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武家政権

中世都市・鎌倉

*将軍御所と執権北条氏の邸宅・・・まとめ。

御所が大倉にあった親裁期に、北条時政は御所とは離れた名越に住んでいたが、その子の義時は御所に近接する大倉と小町に邸宅を持っていた。

時政期には将軍権力とは一定の距離を保っており、義時期には、そこに近接する必要があったのであろう。  その後泰時の時代になると、自分の邸宅がある小町に将軍の御所を移転しています。
若宮大路・段葛石塔
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これは、将軍権力を北条氏が取り込もうとした結果であり、将軍のもとで執権として政治力を発揮する泰時政権の本質を示すものでしょう。

一方で、北条時房(泰時・叔父)は元服以前の次期将軍・頼経を抱えて大倉から小町に移住しており、重時は御所に隣接して邸宅を構え、その中に幕政の中心である評定所などを持っていた。  彼らが将軍権力を抱えていなければ、泰時政権も時頼政権も成り立たなかったのではなかろうか。

時宗以降になると、小町大路をはさんで御所と得宗の邸宅とが離れることになる。 この時期にはもはや、将軍が北条氏権力にとってそれほど大きな影響力を持たないようになり、将軍とは無関係に得宗が政治を行うという、鎌倉幕府後期の政権の在り方を反映していると云えよう。

*得宗(徳崇)・・・・鎌倉北条氏嫡流の当主

以上のように、将軍御所と北条氏邸宅との関係は、幕府政治史を顕著に表していたのです。 (終)

平成二十六年甲午・己巳・甲寅
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中世都市・鎌倉

*執権北条家の周辺の邸宅

執権・泰時の孫にあたる経時は、泰時の邸宅を継承していたようだ。(吾妻鑑)

北条時氏(泰時・嫡男)同様に若くして病死してしまった経時の死後、その邸宅には、六波羅から鎌倉に戻った北条重時(極楽寺)(泰時・弟)が入っている。  その重時亭は将軍御所(若宮御所)に隣接しており、幕政の中心機関である評定所や小侍所も置かれていたようだ。
若宮大路幕府跡・石塔
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従って、泰時・経時の実質的な後継者は重時であったと考えられます。その重時が連署を勤めていた時の執権である北条時頼は、小町に邸宅(宝戒寺・小町亭付近)を持っていた、そこは重時亭の東側にあり、時房の住んでいた邸宅の後に住んだのであろう。 執権の時頼が、以前の連署である時房の邸宅跡に住んだのに対して、連署となる重時の邸宅は、以前の執権である泰時から経時へと継承されたものであり、幕府の重要な機関である評定所と小侍所も重時亭に置かれた。

*連署・・・鎌倉幕府の職名。執権の補佐役。北条氏一門が就任し、幕府の発給する文書に執権と共に署判する。

*小侍所・・・鎌倉幕府の機関。御家人が将軍に近侍する宿直や供奉などを管轄した。

この様に、時頼の頃の政権は、泰時・経時の実質的な後継者である重時(極楽寺)が、幕府の主要機関を確保していたことによって成り立っていたと評価されています。

北条時頼の邸宅は執権職とともに北条長時に譲られている。     (吾妻鑑)

その後この邸宅は、執権の住む邸宅として意識されるようになったと思われる。 時頼後の北条氏嫡流である時宗・貞時の邸宅の具体的な位置は特定できないが、現在の宝戒寺は後醍醐天皇が北条高時の邸宅跡に建てた寺院なので、高時は「宝戒寺・小町亭」に住んでいたことは明らかである。  したがって時宗・貞時もここに邸宅を構えていたと考えてよいでしょう。  (続)

平成二十六年甲午・己巳・辛亥

中世都市・鎌倉

*北条家・嫡流の継承

前回までのように、三段階の御所の変遷を踏まえ、それぞれの時期における北条氏の邸宅と御所との位置関係について考えてみたい。  鎌倉時代における北条氏の嫡流は得宗と呼ばれ、時政から始まり、義時、泰時、経時、(時氏は早世)、時頼、時宗、貞時、高時と続く。
宇津宮辻子幕府跡石塔s-2010_1011_095749-DSC01027.jpg
時政は当初、伊豆国韮山に館を構えていたが、鎌倉では「名越亭」を持っていた。  この邸宅の位置は特定することができないが、現在では名越に通ずる釈迦堂切通し周辺ではないかと推定されています。時政は大倉御所とは一定の距離を置いていたことが覗えます。

