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運慶

「仏師・運慶」と鎌倉(Ⅳ)最終回

運慶は文治年間後半から建久五年(1194)頃までは東国にあって鎌倉幕府関係の仕事を中心に従事していた可能性が高い。  その後、運慶が活躍の場とするのが東大寺復興造営である。
鎌倉幕府御家人・大江広元墓所(鎌倉特有のやぐら型の墓)(鎌倉・雪の下)
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東大寺の復興造営は、大仏殿焼失後、その本尊たる大仏本体から始められたが、その再興には、大勧進の重源上人のもと、仏師ではなく宋人陳和卿(tinnakei)が活躍したと伝わる。その後の進捗は捗捗しくなく、建久四年以降には、鎌倉幕府=源頼朝が積極的に関与するようになって進捗し始めたようだ。  造営遅滞を催促して、有力御家人に奉行人を指名し、翌々年には完成させた。  建久六年にはその大仏殿供養が、源頼朝も参列して盛大に行われている。

康慶(運慶・父)と成朝の二人が造仏界から去り、運慶は名実ともに慶派一門の棟梁となった。 その最初の仕事が文覚上人と頼朝の協力で行われた東寺(教王護国寺)の復興事業である。  そこでの運慶の第一の事績は、造仏ではなく講堂緒像の修復であった。 講堂緒像は、弘法大師空海により、その存命中に造仏が開始されている。

空海構想の大日如来像を中心とする立体曼陀羅は、日本真言密教における根本像ともいえる。 従って修復といえども、それに運慶が関わることは極めて重要な意義を持つ。    (運慶初期の造仏となる、奈良・園城寺の大日如来像「国宝」は東寺の密教尊像を手本としたと思われる)

鎌倉幕府と晩年期の運慶

「吾妻鑑」等によれば、運慶の鎌倉幕府関係の造仏が集中して見られるようになるのは建保年間以降の事である。 まず建保四年(1216)将軍実朝の持仏堂本尊として釈迦如来像を造立し、これを京都から渡している。   「吾妻鑑」(現存なし)
この運慶作の釈迦如来像は、実朝没後、北条政子が新築した自らの持仏堂本尊として移座している。   

次に建保六年、北条義時(第二代執権)が鎌倉・大倉に発願した薬師堂の本尊を造仏している。また、十二神将も付随しており、造像規模の大きかった事は注目される。  「吾妻鑑」 (現存なし)

承久元年(1219)公暁により暗殺された実朝の供養の為、北条政子が発願した五大尊像を造仏する。 勝長寿院に建立された「五大堂」に安置された。「吾妻鑑」(現存なし)

以上晩年期に鎌倉で造像された諸像は「吾妻鑑」などの記録には残るものの現存しない緒像を列記した。

光明院・大威徳明王像と大弐局・源実朝

この運慶の晩年期における鎌倉幕府関係の造像で唯一の現存作例が、神奈川・称名寺の子院・光明院の大威徳明王像である。 その納入品の奥書から、建保四年(1216)「源氏大弐殿」が、大日如来・愛染明王と共に造立したもので、作者は「備中法印運慶」と判明した。  運慶はすでに東大寺総供養で「法印」となっていたようだ。なお、本像が大日如来・愛染明王と共に造立された事は奥書から明かであるが、大威徳明王以外は未発見である、残る二像の発見が待たれる。
(金沢・称名寺は鎌倉からは距離があり緒像の残る可能性は高いと思われる。)

晩年期の運慶の造仏は将軍実朝や北条政子、北条義時、など将軍家周辺の関係に特化している。これは、運慶の仏師としての地位が高まったからに他ならない。仏師としての最高位である法印(houin)への叙任などが反映している。

伝・運慶仏  (典拠不明だが運慶仏とされる緒像)(鎌倉関係)

