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武士政権

将軍・頼朝の後継者

京都文化への憧れ・摂取

鎌倉に幕府を開いた頼朝は、なぜ京都に幕府を置かなかったのでしょうか?

常識からいえば、京都に幕府を置くべきだろうが、権謀術策に長けた貴族達の待ち受ける京を避けたのである。関東の片田舎に政治の中心を置くと云う決断は、革新的な事だ、貴族たちの策にはまらない為の安全な措置と言えよう。
復元中の永福寺基壇(鎌倉市二階堂・永福寺跡)
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先祖ゆかりの要塞の地と言うことの他に当時穀倉地帯となっていた武蔵・相模両国の他に戦に欠くことのできない優秀な南部馬の産地なども考慮入れての本拠地決定だと考えられる。

次に頼朝が考慮したことは、安全と言う点ではなかろうか。  鎌倉はただの田舎では無い、前面に海、隣には三浦一族が構える三浦半島という鎌倉の位置が、頼朝の安全を考えるとき、大切な条件となったでしょう。

源氏の嫡流とはいへ、気性の荒い東国の武士達を統率してゆく頼朝に近衛兵的な兵の存在が無いのはいかにも不安だった。伊豆の時代から北条一族が居たが、北条の力はまだ小さい。 共に挙兵した三浦一族を頼りにし、鎌倉を選んだ事は充分に考えられる。そして海である。海の交通輸送・交易に積極的に利用しようと云う計算があったと思われる。

真鶴半島の土肥実平、三浦半島から安房にまで勢力を持っていた三浦義澄、上総の大豪族・上総介広常ら、海に関わりのある豪族たちとの接触から、海に目を向けていた事は間違いないでしょう。

大将軍・頼朝が死去し、その後継者の時代です。  十三世紀に入り、御所の近くに法華堂がつくられ、頼朝の父義朝の本拠地・扇ヶ谷には寿福寺が建立された。  中国に渡って禅宗を日本にもたらした栄西(yousai)が住持に迎えられた。この時期から、幕府は京都の貴族が展開してきた律令に基ずく政治と華麗な文化を積極的に取り入れてゆきます。

三代将軍・源実朝は、後鳥羽上皇が主導する朝廷の政治と文化に憧れを抱き、それを広く学んで摂取した。
京都から文化人を招いて文化の摂取にも熱心に取り組んだ。藤原定家(fujihra・teika)に和歌の教えを請い、京から招いた僧や陰陽師に将軍を警護させる制度が整えられ、こうした中で実朝の「金塊和歌集」が編纂され、栄西の「喫茶養生記」が実朝に献上された。さらに実朝が京の坊門家(boumon)から妻を迎えるにあたり御所の造りが京風に変えられた。

しかし、急激な京風化の動きは、武士達の反発を招くことになりました。このような状況の中、鎌倉中は不安定さを増していた、実朝に近い和田義盛が北条義時の策謀に失脚(和田合戦)、した後、実朝も鶴岡八幡宮の境内で殺害されてしまった。

平成二十五年癸巳・己未・辛亥
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武士による政治の始まり

貴族による政治から武家の政治へ

平清盛(京都)によって始まったと考えられる武士政治は、鎌倉に入った源頼朝によって武家の政治へと発展していったと考えられる。

鎌倉に入った頼朝が鎌倉の中心として据えた鶴岡八幡宮寺、源氏の祖先と一門とを神祇・仏教信仰の両面から祀って護持する宋廟としての役割を担うべく建立された。  鎌倉中央奥に据えられ、海辺とを結ぶ参詣道である若宮大路が整備され、同時に周辺の道も整えられ、鎌倉の中心から、東国の中心として位置するようになった。
若宮大路・段葛石塔(鎌倉・雪の下)
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幕府の政庁である御所は八幡宮の東に建てられたが、他の寺社建物と比べて簡素なものであったらしい。  御所の東に荏柄天神が鎮座して御所の鎮守とされ、御所の南には頼朝の父・源義朝の冥福を祈る勝長寿院が建てられ、御所の東北には、奥州・藤原氏との奥州合戦で亡くなった死者の霊を祀るとともに、武家を護持する御願寺として永福寺が建立された。

永福寺を建てるにあたっては、奥州・平泉にあった中尊寺の大長寿院や毛越寺などの景観に倣って大規模な建物が建てられ、遊宴が行えるような庭園がつくられ、池も配された。・・・・・武家の寺として武家文化を意識させるものとなりました。こうして御所の周囲は、それらの寺社に囲まれた極めて宗教色の強い都市としてスタートしたことがわかります。

