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吾妻鑑

「吾妻鑑」「鎌倉北条氏」

吾妻鑑が伝えた「鎌倉北条氏」・まとめ

鎌倉時代の歴史書「吾妻鑑」は鎌倉北条氏あるいはそれに近い人達によって編纂されたと考えられています。編纂された時期は、13世紀中頃~14世紀初頭と言われる。  もちろん原本は未発見、現在私たちが観られるのは数系統ある「写本」またはその写しである。  (系統、内容についてはリポート済みです。 該当ヵ所を参照してください)
「吾妻鑑」活字本・・・読み下し教本  建久五・六年条(1194~1195)
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先祖の系譜すら明らかでない伊豆の土豪的武士団北条氏は、婿に取った流人源頼朝が鎌倉幕府の創始者となった事から、武家政権の権力の座を目指すレースへの参加資格を得た。

北条氏の庶子義時(yositoki)は気付いた時には戦いの渦中に身を置いていた。 頼朝没後に始まる熾烈な御家人間抗争は剥き出しの権力闘争以外の何物ではなく、義時は次から次へと押し寄せる災難を振り払うため、戦い続けた。

結果として義時は勝利をかさね、義時の地位は押し上げられていった。父や義母すらも駆逐し、多くの人々を殺し、義時はこの抗争の勝利者となった。その果てにあったのが、承久の乱の勝利である。

追討宣旨を蒙りながら勝利した義時は、後鳥羽以下三上皇を配流し天皇を廃位するという空前絶後の処置を断行する。 これもまた現実の権力闘争の帰結であった。  この結果は義時に頼朝と並ぶ武家政権の創始者という評価を与え、義時の直系である北条氏得宗を鎌倉幕府の支配者たらしむ正統性の源泉となった。

頼朝没後の内部抗争は、源氏将軍家断絶という結末をもたらした。これによって源家将軍家の世襲という道は閉ざされ、将軍家を摂関家藤原氏、さらに皇族へと変遷させてゆく。

それは将軍に代わって幕府の政務をとる執権という役職を生みだし、将軍と執権は幕府の権力を巡って対立を繰り返した。やがて執権を世襲する北条氏の家督「得宗」が、将軍を装飾的存在に祀り上げ、幕府の実権を握るに至る。

この奇妙な政治体制が倫理化され、正統性を完全に付与されたのは、義時の玄孫(ひいひい孫)時宗の時代である。時宗は、生まれながらの得宗なるがゆえに、蒙古帝国と対峙する運命を背負った。

父祖が築きあげてきた得宗への権力集中を成し遂げ、「将軍権力代行者」となった時宗は、自身の権力を保証し、自己の必勝を確信させてくれる拠り所となる倫理を求めた、(ツジツマ合わせ)すなわち、北条得宗家は、鎌倉将軍の「御後見」として幕府と天下を支配する。

「北条氏は、なぜ将軍にならなかったのか?」という疑問に答えれば、北条家得宗は鎌倉将軍の「御後見」なのであり、自ら将軍になる必要もなく、なりたくもなかったのではないか。

だが、時宗に於いて完成され頂点に達した得宗権力は、時宗自身の卒去と同時に形骸化の道を歩み出し、以後の鎌倉幕府は迷走と混乱の果てに沈滞に陥り、やがて瓦解の時を迎えたのである。  完

平成二十四年壬辰・壬子・戊子
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「吾妻鑑」・「鎌倉末期の幕府」

第十部・吾妻鏡が伝えた「幕末」  参考 「保暦間記」・「太平記」 5・独裁者の挫折とその後
鎌倉幕府14代執権(最後の得宗)・北条高時・はら切りやぐら(鎌倉・小町)
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幕府の政治制度改革に於いては、貞時は時宗よりもむしろ多くの事を行っている。 貞時期を得宗専制の最盛期とする評価がある由縁であろう。 しかし、貞時の独裁は表面的なことであり、実は改革は幕府支配層の抵抗によって順調には進まなかったようだ。

評定衆・引付衆など幕府中枢の役職には、時宗期から就任する家柄が固定化するようになっており、各家の間には就任できる役職の上下によって、家格秩序(家柄ランキング)まで生れていたのである。 

八代時宗の権力基盤の一つは、北条氏惣領家という得宗家の家格にあったし、彼の権力は支配層によって育成された面があった。
そして時宗は評定~引付を基軸とする幕府の政治・訴訟制度の上に乗って権力を行使したのである。