>1光触寺(kousokuji)  阿弥陀如来像(三尊)別名「頬焼阿弥陀」 建保三年 鎌倉・十二所
>2杉本寺         源頼朝寄進の十一面観音像・脇立地蔵菩薩・山門仁王像  鎌倉・二階堂
>3教恩寺         阿弥陀三尊像   鎌倉・大町
>4延命寺         地蔵菩薩像(身代わり地蔵)  鎌倉・材木座
>5補陀洛寺(fudarakuji) 日光・月光菩薩像   鎌倉・材木座    薬師如来像は行基作
>6来迎寺(raikouji)   阿弥陀三尊像   鎌倉・材木座   三浦氏菩提寺
>7英勝寺         阿弥陀三尊像  鎌倉・扇ヶ谷  徳川家光寄進(造像時・寺院不明)
>8円応寺(ennouji)    閻魔王坐像   鎌倉・山ノ内  造像時・寺院不明
>9曹源寺(sougenji)   十二神将立像   横須賀・公郷  最新の伝・運慶仏

以上九ヵ寺に典拠不明の運慶仏が鎮座しているが、早い時期の証明が期待される。  (了)

平成二十四年壬辰・丙午・庚寅
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「仏師・運慶」と鎌倉(Ⅲ)

運慶の「空白期」と鎌倉幕府

僅か二例の事績ではあるが、(横須賀・曹源寺、十二神将も?)北条時政と和田義盛の造仏事業に運慶が携わった事実は、その後の鎌倉幕府と運慶の関係の足掛かりになっただろう。 
この後、運慶は建久七年(1196)から康慶(運慶・父)とともに大仏殿諸像{奈良)の造像を行い、翌年には東寺講堂緒像(京都)の修理をはじめとする東寺復興事業に一門の棟梁として携わった。

東大寺と東寺の復興事業は、院をはじめとする朝廷の依頼に、頼朝が協力して行われた。  運慶がこの事業で、造仏の中心的役割を果たせたのも、鎌倉幕府周辺の事業を行ってきた賜物であったに違いない。

運慶がこの一門の棟梁として仏師を率いる以前、横須賀・浄楽寺の造像(文治五年・1189)から大仏殿内の諸像再興事業(建久七年)が始まるまでの約七年間、運慶の造仏の事績は確認できず「空白期」となっていた。 この空白期を埋める作品が、近年、見出された東京・真如苑所像の「大日如来像」である。 鎌倉幕府の有力御家人・足利義兼が、建久四年(1193)供養した旧樺崎寺下御堂像にあたる可能性が高く。この新発見は、この時期に運慶が関東に拠点を持っていた可能性が高いと思われる。

鶴岡八幡宮寺、勝長寿院とともに鎌倉の三大寺院に挙げられた永福寺(youfukuji)の造営が、「吾妻鑑」によれば文治五年(1189)から建久五年(1194)に行われていたことは注目される。 すなわち、運慶はその「空白期」と言われる時期に、鎌倉幕府の最重要寺院である永福寺の造像に、関わった可能性は充分に考えられる。
永福寺旧蹟・石塔(鎌倉・二階堂)s-2010_1029_102638-DSC01109.jpg

永福寺は、源頼朝が奥州征伐を行い、平泉で目の当たりにした諸寺院を模して、その犠牲者を弔うことを目的に建立された。もし、この一大事業に運慶が携わっていれば、その後の鎌倉幕府との密接な関係も了解されよう。

しかし、鎌倉三大寺院に挙げられる永福寺・鶴岡八幡宮寺・勝長寿院の各寺に運慶の作品が残らず、記録にも見当たらないのは何故か、よくわかっていない。  勝長寿院は奈良仏師・成朝で了解されるのだが。・・・
永福寺は火災など度重なる災害などで二階堂始め二つの薬師堂と共に諸仏も焼失してしまったと思われる。室町時代後半には廃寺となったようだ。幕府草創期の「吾妻鑑」の記録にも関係する記事はないようだ。  八幡宮寺は建久二年の大火で焼失したが、頼朝は再建に取り掛かり、建久四年には舞殿も新造され、再建なっている。
永福寺発掘調査図 (鎌倉・二階堂)
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この時期に運慶は関東(鎌倉)で造像活動を行っていたと考えられるが、・・・宮寺(guuji)としての鶴岡八幡宮はもう少し時代が下るのか。   (続)

今後の予定・・三回位の予定で運慶さんのリポートをはじめましたが、もう少しかかりそうです。    この次のテーマは鎌倉幕府・御家人(武家)に関連した記録についてついてリポートする予定です。