源頼朝によってその基礎が築かれた武家政権と武家文化は、平氏の武家政権や奥州・藤原氏の文化に影響されつつも、鶴岡八幡宮を精神的な核として成長してゆき、治承の内乱と奥州合戦と言う二つの内乱をへて、名誉と質実剛健を重んじ、家の結びつきを大事にして将軍に忠誠を誓う、精神・倫理を育んでいった。 緊急時には、武士達が鎌倉に駆けつける体制も整備され、鎌倉は東国の政治的・文化的中心となりました。

平成二十五年癸巳・己未・己酉

平清盛から頼朝へ

源頼朝ⅤS後白河

平家都落ちの後、後白河の使者が早くも鎌倉に向かっている、木曽義仲・源行家
が軍勢を率いて入京し、二人は院御所において平家追討の命を受けている。頼朝にも平家追討を命じ、彼の上京を促すべく、使者を派遣したのであろう。

源頼朝・鎌倉入り後、最初の大事業・鶴岡八幡宮の移転(由比若宮)
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後白河は平家の都落ちと同時に、頼朝との正式の交渉を自ら求めている。この使者は二カ月にわたり鎌倉に滞在し、後白河と頼朝との意思の疎通を図ったと思われる。

その後、後白河は公卿(kugiyou)を招集し、京攻めの論功行賞を行った。論点は頼朝・義仲・行家の扱いをどうすかにあったが、公卿の意見は一致し、「第一・頼朝、第二・義仲、第三・行家」の順で行われた。  直接京攻めには加わっていないが、やはり頼朝の功績が大きいと、朝廷は評価したわけだ。

朝廷が頼朝に対して好意的態度を示したのは、頼朝が対朝廷交渉を積み上げてきた賜物であろう。 その努力と実績によって、後白河も貴族も、平家の次は頼朝、という機運が生じたのは当然のことだろう。

しかし、その評価に対し義仲の圧力が加わっている。 論功行賞についての公卿会議の原案と実施が正反対の叙位・任官が行われてしまった。すなわち「第一・義仲、第二・行家、第三・頼朝」に逆転してしまったのである。さらに義仲は左馬頭に任じられている、しかも左馬頭は源義朝(頼朝・父)の任官した官位であるから、義仲にとって義朝の後継者としての意識があったのではなかろうか。 公卿会議の結果がこのように逆転したのは明かに義仲の圧力が係ったと見るべきだろう。

この叙位・任官問題に続いて、皇位継承問題が起きた。  義仲が自ら候補者(北陸の宮)を擁して介入すると云う予想外の出来事は、後白河や貴族の感情を害し、警戒心を高めた。皇位継承問題が絡めば、頼朝と義仲の対立は決定的となり、頼朝勢と義仲勢の決戦も噂されるようになった。

「北陸の宮」の入京後、義仲は後白河から平家追討の実行を迫られた。宮の入京を見届けた義仲は一応の区切りがついたとし、後白河の命に従い出陣した。以後、義仲は播磨から備中に転戦し、帰京するまで、50日余り京を留守にしている。

義仲が出陣するや、早くも後白河と頼朝の交渉の記事が「藤原兼実日記」に記される。 これにより貴族たちの関心はもっぱらその交渉の進展を見守る。 正式の交渉が公然と開始され、双方の使者は頻繁に京と鎌倉を往来するようになり、急速な関係正常化がなった。

頼朝は朝廷に対してどのような要求をしたのであろうか。関係正常化についての頼朝の考え方は、文書にして朝廷に申し入れしている。 申し入れは大きく三ヵ条からなる。

1 荘園の支配を神社・仏寺に戻し回復する。(略)
2 貴族や「関東・北陸」の地方領主の、荘園支配を回復させること。(略)
3 平家旧領の領有を要求しない。(略)


頼朝は、この三ヵ条申し入れと平行して、何度も義仲を公然と非難し、敵意をむき出しにしている。 その様子から推察すれば、朝廷が義仲を見限ること、さらに義仲追討の決定を下すことを後白河に要請したように思われる。

頼朝の要求に対して、朝廷の対応はどうであったのか、一つは頼朝を本位に復す宣旨である。これで名誉回復はなった、ただし任官や位階の昇叙は行われなかった。

朝廷は荘園問題に関する決定を頼朝に下した。 この宣旨は著名なものであるが原文は存在しない、しかし趣旨については兼実日記等に伝えられている。

宣旨の主旨は、関東荘園の支配回復である。これに対する頼朝勢力の実力行使に積極的な期待を寄せていることが読み取れる。 この宣旨は先の三ヵ条申し入れを受けたものであり、ようやく実現した。
しかし、この宣旨は畿内・近国を不問に付し、現実に頼朝勢力の支配下にある地域に限定されている。