時政の子、北条義時は、大倉と小町の二か所に邸宅を持っていた。 大倉亭は、大倉観音堂(現・杉本寺)の西、二階堂大路の東側の周辺と思われる。  小町亭は、小町大路の東側、現在の宝戒寺の辺りと考えられる。「宝戒寺・小町亭」と呼ばれる。

大倉亭は大倉御所に出仕するための邸宅であり、御所を挟んで反対側には小町亭が配置されていたのである。  義時の死後、大倉亭は義時後家から北条時房(義時弟)の手を経て消滅したが、小町亭は時房から時頼・長時・政村・へと継承され、最終的には時宗・貞時・高時と、北条氏嫡流の住む邸宅「得宗亭」となっていたと考えられる。

義時の子、北条泰時は、小町に邸宅を持っていた、六波羅探題として京都にいた泰時は、父義時の訃報を受けて鎌倉に戻り、小町の邸宅に入っています、その邸宅はおそらく、若宮大路の東側「宝戒寺・小町亭」との間に有ったと思われます。 泰時と共に六波羅探題となっていた時房は、鎌倉に戻ると義時の大倉亭に入ったと推定されます。

そこには元服前の次期将軍藤原頼経が住んでおり、時房の役目はおそらくこの将軍を確保することにあったのでしょう。嘉禄元年(1225)に御所が大倉から宇津宮辻子へ移転すると、それと共に時房も、御所に近い「宝戒寺・小町亭」に移住したと考えられる。  時房が次期将軍頼経と共に大倉から小町へと移住したことは、彼の役割が将軍の確保にあったことをよく表しています。・・・次期執権泰時の地位は、一族の長老である時房のこうした行動によって支えられたのであろう。   (続)

平成二十六年甲午・己巳・戊申

将軍の地位を窺う鎌倉公方

*鎌倉公方の中絶

結城合戦(永享12年・1440)・・足利持氏(四代鎌倉公方)の遺児安王丸(yasuoumaru)・春王丸(haruoumaru)を擁して下総結城城(茨城・結城市)に籠った結城氏朝(yuuki・ujitomo)を討伐するため、上杉清方(管領・憲実弟)が軍勢を率いて鎌倉を発する。・・・上杉憲実も将軍・足利義教の命で幕府軍に加わり、結城城を攻撃、城は間もなく陥落し、氏朝は切腹し、両遺児は捕えられ誅殺された。    (鎌倉公方が中断する)

結城合戦の後、憲実は幕府に再び引退を願い出るも許可されなかった。  そのような状況の中で憲実は、子息四人のうち幕府に属する竜治(tatuharu)を除いた三人を出家させており、彼らが家督を継ぐことを許さなかった。 しかし、翌年になり長尾景仲(nagao・kagenaka)をはじめとする上杉氏山内家の被官たちは、、家督を継がせるべく、憲実の子息・憲忠(noritada)を環俗させる。   (上杉家文書)

文安四年(1447)、幕府は足利持氏の遺児・成氏(sigeuji)が鎌倉公方となることを認める。さらに、後花園天皇の綸旨を以て、上杉憲忠が関東管領(12代)に任じられる。二年後に足利成氏が元服して鎌倉公方(五代)となる。  成氏という名は、八代将軍足利義成(asikaga・sosisige)(後の義政)の偏諱(henki)を受けたものであります。
鎌倉公方が代々屋敷を構えた公方邸旧跡(鎌倉・浄明寺)
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この様に鎌倉公方の復活が果たされ、鎌倉府の再建が進められる中で、足利持氏の遺臣(成氏派)と上杉氏被官(反成氏派)の間の対立が深刻になってきた。・・・山内上杉家・家宰長尾景仲(nagao・kagenaka)が扇谷上杉家家宰・太田資清(oota・sukekiyo)らと軍勢を合わせ、足利成氏の鎌倉御所を急襲するが、成氏は腰越・江の島で抗戦する。 その後、幕府管領・畠山持国の調停によって和議が成り、成氏はかまくらに帰還した。