しかし、時宗は幕府の制度・先例・家格秩序を越えた存在であり、思うがままに権力をふるった。 支配層からしてみれば、彼等が育てたはずの時宗が彼等の制御できない存在となったと言えよう。 貞時も時宗のごとき権力者たらんとしたが、支配層は先例や伝統を盾に「将軍権力代行者」であり幕府の独裁者であるはずの貞時に抵抗した。    貞時は結局、支配層との権力闘争に明け暮れてしまうことになる。

正安三年(1301)北条師時(morotoki)は貞時から執権職を受け継ぎ、十代執権となる。さらに、北条宗方(munekata)が幕府の軍事権を握る侍所所司と得宗家公文所のトップである執事に就任した。 貞時は執権師時と幕府侍所所司・得宗公文所執事宗方を左右の腕として、幕府と得宗家の政治・訴訟・軍事は得宗一門の三名の掌握する所となった。・・・・・得宗家専制体制の成立  (三名が従兄弟の関係)

それでも支配層の抵抗は止まず、事態を一気に打開しようとした貞時は、嘉元三年(1305)支配層勢力の長老である連署・北条時村を攻め、滅ぼすという実力行使によって支配層を屈服させようとしたのである。   (嘉元の乱)

この嘉元の乱によって、得宗家専制体制はわずか五カ月で崩壊し、平禅門の乱以来、十二年に及ぶ貞時の政治は、すべて水泡に帰した。   「挫折した独裁者」の後を継ぐのは、貞時卒去の時九歳であった最後の得宗・北条高時であった。
鎌倉幕府(北条)最後の得宗・北条高時終焉の地、東勝寺跡石塔(鎌倉・小町)
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貞時は、得宗高時の後見を、内管領(utikanrei)、長崎円喜(enki)と安達時顕(tokiaki)(高時・舅)に託した。  その後、執権は北条一族の大佛宗宣(osaragi・munenobu)、煕時(hirotoki)、基時(mototoki)と推移、あくまで高時が成長するまでの暫定的な措置であった。 高時が十四歳で正式に就任したが、実権は円喜らが掌握する事になる。  (関東評定衆伝)

以上、時宗没後の半世紀、鎌倉幕府は迷走と混乱の果てに停滞した。  先祖たちが築き挙げてきた倫理も理想も見失い、ついに元弘三年(1333)、日本中の武士達の総攻撃を受け滅亡したのである。     (終り)

平成二十四年壬辰・壬子・丙戌

「吾妻鑑」・「鎌倉末期の幕府」

第十部・吾妻鑑が伝えた「幕末」  参考・「保暦間記」・「太平記」   3・「弘安徳政」

弘安七年(1284)、三度目の襲来が予想される状況の中で執権北条時宗が三十四歳の若さで死去した。その後、嫡子貞時が得宗家の家督を継いだが、幕政の実権は外祖父にあたる安達泰盛が握った。
鎌倉幕府第九代執権・北条貞時寄進の大鐘(鎌倉三名鐘・国宝)・・・臨済宗・円覚寺(鎌倉・山ノ内)
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泰盛は、「弘安徳政」と呼ばれる改革を実施し、北条一門や御内人(miutibito)の勢力を抑え、それまで正式には幕府の支配下に無かった本所一円地住人(非御家人)を新たに御家人として幕府に取り込むことであった。つまり、全武士階級を幕府の支配下に組み入れ、幕府を真の全国政権へと成長させようとしたのである。そして将軍権力の回復を図り、外様御家人の立場を強化した。   こうした泰盛の復古的改革は、当然北条氏一門・御内人との対立を招いた。

翌弘安八年(1285)十一月、平頼綱を中心とする御内人等が泰盛一族の他、泰盛に味方する信濃の伴野氏・小笠原氏・三河の足助氏(asukesi)、近江の佐々木氏などの外様御家人を誅殺してしまった。 これを「霜月騒動」と言う。
(11月に起きた事件から「しもつき」騒動と言われている)

騒動で政敵泰盛と弘安徳政を葬った平頼綱は、幼主貞時を擁して幕府の実権を握った。 最初の二年間、頼綱も時宗の意志を継ぐ形で、彼なりの幕政改革を行っている。 それを示すのは、弘安十年(1287)の七代将軍・惟康(koreyasu)の右近衛大将任官である。  しかし、頼綱には時宗や泰盛のような幕府の未来に対するビジョンが欠如していた。 霜月騒動に於いて頼綱と共に泰盛を倒した人々は、反泰盛の一点で結集したに過ぎなかったのである。