結果的に、朝廷は頼朝勢力と義仲勢力のそれぞれの支配権が平行する事を認めた。 京が義仲の支配下にある状況下では仕方のない態度であろう。

頼朝側も義仲側もこの朝廷対応に満足するはずもなく、双方共に不満を表明している。 それでも頼朝勢力は基本的に宣旨を順守する立場をとった。

義仲側は、朝廷と頼朝の急接近に危機感を強めた。  義仲勢は平家勢と備中・水島で不利な戦いを強いられている、結局この戦に敗れ、後白河の反対を押し切って、京に帰還してしまった。

帰京した義仲は、頼朝に与えた支配権の公認を非難し、頼朝追討の院宣・発給を要求すると共に、支配圏公認の宣旨を撤廃するように要求した。 しかし、 頼朝勢力との共存は不可能であるし、これらの要求や非難は受け入れられず、東西から敵に追い詰められ袋小路に入ってしまった。

この時期の頼朝勢力の支配権は、次の様に想定できる、行家の地盤を侵食し、美濃・尾張まで支配下に収めたであろう、さらに伊勢を義仲から奪っている。他方越後の城氏を服属させ、さらに北陸道に軍勢を進め、義仲勢力の根拠地を蚕食しつつあった。

平成二十四年壬辰・戊申・乙酉

平清盛から源頼朝へ

しばらく休みましたが、今日から再開します。  

再訪問有難うございます、少しペースが落ちると思いますがお付き合いください。

平氏から源氏へ

頼朝勢力が坂東に生まれたのは1180年の秋、彼等が京を占領したのは1184年の始めである。その間三年余り頼朝勢力は坂東中心の局地的支配権を維持するにとどまっている。
鎌倉・鶴岡八幡宮(現)・丸山稲荷神社
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1181~82年は比較的安定した時期であったが、少なからず平穏に過ぎたわけではない。東西の各地で小競り合いが生じて、情勢にも大きな変化が生じた。しかし、それらの合戦の結果、一挙に決戦に突入する事にはならず、戦線は膠着し力量に差はなく、互いに攻めあぐんでいた。

主な合戦は1181・3月の洲股合戦(美濃・尾張境)、6月千曲川横田河原合戦(信濃更級郡)9月の越前合戦等である。  洲股合戦は頼朝方と平家方との勢力圏分割を決めた事件として重要である。

富士川合戦のあと、東海道方面の情勢は、坂東の頼朝勢力の最前線として遠江に甲斐源氏の安田義定がおり、さらにその先の三河に源・行家がいて、尾張に進出し東下した平家軍との決戦に敗れたのが洲股合戦である。

尾張を制圧した平氏軍と、三河を挟んで、遠江以東と尾張以西に東西勢力が睨みあっていた。 一方北陸方面でも千曲川合戦において、平氏方の主力・越後の城氏(jiyousi)の軍勢が木曽義仲(信濃源氏)・甲斐源氏の連合軍に敗れ、北陸の情勢は一挙に変化した。

義仲は越後に進出し、さらに越中から能登・加賀へと急速に侵攻し勢力を拡大している。対する平氏も追討軍を派遣するが、逆に越前で惨敗を喫したが、此処でも越前を境に軍事バランスが成立した。

この間の、頼朝の態度は明瞭で、終始遠江以東の守りを固めることを専らの方針にしていた。富士河の陣から平氏勢が敗走したき、頼朝は追撃を命じたが、武将等の反対によって進軍は中止されている。いまだ東国の敵対勢力の平定が済んでおらず、不安定な状況に在ったからだ。(常陸・佐竹氏等)・・・「吾妻鑑」によれば「先に東夷を平らぐの後、関西に至るべし」と軍議は決したと云う。

1183年の木曽義仲勢の京都(都)攻撃は歴史上未曾有の事件であった。  都への地方からの攻撃は殆ど予想もされない出来事である。・・・・・平城京や平安京をはじめ日本の都には堅固な外壁が作られない。要するに外敵の危険をあまり意識していない・・・。現実に都は数百年にわたって安定を保ち、天皇や貴族たちの生活が続いた、古代史における最も安定した時期といえる。

義仲の京攻めは、中世の始まりを象徴する事件である。続いて頼朝勢力の都攻めがあり、承久の乱へと続く。
京攻めの歴史は二つの段階を経て、すなわち義仲・頼朝が地ならしをし、道を開くと云う段階がなければ、承久の乱のような本格的な京攻めは出来なかったと思われる。(鎌倉幕府・北条氏政権)


