FC2ブログ

玉縄城

玉縄城の城主(Ⅵ)・最終回

北条氏勝が玉縄城の無血開城を決意した説として伝わっているのは、徳川家康の家臣・本多忠勝配下の、都築弥左衛門、松下三郎左衛門の二名を使者として開城を迫ったが,承知していない。二人のうちの三郎左衛門と同族で、龍寶寺(riuhouji)の了達和尚が、氏勝と師弟の関係であり、了達和尚に相談し、氏勝を説得したと云う説である。      玉縄城を無血開城した時の龍寶寺の所在地に矛盾が生じた。
曹洞宗・龍寶寺山門(鎌倉・植木)  玉縄北条氏・菩提寺
s-2010_1103_093545-DSC01130.jpg

しかし、最近の調査で龍寶寺は、玉縄城開城の35年後の寛永二年(1625)に寺号変更して現在地に移転したことが、判ってきた。また無血開城時点では玉縄・山居の地に大応寺として存在していたようだ。   この頃、玉縄を支配していたのは、松平正綱で、「玉縄領二万二千二百石」を徳川家光より拝領していた。

一方、鎌倉市岩瀬にある玉縄三代城主・北条綱成開基の大長寺(daitiyouji)(綱成夫人の大頂院、氏繁夫人の七曲殿、他一族の墓所が有る)由緒書御調文書によると、氏勝が不戦開城を決意したのには、徳川家菩提寺の三河・岡崎の大樹寺と鎌倉・岩瀬の大頂寺(現大長寺)の四世住職源栄上人は徳川家檀縁の浄土宗・観智国師の弟子である事から、家康の北条氏勝説得の内命が下った。

大頂寺(現在の大長寺)四世住職の源栄上人は、大頂寺と同じく玉縄城三代城主北条綱成開基の玉縄山居にある大応寺の住僧・了達(riyoutatu)上人と図り、北条氏勝に玉縄城の不戦開城を説得し、氏勝は徳川家康の要請を受けることになった。  (この辺りの記述が、説得力が在り納得できるし、矛盾も解消されると思う。)

氏勝は、天正十八年(1590)源栄上人と了達上人に伴われ、小田原・酒匂口の家康陣所に行き、開城の旨を伝え、家康の仲介で豊臣秀吉本陣(石垣山城)に伺候した。 これで、六代七十八年間続いた玉縄城は無血開城し、氏勝は薙髪(tihatu)して恭順を誓った。秀吉に助命され、家康の配下に属する事になり、玉縄城は家康の家臣・水野織部の預りとなった。

下総・武蔵の各城が次々と落城する中、玉縄城にも徳川軍が迫った、当初秀吉は、北条方の助命を絶対に許さずに、すべて攻撃・絶滅せよ、との厳命を下していたようだが、降伏する者は助命せよに、変わっている。これは徳川家康の懇願による結果と思われる。

すでに関東入部が決定していた家康としては、完全に北条氏を滅ぼすことよりも、重点的に城を陥落させておいて降伏させ、残りの城や兵を助けておく方が得策であった。 関東入部に際しての徳川の人気も考慮しての采配である。 しかも、北条氏の施策には関東の実情に合った郷村関係の有益なものも少なからずあった。

北条氏の行った伝馬制度や小代官制度、六斎市等の政策は、次の時代の幕藩体制にも充分活用できる制度である。これらの北条氏の制度を積極的に取り入れた事が徳川家康が関東統治に成功した基であった。  その証拠に、家康の関東入部にはさしたる混乱もなく、すんなりと徳川の仕置きに、北条方の侍たちや神社・寺および農民も素直に従っている。

天正十八年四月に無血開城した玉縄城に続き七月には小田原も開城し、徳川家康は江戸に入り、氏勝も共に江戸入りした。

平成二十四年壬辰・丙午・甲子
スポンサーサイト

玉縄城の城主(Ⅴ)

北条氏舜(ujitosi)には後の六代玉縄城主氏勝(ujikatu)と直重・直胤・繁広という四人の弟がいたが、玉縄城主は氏舜が継ぎ、天正八年(1580)には武蔵岩付城の城代に就任。飯沼城は弟氏勝が城主となる。
道端の仏たち(鎌倉市内・不明)
s-2011_0304_102634-DSC01488.jpg