騒動後、頼綱は王朝の権威を自己の権力基盤強化の為に利用するようになり、さらに王朝に対する介入を強めた結果、天皇家は後深草系持明院統亀山系大覚寺統の二家に完全に分裂してしまった。 自分の権力基盤強化という矮小な目的の為に皇統への介入という伝家の宝刀まで振り回したのである。

4・「貞時の幕政改革」

平頼綱は、永仁元年(1293)、二十三歳に成長した主人貞時によって討たれる(平禅門の乱)。    実際には頼綱の行動ではあっても、貞時は十五歳で安達泰盛の討伐を命じている。そして、ここに頼綱も倒ししてしまった。平禅門の乱決行時の貞時は、 二月騒動決行時の時宗とほぼ同年齢であった。

かつて父時宗を補佐し、貞時にとっても最も身近であった二人を殺害して、貞時は権力を掌中にした。  頼綱を滅ぼした貞時は猛然と幕政改革に乗り出す。乱の半年後の十月には引付を廃し、幕府に持ち込まれる訴訟をすべて自身で採決すると云う、尋常ではない決定をしている。しかし、これは一人の人間の処理能力を越えており、一年後の永仁二年(1294)に引付は復活した。
引付・・・・・御家人の所領に関する訴訟を担当する機関。

父と同じく「将軍権力代行者」として幕政に取り組もうとしたのである。その為に貞時が目指したのは、得宗一門による専制政治体制であり、それは、時宗が準備していたことと思われる。

平成二十四年壬辰・壬子・甲申

「吾妻鑑」・「蒙古襲来」

第十部・吾妻鑑が伝えた「蒙古襲来」  参考・「保暦間記」・「太平記」   2・文永の役・弘安の役

モンゴルは、1271年、国号を「大元」(daigen)と定め、抵抗をを繰り返す高麗の三別抄軍(sanbetusiyougun)を鎮圧し、本格的に日本遠征の計画が進んでいた。
国宝・円覚寺舎利殿、幕府第八代執権・北条時宗建立・菩提寺(鎌倉・山ノ内)
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通常の拝観はここまで、年に数回拝観日が有ります。

文永十一年(1274)十月、元の将軍忻都(kinto)・江茶丘(kousakiyu)、高麗の将軍金方慶(kinhoukei)の率いる三万人以上を乗せた、九百艘の大船団が博多湾に姿を現し、西部の今津・百道原に上陸した。日本軍は元軍の集団戦法に苦戦し、大宰府の水域まで退却した。

しかし、元軍はそれ以上の戦闘をせず、博多湾から姿を消した。この戦闘が「文永の役」と呼ばれる戦いであった。  元軍は混成軍で、高麗軍の志気は低く、それぞれの指揮官の間に確執が有ったと言われているが、事実は判らない。

翌年、フビライは再び日本への使者として杜世忠(toseitiyu)らを日本に派遣した。  しかし、鎌倉に送られた元使は龍口刑場(神奈川・藤沢)で処刑されてしまった。 同年鎌倉幕府は高麗を攻撃する「異国征伐」の計画をたてたが、実行されなかった。

その間、幕府は九州地方の防備を強化した。  建治元年(1275)には、異国警固番役の制度が整備され、翌年からは博多湾沿岸に防塁(石築地)の築造が開始された。その負担は地域別に九州の御家人達に課せられた。

1279年二月に南宋を滅ぼしたは、再度遠征を計画する一方、日本開国のため、使者周福(siyufuku)を派遣した。しかし前回同様幕府は、博多にて斬首してしまった。  これにより元軍の日本攻撃は決定的となりました。  遠征軍は二か所から進発する計画で、忻都将軍率いる東路軍四万二千人が合浦(gatupo)を出港した。 対馬・壱岐を侵攻して、博多湾の志賀島にいたり日本軍との激しい交戦によって、東路軍は一時壱岐に後退した。

一方、范文虎(han・bunko)を司令官とする旧南宋軍の兵力を主力とする江南軍十万は、予定より遅れて、浙江南部の慶元を出発し、平戸辺りで東路軍と合流した。しかし、その時期に台風があったか、どうか、判りませんが、夜半から翌朝にかけて、激しい暴風雨が吹いて、元軍は壊滅的な打撃を受け、本国に帰ってしまった。帰国できた兵は一割程度との記録が残る。  以上が弘安の役である。

