幕府の征夷大将軍として迎えられた宗尊親王の従者として、鎌倉に下向し武士化した。 幕府・有力御家人の足利氏と姻戚関係を結び、足利尊氏・直義兄弟の母が上杉出身で有る事から功績を挙げた事が始まり。
鎌倉特有の墓所・やぐら(鎌倉・浄明寺)報国寺内
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鎌倉府時代の鎌倉を理解するうえで、上杉氏を忘れることはできない。  上杉氏は、関東管領として鎌倉公方の補佐役であり、鎌倉府時代の鎌倉に大きな影響力を行使していたからである。    上杉憲顕(noriaki)(1306~68)以後は、関東管領の職を独占し、鎌倉公方と並ぶ一大勢力となっていった。

享徳の乱(kiyoutoku)を契機に鎌倉公方が古河に逃れた為に、それ以後鎌倉を支配したのは上杉氏であった。

上杉憲顕は波乱に富んだ人生を、南北朝時代の政治に翻弄されつつも、卓越した政治力により乗り切った武将の一人である。 足利尊氏・直義とは、従兄関係にあった。   山内上杉家の祖とされる。足利尊氏が建武政権に反旗を翻して以来、常に直義に属し、関東では新田勢と戦った。

暦応三年(1340)鎌倉公方・足利義詮(yosiakira)を高師冬(kou・morofuyu)と共に管領として補佐した。 尊氏と直義が仲たがいをして戦った、いわゆる観応の擾乱(kannou・jiyouran)に際しても直義に味方した。その為に上野・越後の守護職を尊氏によって解任されたりした。しかし義詮と交代に鎌倉公方に就任した足利基氏(motouji)の信頼が厚く、直義が失脚したにもかかわらず、基氏に登用され再び関東管領となった。
それまでは、高師冬ほか上杉氏以外からも管領が任命されたが、これ以後、上杉氏の固定となった。

上杉氏もいくつかの家に分かれたが、とくに山内上杉氏、扇谷上杉氏、宅間上杉氏、犬懸上杉氏の四流が発展した。其々は館の有った場所に因むものであるが、何れも都市鎌倉内の地名であり、その事にも上杉氏が鎌倉を本貫(hongan)(本籍地)としていたことがよく示されている。

山内上杉氏は憲顕に始まり、円覚寺の有る北鎌倉の一帯に館を構えた。憲顕以後は、上杉氏の宗家として栄えた。山内上杉氏は代々越後(新潟)の守護職を世襲し越後とは関係が深く、後北条氏によって関東を追われた上杉憲政(norimasa)は越後に逃れ、守護代の長尾景虎(上杉謙信)に家督を譲った。
鎌倉・やぐら(鎌倉・扇ヶ谷) 海蔵寺内
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扇谷は壽福寺のある一帯であるが、上杉重顕(sigeaki)が扇谷に住んだので扇谷上杉氏と云う。上杉氏の屋敷について推測して見ると、今小路をはさんで英勝寺の向かい側に地に「管領屋敷」との記録があり、直臣の屋敷は、主人の屋敷の門前を守護するように存在する。英勝寺は上杉氏家宰である大田道灌の屋敷跡と考えられるので、英勝寺の向いの「官僚屋敷」の地に扇谷上杉氏の屋敷があったと推定される。

犬懸上杉氏(inukake・uesugi)は、憲顕の兄憲藤(norifuji)に始まる。  居館跡の犬懸ヶ谷は釈迦堂ヶ谷の東隣にあたる。憲藤の孫氏憲(ujinori)(上杉禅秀)までは、山内家と共に関東管領に任命される家柄であったが、氏憲が公方の足利持氏(motiuji)を襲い、敗れて自害する。 犬懸上杉氏の最期である。(上杉禅秀の乱)

宅間上杉氏は憲顕の兄重能(sigeyosi)に始まる。宅間に居館があった事に因むが、竹の寺で知られる報国寺辺りと想定する。重能は、足利直義に属して活躍したが、高師直によって殺害された。 山内家から養子を迎えたりしたが、さほど振るわなかった。
文明五年(1473)山内上杉家では家宰職をめぐって長尾景春と忠景がたいりつし、大田道灌の仲裁も失敗するなど、上杉氏内部の権力闘争の間隙を突いて、伊勢氏(後北条〓小田原北条氏)の勢力が相模に伸び上杉氏に代わるようになった。

平成二十四年壬辰・乙巳・甲辰