平成二十四年壬辰・丙午・戌子

「仏師・運慶」と鎌倉(Ⅱ)

東国武士と奈良仏師

奈良仏師の成朝や運慶はいかなる機縁で、勝長寿院や願成就院の造仏に携わったのだろうか。これについては、京都の院派や円派の仏師たちが、それまでの院や平氏政権と強く結びついていた為、頼朝の鎌倉幕府から退けられたと思われている。

奈良仏師の関東での採用は、鎌倉幕府成立以前からの東国武士達と康慶(運慶父)や興福寺との関係に伏線を求めることが出来る。特に北条時政自身の興福寺との近い関係や、勝長寿院と願成就院の相次ぐ創建は注目される。それは、鎌倉幕府の奈良仏師たちへの積極的な採用の背景に、時政・政子周辺による頼朝への推挙を想定できるからである。
源氏の棟梁・源頼朝(鎌倉・源氏山公園)
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願成就院の諸像
  (静岡県・伊豆の国市)

現在、願成就院には、阿弥陀如来坐像と不動三尊像と毘沙門天立像が伝来する。  「吾妻鑑」の文治五年条によれば「本尊阿弥陀三尊」とある。このことから、本来阿弥陀如来坐像に観音・勢至の両菩薩が付随していたと思われるが、現存しない。
胸前に両手を掲げ指を念じて、いわゆる説法印を結ぶ。 それまでの主流の定朝様とは違った表現は、運慶の古典学習により採用されたものと考えられている。

不動三尊像も二童子像を含めて、やや肥満した、堂々たる体格である。矜羯羅(konkara)・制吒伽(seitaka)の二童子は、「従順」(konkara)「悪性」(seitaka)の性格を表現しているそうだ。

毘沙門天像は、前方をしっかりと見据えて立つ、臨戦態勢の武士を思わせる姿は、それまでの造仏には見られない力強い造形だ。運慶が東国武士との係わりに於いて、採用したと考えられている。

浄楽寺の諸像  (神奈川県・横須賀市)

浄楽寺・諸像のうち毘沙門天像内から、昭和三十四年に月輪形銘札が発見され(後に不動明王像からも)その銘文から緒像は文治五年に、鎌倉幕府の有力御家人・和田義盛が夫人小野氏と共に発願し、運慶が小仏師十人を率いて制作したことが判っている。

阿弥陀如来像は、一般的な阿弥陀如来像の形式である来迎印を結ぶ。両脇侍の観音・勢至菩薩像も量感豊かに表現され、髪を高く結い上げ、腰をややひねって立っている。失われた願成就院の脇侍像も同様の姿だったのだろうか。

ここで、浄楽寺の諸像が、近世の伝承だが追納品の銘文や地誌類で、勝長寿院の緒像を移座したものとされる説が注目されるが、浄楽寺の緒像は銘刹により運慶作は確定している。一方「吾妻鑑」から勝長寿院像は成朝作の皆金色阿弥陀仏であったことが判明している。 したがって移座の可能性は全くないのだが、この様な伝承は根強く在り、どの様な関係なのだろうか?。
勝長寿院旧蹟・石塔(鎌倉・雪の下)
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曹洞宗東光山・曹源寺の木像十二神将立像(神奈川・横須賀市)

最近の新聞報道で、曹源寺の十二神将が運慶作ではないか?、という報道に驚いた。・・・県の重要文化財に指定されており、銘文等の確定要素が出るとよいのだが。 

十二神将は薬師如来の眷族(kenzoku)で十二薬叉大将ともいわれ、如来の十二の大願に応じた神と言われる。如来の周囲を取り巻いて守護するので、いずれも天衣甲冑をつけた武将の姿で表される。   像は十二躰揃い、それぞれ寄木造り、玉眼入りで像高は七十センチ~九十センチ程。  (曹源寺ホームページより)

鎌倉時代初期の造像で時代的にも、作風も運慶作に近いと思われるがどうだろうか、いずれにしても十二躰揃いで伝承された事は大変貴重で、鎌倉時代・研究の大きな対象となるであろう。    (Ⅲ)へ

お断り・・・記事に写真が添付出来ませんので悪しからず、写真集からの転写も遠慮しています。(除・表紙)