享徳三年(1454)足利成氏が、上杉憲忠を公方・御所に招いて謀殺するという事件が起きた。・・・表向きは憲忠が、成氏の父持氏を死に追いやった上杉憲実の子であった為といわれるが、実際には両者の関係が極度に緊張しており、何かのきっかけで、成氏軍と上杉軍の間が合戦になるような状態のなかで起きたのである。  (享徳の乱)

康生元年(1455)、幕府の命を受け、足利成氏討伐のために東下した駿河守護・今川範忠(imagawa・noritada)が、成氏を破って鎌倉に入った。  殺害された関東管領上杉憲忠の後継となった上杉房顕(uesugi・fusaaki)(13代)を援護するためである。   今川軍に敗れ鎌倉をおちた成氏は、下総古河に奔りました。(古賀公方の始まり)   (続)

*京都では康生と改元したが成氏は用いず、その後二十年以上にわたり「享徳の乱」と言われる内戦が続くのであります。

平成二十六年甲午・丙寅・乙亥

将軍の地位を窺う鎌倉公方

*公方・足利持氏の管領・上杉憲実暗殺計画

正長元年(1428)足利持氏が京都に進撃しようとして上杉憲実に諫止される。  前述したが、将軍・義持が没し弟の義教(yosinori)が後継に決定したことに異議のあった持氏が不満を抱いたためという。持氏は憲実の諫止を聞き入れず、京都に向け出兵の準備を命じた。憲実は新田氏が上野より鎌倉を襲うという情報を流して、持氏を思いとどまらせたという。

伝・上杉憲方墓(第五代関東管領)・(山之内家)・(鎌倉・極楽寺)
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永享元年(1429)、京都では正長から永享へ改元が行われていたが、足利持氏は従わずに正長の年号を使い続けました。  しかし、永享三年に持氏の使者二階堂盛秀(nikaidou・morihide)が将軍義政(yosimasa)(五代)との対面が許されたため、京都と鎌倉は一応の和解を遂げていました。  鎌倉でも京都に従い新年号を使い始める。

鎌倉の鶴岡八幡宮に、足利持氏が自らの血を混ぜて書いたという「血書願文」が残っているそうだ。   怨敵(将軍義教、と義教に通ずる京都扶持衆のこと)を退けて関東の支配を全うしたいと祈願しています。  (八幡宮文書)

永享七年(1435)、足利持氏はは東国の諸将に命じ、幕府と気脈を通じる、陸奥の篠川御所・足利満直(asikaga・mitunao)・(叔父)に対して討伐軍を派遣した。続いて信濃守護・小笠原政康(masayasu)と村上頼清(yorikiyo)との争いに介入、幕府指揮下の小笠原に対抗する村上方に援軍を送っている。その様な状況で、京都と鎌倉の関係は急速に悪化し、上杉憲実が持氏に諫言するも、聞き入れられず、この両者の関係もまた悪化する一方でした。

足利持氏の子賢王丸(kenoumaru)が元服する。上杉憲実は持氏に対して、先例に従い室町将軍の偏諱(henki)を請うように勧める。しかし持氏は聞き入れず、将軍の通字を入れて「義久」と名付ける。その後、持氏が憲実を暗殺するという噂が立ち、憲実は鎌倉を出奔しれ領国の上野に退避していたが、持氏が憲実討伐のために出陣するに至り、幕府は持氏討伐を決定する。  (永享の乱)

*偏諱・・・・・将軍や大名が、臣下や元服する親族に自分の名前の一字を与えること。賢王丸元服の際には、本来は将軍義教の「教」を付けた名前でなければならなかった。

幕府軍との戦いに敗れ、足利持氏が鎌倉永安寺(youanji)(二階堂・廃寺)で自害した。  上杉憲実は幕府に対して持氏の助命を嘆願したが、叶わなかった。憲実は家督を弟清方(kiyokata)に譲り引退した。  (続)

*永禄四年(1561)、上杉憲政(uesugi・norimasa)が長尾景虎(nsgao・kagetora)(上杉謙信)に家督と関東管領を譲るまで、120年を要します。

今年も、最終回までご覧いただき有難うございます、自分勝手の解釈に違和感を覚えるかしれませんがお許し下さい、来年もこの調子で更新を続けるつもりです。・・・・・鎌倉の石塔・周辺の風景へ御来訪の皆様、迎えられます「甲午年」がより良き新年でありますようお祈り申し上げます。<<感謝>>


平成二十五年癸巳・乙丑・辛未