頼朝勢力の京攻めは朝廷を守るための攻撃という意識がその動きを慎重にならざるを得ない理由である。朝廷は頼朝勢力を反逆者とみなし、強い恐怖の念を抱いている。朝廷から敵視されたままでは、都に侵攻するわけにはゆかない。勢力の攻撃目標が平家一党に限定される事を、朝廷側に了解させる必要があったのだ。

朝廷が平家を見限り、頼朝勢が京に迎えられるように仕向ける必要があった。この条件は、交渉によって切り開く以外にはない。

ここで、1181~1182年頃の諸勢力の支配圏を確認しておこう、西国平家の支配圏は(判りやすく、現在の表記で記す)愛知県の半分~岐阜県~京都府~福井県の半分のラインから西。 木曽義仲の支配圏は、福井県の半分~石川県~富山県~新潟県の半分。  城氏(新潟県の半分)。頼朝の支配圏、関東6県~静岡県~愛知県の半分~山梨県~長野県。奥州・藤原氏の支配圏、福島県以東の東北各県。  文章で書いたもので想像する事は難しいことだとは思いますが、日頃の知識を駆使して想像してみてください。

平成二十四年壬辰・戊申・癸未

平清盛から源頼朝へ

平氏と源氏・最期の合戦前夜?

治承六年(壬寅)、頼朝は伊勢神宮に告文を納めている。(治承六年に関しては後述)
その内容は、まず挙兵の事情を述べている、清盛は頼朝を殺害しようとしたが、頼朝は危機を逃れている。
源実朝暗殺の主犯・公暁が隠れたとされる、今は亡き大銀杏(鎌倉・鶴岡八幡宮)
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平治の乱後危機を逃れた頼朝だが、清盛の為に謀反人とされ、反論の機会もない。
南都を(奈良)焼き、朝廷を乗っ取り、国中に乱暴を働いた平家こそ謀反であると訴えている。

この頼朝の主張には明確な特徴がある。 以仁王(motihito・ou)の檄(geki)
がまったく姿を見せない。自分の命を守るための緊急避難的な説明はあるが、あれほど重用した以仁の檄に言及しないのは、いかにも不自然だ。?
 しかし、この時以後、頼朝は以仁の檄に一切触れていない。

文治元年の藤原兼実宛・言上状には、自分は誰の指図でもなく、自発的な挙兵であったと云う。之によって以仁の檄は意識的に抹消されたことになる。頼朝勢力が以仁の檄に対する評価を変え、これを無視することになったのでしょう。

この変化は何故生じたのか「吾妻鑑」によれば、この告文は三善康信(miyosi・yasunobu)が草案を書いたと云う。在京の康信に作文を託したのは、朝廷の動向を知る人物を採用したのであろう、以仁の檄を取り下げたのは、康信の情報かもしれない。

頼朝勢力が以仁王・令旨を無視したのは何故だろう、藤原兼実の日記においては、以仁に対する同情は甚だ薄い。それは兼実だけでなく、朝廷全体を包んでいるように思われる。

以仁の檄を再読すると、これが原因であろうと思われる、明らかな難点が存在する、兼実,始め朝廷の首脳部を構成する人々の誰しもが納得できない問題点を含んでいた。中でも後白河の不快を買うであろう問題点が見えてきた。

以仁は、この檄文に自らの即位を予告している。つまり、以仁は反安徳にとどまらず、反高倉をも唱えたことになる。それは後白河の意志に反する事であったと考える。

後白河天皇にとってみれば、以仁が皇位を奪取しようとしたことは、平家の犯罪にも等しいものがある。以仁事件は、その意味でやはり謀反などであろう。以仁の令旨を掲げている頼朝勢力との交渉は出来ない、疑惑は深まっていただろう、その様な状況の中で頼朝勢力が以仁の檄を放棄するのは必然である。


治承六年(1182)頼朝が伊勢神宮に納めた告文の日付についてリポートします。

告文の日付は「治承六年」になっているが、朝廷の年号は養和二年(寿永元年)になる。頼朝は1183年8月まで養和・寿永の年号を使用していない、告文の日付もその一環である。それは安徳の在位を否定する態度を年号不使用によって明らかにしたものである。しかし治承の年号は使われている、治承の年号もまた朝廷の年号であることに変わりなく、頼朝の朝廷に対する姿勢が示されている。この場合の朝廷とは後白河に代表されるものであり、頼朝勢力は反安徳であっても、反朝廷ではない。彼等は後白河に従属する者であると。  続く

いつも、御訪問戴き有難うございます、都合により次回から一週間程度おやすみします。  再開時には又お知らせいたします。

平成二十四年壬辰・戊申・癸酉