平成二十四年壬辰・丙午・丙戌

「仏師・運慶」と鎌倉

しばらく寺院関係のリポートが続きましたので一休みします。

仏師・運慶は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した、我が国で最も著名な仏師で、優れた技術と力強い作風は、鎌倉と言う新時代に相応したものとしてよく知られている。

鎌倉幕府(金沢・北条氏)とは関係の深い、横浜市金沢区にある称名寺の塔頭・光明院から五十年ぶりに確実な運慶作品の発見として当時話題となった。「大威徳明王像」がそれだ。  平成十九年の春、保存修理により、大威徳種子等及梵字千手陀羅尼の巻物、蓮実製舎利容器や丁子、抹香などの像内納入品が取り出された。そのうちの奥書から、本像は建保四年(1216)「源氏大弐殿」の発願により、大日如来・愛染明王・大威徳明王のうち一躯として、「法印運慶」により造像された事が判明した。

「源氏大弐殿」とは、甲斐源氏・加賀美遠光の娘で、将軍源頼家・実朝兄弟の養育係を勤めた「大弐局」と思われ、 将軍家側近達はどの様な目的で仏像の発注したたかは不明であるが、少なくともこの時期に運慶は鎌倉に滞在していた事が推定できる。 建保四年(1216)当時将軍は源実朝で「官位昇進」を急いだり、宋人・陳和卿(tin・nakei)に唐船の建造を命じたり、かなり荒れていた時期で、その様な時期に三体の仏像は側近達によって造像されたのである。
大威徳明王像 (神奈川県立・金沢文庫収蔵) (光明院所蔵)
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運慶の現存する真作は数少なく、五件しか知られていない。大威徳明王像は六件目の発見であり、建暦二年(1212)興福寺・北円堂緒像が、かつては最晩年の作とされていたが、さらに下った運慶最晩年の作となる。  鎌倉幕府の要人と運慶を直接結びつける確かな作品として、その価値は極めて大きい。

昨年の一月に金沢文庫で「運慶・中世密教と鎌倉幕府」の「特別展」に関してリポートしてありますが、その追加です。  鎌倉時代、鎌倉幕府の専門講座や特別講演会等を積極的に開催している同文庫だが、堂々と「運慶特別展」を開催できたのはひとえに光明院・大威徳明王の存在が大きい。  運慶の初作、奈良・円城寺の国宝・大日如来像と栃木県足利の樺崎寺(kabasaki)に伝来した大日如来像の二体の同時出陳が実現し、運慶にかかわる大日如来像三躯が一堂に会したからだ。
「特別展」神奈川県立・金沢文庫80年・・「運慶」
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そろそろ本題に入ろう、治承四年(1180)の南都(奈良)焼き討ちによる興福寺復興造営を中心に、運慶は父康慶(koukei)の許で制作活動に就いていたと思われる、文治年間初期に興福寺西金堂の本尊釈迦如来像を制作したとみられる。(類聚世要抄)

この後、運慶は文治年間後半から(1189)建久年間前半(1194)にかけて、その拠点を、頼朝の鎌倉に移したらしい。

像内に納入された銘文から運慶作と確定している願成就院の諸像は文治二年五月に北条時政が発願し、運慶が造り始めたことが明らかである。北条氏の氏寺願成就院は、本貫地伊豆国北条、現在の静岡・伊豆の国市に所在する。

勝長寿院は源頼朝の父義朝追善のために鎌倉に建立された、源氏の氏寺である。 「吾妻鑑」によれば、その安置仏「丈六。皆金色阿弥陀仏」の仏師は、奈良仏師の正嫡(正系・定朝)である成朝だった。つまり、成朝の仏像が安置された「源氏の氏寺」勝長寿院に対して、同じく奈良仏師運慶の諸尊が安置された「北条氏の氏寺」願成就院が、発願整備されたと考えられよう。 因みにこの時期の京都の院派や円派の仏師たちが、院や平氏政権との強い関係から鎌倉幕府に退けられたと考えられている。 (続)

お詫び・・・鎌倉五山(Ⅷ)最終回の記事中、浄妙寺の明神様のお姿を未確認のまま記事にしました、お許しください。

平成二十四年壬辰・丙午・甲申