平成二十四年壬辰・壬子・壬午

「吾妻鑑」・「蒙古襲来」

第十部・吾妻鑑が伝えた「幕府崩壊への道」 1・時宗登場と得宗専制化

弘長三年(1263)、北条時頼が三十七歳で死去し、若年の時宗が得宗の地位を継承した。  時宗を支える体制は、時頼晩年の体制がそのまま継続した。
得宗・・・鎌倉時代後期、北条氏嫡流家の家督が、幕府権力の主体となり、初代・義時の法名得宗をもって呼んだ。
鎌倉幕府第八代執権・北条時宗建立、円覚寺・山門 (鎌倉・山ノ内)
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文永元年(1264)幕府は、一番から三番の引付頭人を選任・名越時章・金沢実時・安達泰盛が就任している。同時に十四歳になる時宗は連署に就任し、北条政村は七代執権として時宗を支える体制を整えた。      引付・・・・・鎌倉幕府・裁判機関

続いて幕府は、再審専門の裁判機関として越訴方(otusokata)を創設し、越訴奉行に実時・泰盛が兼任したようだ。  外様御家人の泰盛が要職に就いたのは、時宗室の実兄であったからというだけではなく、北条氏一門の要職独占に対する外様御家人の批判を逸らす目的もあったからであろう。

さらに、時宗の庶兄北条時輔は六波羅探題南方に任じられ、鎌倉を離れた。  こうして時宗を支える体制が整えられ、得宗専制化が推進した。
北条時輔・・・・・時宗の異母兄、成長するにつれ頭角を現したが出自の関係で嫡子を継承できなかった。

こうした人事に将軍宗尊は関わらなかったが、将軍側近の公卿と時宗・政村との間に微妙な対立が生じた。鎌倉幕府内の将軍派と得宗派との対立である。  文永三年(1266)将軍近侍の木工頭親家が上洛、京都の父後嵯峨上皇と将軍宗尊との間で何事かが密謀されていると考え、得宗派はすぐに対応した。

結果的に、反得宗派の密謀ではなく、将軍室の宰子に関しての事であったが(幕府・御侍僧良基との密通事件)、鎌倉中が大混乱となり、結局宗尊親王は京都に送還された。  変わって息子の惟康王(koreyasuou)が、七代将軍となり終結した。

文永三年(1266)八月、中国大陸ではモンゴルの皇帝フビライが日本招論を試み、兵部侍朗黒的(kokuteki)らを使者とした。しかしこれは高麗の陰謀で実現しなかったが、フビライは、二度目の使者を派遣した。 そして文永五年(1268)、高麗王の使者藩阜(hanbu)が来日し、太宰少弐資能(dazai・siyouni・suketika)からの知らせが、鎌倉に届いた。

幕府は、届けられた「国書」などを朝廷に提出した。朝廷は議論の末、返諜しないとの結論で、幕府の方針と一致したようだ。直ちに西国の守護に対し警戒警報が発せられた。

しかし、残念ながら「吾妻鑑」は、文永三年で記事が途絶えている為に、「吾妻鑑」からはモンゴル国書到着から幕府滅亡に至る内容を知ることはできない。  この間に親幕派である後嵯峨院が亡くなり、その影響下での文永九年(1272)、二月騒動が起き、さらにモンゴル戦争は、幕府内外に大きな影響を及ぼした。

弘安七年(1284)四月、北条時宗が死去し、若年の得宗・貞時(十四歳)がその座に就いた。この得宗就任に付いて一族内に争いが生じたが、貞時の外祖父で有力御家人の安達泰盛が、貞時執権就任を主導したと見られる。

翌弘安八年、安達泰盛と得宗家執事・平頼綱との権力争いが起き、安達一族が滅ぼされた。(霜月騒動)その後永仁元年(1293)(平禅門ノ乱)で、一方の頼綱が失脚し、青年貞時の直断となった。

その後、得宗貞時から高時へ、諸国悪党蜂起と奥州の反乱、さらに後醍醐天皇の討幕と鎌倉幕府崩壊へと歴史は続づく。  それらの事件を「吾妻鑑」無きあと「保暦間記」・「太平記」などを参考に続けたい。   (終り)

平成二十四年壬辰・壬子・丁丑         次回更新・11月17日の予定。