氏舜文書は天正五年~八年に限られこの四年間が氏舜の玉縄城主時代であると思われる。次の玉縄城主となる北条氏勝の初見文書は天正十一年のものであり、天正八年から十一年の間に氏舜は弟の氏勝に家督を譲り隠居もしくは病没したものと推定される。 氏舜はいつ死亡したのか、墓所・戒名等は伝えられず玉縄北条氏の中でも不明な点が多く子供の存在も不明である。

六代玉縄城主・北条氏勝(ujikatu)が官名である左衛門太夫を名乗った文書初見は前記したが、天正十年の日本は激動の年であった。長年の宿敵、常陸・佐竹氏の嫡男義宣(yosinobu)が元服し、常陸国統一に近づく絶頂期を迎えている。織田・徳川の連合軍が武田軍を攻め、武田勝頼が自刃し、武田家が滅亡。

さらに織田信長・信忠が明智光秀により、本能寺で討たれ、政局は一気に羽柴秀吉による天下統一に向かう。 北条氏勝は日本の情勢が大きく変化してきたこの時期に城主に就いたのである。

天正十二年(1584)に入ると羽柴秀吉・石田光成は上杉景勝・佐竹義重らと連携し、以後秀吉と関東諸氏との通好が増え、関東出陣の意志も伝えられる。  その後秀吉は関白叙任となり天下統一が加速する。

中央で豊臣政権が強化され、諸大名が続々と従臣を誓う中で、玉縄北条氏の本家である小田原の北条氏政(ujimasa)・氏直(ujinao)父子はこれに応じず、関白秀吉は北条氏を敵対者とみなし、北条氏は孤立してゆくことになる。

北条氏直は、秀吉の九州平定後の目標は関東であることを察知し、秀吉軍の侵攻に対する策として箱根外輪山山麓の山中(三島市山中新田、標高500㍍)に北条流築城術で新たに城を構え、城主には松田右衛門太夫康長を配置したが、小勢の為防戦は難しく、小田原北条宗家の戦の最前線に常にあった玉縄城主北条氏勝が加わった。氏勝は与力侍の玉縄衆を中心に4000千人の城兵と共に山中城籠城戦のための準備と城普請に係った。

天正十八年秀吉は沼津に着陣し、豊臣秀次を総大将とし中村一氏・山内一豊ら圧倒的な勢力五万騎で攻め上がった。  激戦の中、玉縄衆は善戦したが及ばず、北条氏勝は小田原に帰参することなく箱根山中間道を小田原の久野に抜け、玉縄城に帰城。城では山中城落城の報告の後、氏勝が帰還したことで喜びに包まれたと云う。  氏勝は玉縄領内の寺社に対し、兵糧米の徴発を命じた。また玉縄城守備兵七百騎にて籠城戦を覚悟した。

平成二十四年壬辰・丙午・壬戌

玉縄城の城主(Ⅳ)

北条氏繁(ujisige)は三代玉縄城主北条綱成(houjiyou・tunasige)嫡男として天文五年(1536)に出生幼名・善九朗といい、後に三代小田原城主・北条氏康の「康」の一字をもらい康成(yasusige)を名乗る。
鎌倉・建長寺三門梶原施餓鬼会 (鎌倉・山ノ内)
s-2010_1201_123613-DSC01249.jpg
毎年七月十五日早朝、鎌倉建長寺・三門に於いて一般の施餓鬼会の後、鎌倉幕府初期の御家人・梶原景時の亡霊を弔うためにもう一度施餓鬼会を行うのがしきたりになっている。     (後北条氏とは無関係)

北条康成(yasusige)は綱成同様剛勇の将として各地を転戦、上野平井城、上杉氏攻略の時、氏康に従って16歳で出陣。 永禄元年にも父綱成と共に、常陸下野方面にも出陣。綱成の補佐役として職務を代行する。

元亀二年(1571)北条氏康が没し、翌年、綱成より家督を譲られ、氏繁と改名。官名も父と同様左衛門太夫となり、四代玉縄城主となる。氏繁の活動はこれ以降拡大し、四代小田原城主氏政を援け、岩村城を支配。佐竹氏への備えとして下総飯沼城を築城する。

