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戦国時代

室町幕府~戦国時代

3・関東管領・上杉氏(戦国時代)

禅宗の乱は応永二十四年正月、三カ月あまりで終結した。  足利満隆・上杉禅宗ともに自害する事で決着。   鎌倉公方・持氏は鎌倉に帰還する。
上杉禅宗・朝宗邸旧蹟(犬懸上杉氏)
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京都扶持衆の佐竹与義(tomoyosi)が、足利持氏の討伐を受けて鎌倉比企谷(hikigayatu)に於いて自害する。この他にも扶持衆と見られる武士達が相次いで持氏によって討伐される。この為に持氏は将軍義持(yosimoti)の怒りを買い、京都・鎌倉の関係が悪化してしまった。

永享の乱に敗れた鎌倉公方・足利持氏が鎌倉永安寺(youanji)で自害。・・・・・文安四年(1447)に、幕府は足利持氏の遺児(成氏)(sigeuji)が鎌倉公方となる事を認める。  さらに後花園天皇の綸旨をもって、上杉憲忠が関東管領に任じられた。

享徳三年(1454)鎌倉公方・足利成氏が、上杉憲忠を公方御所に招いて謀殺するという事件が起きた。これは憲忠が、成氏の父持氏を死に追いやった上杉憲実の子であったと言われるが、実際は鎌倉公方と関東管領による権力対立と見るべきだ。これ以降対立はますますエスカレートした。(享徳の乱)        後に京都で起る応仁(ounin)・文明(bunmei)の乱に先んじて、関東は大動乱の時代に入ってゆくのである。

幕府の命を受け、錦の御旗を掲げて足利成氏(sigeuji)討伐のために東下した駿河守護・今川範忠(imagawa・noritada)が、成氏を破って鎌倉に入る。 殺害された関東管領上杉憲忠の後任となった上杉房顕(fusaaki)(憲忠弟)を援護する為である。

今川軍に敗北し鎌倉を落ち延びた成氏は、下総古河に奔る(古河公方)。  

京都では康生(kousei)と改元したが成氏は用いず、その後二十年以上にわたり享徳(kiyoutoku)の年号を使い続ける。

いよいよ次回からは戦国時代です。  この鎌倉の石塔・周辺の風景では、主に後北条氏のリポートになると思います。  次回タイトル・・・・・「後北条氏の盛衰」?

平成二十四年壬辰・癸丑・戊申
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