氏繁は剛勇の人だが、教養人でもあり特に絵画では松の古木にとまる鷹の図が有名。  しかし、氏繁は天正六年(1578)に下総飯沼城で病に倒れ43歳で死亡した。 父綱成は63歳で健在であった。 氏繁の母と妻(七曲殿)は鎌倉・岩瀬の大長寺に葬られている。

同時期の小田原の動き、・・・上杉景虎(北条氏政の弟)、鶴岡八幡宮に戦勝・武運長久を祈願する。 景虎は、北条氏康の子で氏政の弟氏秀(ujihide)であるが、初めは武田晴信(信玄)の養子となり、のちに上杉輝虎(謙信)の養子となって名を景虎と改めていた。   謙信が亡くなると養子の景勝と景虎がその跡目をめぐって争いになった。景虎は御館の乱(otatenoran)で景勝に敗れ敗死した。     (上杉家文書)

五代玉縄城主・北条氏舜(ujitosi)については文書が殆ど残っておらず、不明な点が多い。父の氏繁は玉縄衆(tamanawasiyuu)として北条宗家(小田原)の領土拡張政策の先兵として活躍し、岩村城(岩槻)領の支配を行ったり、前記した下総飯沼城(茨城)を築き、常陸の佐竹義重に対する最前線基地とした。 この飯沼城普請には、藤沢(玉縄城下)から大鋸引衆(oogabikisiyuu)が呼び寄せられている。

佐竹義重は下総岩井で北条軍2万の兵を僅か五千の兵で討ち破った武将である。天正五年(1577)四代小田原城主北条氏政が小田原から出陣し佐竹勢と合戦するが勝負はつかず、二か月余り在陣し北進する地盤を固めた。  

越後の上杉謙信が佐竹氏に味方して出陣命令を下すが、謙信49歳で春日山城にて死去する。その後玉縄城主北条氏繁も飯沼城にて43歳で病死してしまった。  これまで父氏繁を補佐していた嫡男氏舜(ujitosi)は、祖父綱成が健在であるため飯沼城主に据えられる。

平成二十四年壬辰・乙巳・庚申

玉縄城の城主(Ⅲ)

北条為昌が天文十一年(1542)に死去すると、第三代目の玉縄城主には、氏綱の娘婿になる北条綱成(tunasige)が為昌の養子となって後を継いだ。 綱成の父親・福島上総介正成は今川氏親・氏輝に仕えていた重臣であった。 遠江国高天神城(静岡)の城主で、今川勢を率いて甲斐の武田信虎を攻めている。

その後、上条河原(山梨)で武田方に敗れ、四千人もの被害者を出し敗走した。この時に正成の子の綱成は北条方に逃げ込んだものと思われる。 氏綱に助命された福島綱成は、小田原城で氏綱の娘と結婚して北条氏の娘婿となって、やがて北条氏の名前を許されて、北条一門に列した。
玉縄首塚(鎌倉・岡本)
s-2010_1102_104953-DSC01124.jpg

北条氏綱には嫡男氏康のほか男子が少なく、次男は夭折、三男為昌と四男氏尭の三人のみで、将来の為養子をとって養うことになり、福島綱成を養子とした。 綱成は永正十二年(1515)の生まれで、氏康(後の小田原城主)と同年で、氏康の補佐として登用されたようだ。

綱成(tunasige)は天文六年(1537)河越城の合戦に活躍し、河越城代になった。 玉縄城への入場は何時の事か判らないが、何れにしろ北条為昌の死没後と云われる、大長寺(鎌倉・岩瀬)の記録では天文十四年であったと云う。 天文三年条に為昌が河越城主として多忙な時は、鶴岡八幡宮の造営の役務を果たしていた

綱成が二代為昌の後見役を務めたような記録もあるが、年代を追って綱成の動きを追って行くと玉縄城入場は、為昌の没後になってしまう、綱成が為昌の養子となって玉縄城主を継承しているのであれば、後見役説をとりたい。

永禄四年(1561)越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が武蔵・相模方面に出陣との情報が入り、各地の北条方に防戦の準備が命じられた。 鎌倉・玉縄城の綱成は下総方面の備えとして有吉城へ出陣する、この時小田原本城の北条氏康は26歳の康成(yasusige)(綱成・嫡男)に玉縄城々代を命じている。

長尾景虎は上杉氏の名跡を受け継ぎ、上杉政虎と名を改め、関東管領の地位と職務を名実ともに実行せんと北条攻めを開始、小田原城を囲んだが果たせず、鎌倉八幡宮社頭での関東管領就任の拝賀を行い、玉縄城長尾砦を本陣に玉縄城攻略に取り掛かった。(長尾台は上杉謙信先祖の地、元は鎌倉党長尾氏の本貫地で、宝治合戦で敗れ、長尾氏は越後に移った)  北条康成は玉縄城代として父の留守を預かり、防ぎ切った。

上杉謙信が小田原攻略を簡単に切り上げ、鎌倉に入り関東管領就任の儀式を派手に行い、上杉の名跡を引き継ぎ上杉謙信を名乗ったのはこの時からのようだ。管領就任後に、玉縄城攻略にかかったが、玉縄城の大規模な外郭や各砦に囲まれた防塁の堅さ、越後からの遠征による兵士たちの疲労や食糧の問題で、決戦をせず越後に戻っている。  本来の目的がこの拝賀式出席に在った様に思えてならない。

平成二十四年壬辰・乙巳・戌午

玉縄城の城主(Ⅱ)

天文元年(1532)北条為昌(tamemasa)(幼名・彦九郎)は初代城主北条氏時の死後、十二歳で二代玉縄城主となり、鎌倉の他に三浦郡、武蔵小机領を管轄し、相模川東部から多摩川までに至る、広い地域を支配しました。 当時、北条氏領は江戸地域が最前線で、玉縄城は北条領支配に置いて重要な役割を果たしていました。
鎌倉駅前・小町通り(八幡宮方面へ) 平日・午前中
s-2011_0124_104155-DSC01342.jpg

為昌は幼い城主であった為に、氏綱の娘婿、福島綱成(fukusima・tunssige)が後見役と成っていた。  為昌には一族が襲名する「氏」の通字がないが、為昌が元服して玉縄城主に就く際、北条早雲の従兄弟に当たる大道寺盛昌(daidouji・morimasa)が烏帽子親になり、自分の名前の一字「昌」の字を与えたからといわれる。        大道寺盛昌は後に鎌倉代官に就く。

しかし、後にも先にも「為」の字がつく北条一族は、いまだに発見されていない。為昌の元服時の加冠親であった大道寺盛昌が早雲以来の北条氏の家臣でありながら、主人の子供に、自分の名前の下の一字である「昌」の字を彦九郎に与えた事は、それなりに説明がつく。それは北条早雲の実名である伊勢盛時の「盛」の一字を盛昌が早雲から拝領していたので、主君からの拝領の一字を彦九郎に与えるわけにいかなかったのである。   しかし、彦九朗は加冠親からの偏諱(henki)の「昌」の字を、名前の下につけている。普通で有れば、加冠親からの一字拝領の字を下に付けることは随分と無礼な話となろう。  となると上の「為」に問題があると思われるが、いまだに解釈が出来ないのが現状である。

為昌が六歳であった(1526)安房の里見氏が鎌倉に侵攻した際、北条軍と鶴岡八幡宮付近において戦い、八幡宮一帯が兵火により焼失したと伝えられる。{里見記)

鶴岡八幡宮の再建は天文二年(1533)に北条氏綱により始められたが。「快元僧都記」(kaigensouzuki)に「為昌彦九朗殿、築地十二間請け取る」の記録が残り、一門として工事に参加し、奈良、京都。伊豆、鎌倉番匠等と共に造営に携わった事が解ります。

玉縄城址・石塔(鎌倉・城廻) 現清泉女学院・正門前
s-2010_1103_101217-DSC01135.jpg

天文四年(1535)甲斐山中合戦、入間川合戦などに出陣し、父氏綱、兄氏康(三代小田原城主)、叔父宗哲と並んで一軍の将を務めた。又、扇谷上杉氏の武蔵河越城を攻略し武蔵中央部に進出し、為昌が城代となる。

為昌は、軍事、外交、行政のあらゆる側面において、氏綱、氏康父子を支える存在となっていたが、天文十一年(1542)二十三歳で死亡してしまった。実子に恵まれず、後見として為昌を支えた北条綱成(tunasige)が養子となり三代玉縄城主を継承した。

平成二十四年壬辰・乙巳・丙辰