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北条氏・玉縄衆

不落の名城・玉縄城

2・築城500年記念の玉縄城(2012・11)・(鎌倉・城廻)

本丸は山城だから山の上にある。その建物は小田原城に匹敵するくらいの豪壮なものだったと言われている。しかし、残念ながら本丸跡の清泉女学園をはじめ、かなり宅地化が進んでいる、僅かながら本丸があった東南隅に太鼓櫓、東北隅に諏訪檀の跡が確認されている。
2012・11月に城址周辺で築城500年祭が開催された
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北条早雲は関東制覇の本拠地として玉縄城・築城を始めたが、その完成を見ることなく八十八才の高齢で没してしまった。(永正十六年・1519)その後を嫡男・氏綱が引き継ぎ完成された。

典型的な戦国時代の山城で、城の東から南へ柏尾川、北から西へ柄沢川が流れ、自然の堀となっていた。それに大船という所は鎌倉時代は海に近い湿地帯であったと記録からも想定できる。鎌倉を攻めた新田義貞の軍勢もこの大船を通過する際に大変難儀をしたようだ。戦国時代に於いても状況は殆ど変わらなかったと思われる。

こうした地形も、玉縄城にとって、守りやすく攻めにくい有利な条件であったのかもしれません。    

城宿より一町あまり登ると大手口にいたる。大手口は西に向かい、この郭を御厩曲輪(oumayakuruwa)と呼ぶ(凡そ千坪)空濠を廻らし東方に一路を通ず、七曲と呼んだ」  (新編相模国風土記)

玉縄城には支城らしきものも付近にあった。北側の長尾砦、西側の二伝寺砦、高谷砦、おんべ山砦などと呼ばれている砦がそれだ。また、城の近辺に鉄砲宿、大鋸などの地名も残っており、武器や建築関係の職人が住んでいた所があった事を覗わせる。

初代の城主は北条氏時。早雲の死後、城の工事を引き継いで完成させた氏綱が弟を城主にした。 このあと二代目は氏綱の娘を妻にもらっている綱成(tunasige)、(氏舜という説もある)そして氏繁(ujisige)、氏勝と五代にわたって玉縄城を守り抜き、幕末まで一度も落城することなく生き延びたが、城としての存在感を失い崩壊の道を辿ることになる。

不落の名城・玉縄城は、現在可愛い制服の女学生達が通う清泉女学院となっている。

平成二十五年癸巳・丁巳・乙巳
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後・北条氏の盛衰

12・鎌倉・玉縄城無血開城の経緯(北条氏勝)

玉縄・山居の大応寺(後の龍寶寺)住僧・良達(龍達)等の説得で、氏勝は徳川家康の要請を受け入れる事になり、玉縄城の不戦開城が決定した。
玉縄・北条氏菩提寺・龍寶寺山門(鎌倉・植木)
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氏勝は、天正十八年(1590)源栄・良達の両上人に伴われ、小田原・酒匂口(sakawaguti)の家康陣所に赴き、玉縄城開城の旨を伝え、家康の仲介で豊臣本陣(石垣山城)に伺候した。

六代・七十八年間続いた玉縄城は無血開城し、氏勝は薙髪(tihatu)して恭順を誓った。これにより秀吉より助命され家康の配下に属することになった。  玉縄城は家康の家臣・水野織部正忠の預かりとなった。

小田原本城は七月に開城し、秀吉が小田原城入城。  この時期に家康関東移封が伝えられたと言われる。 この後秀吉は奥州に向かう途中、鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮に詣でて修理を命じている。

徳川家康が江戸入りして間もなく、北条氏勝は下総岩富領(iwatomi)一万石を与えられ、譜代の列に加えられた。  翌年より行われた秀吉の太閤検地に伴い、岩富領の検地を行っている。

この頃、氏勝は家督を嫡男・善九朗氏明(ujiaki)に譲っているが、天正二十年(1592)(文禄と改元)秀吉は朝鮮出兵を諸大名に伝え、文禄の役が始まった。  氏勝は家康配下の先兵として九州肥前国(現・佐賀県)名護屋城に着陣。陣営を構えたが、渡海はしなかった。

慶長元年(1596)家督を譲った氏明が病没した為に、氏勝が再度当主となり関ヶ原を家康に従って参陣して戦功を挙げている。しかし、慶長十三年(1608)氏勝は病に侵され岩富城内にて病没した、波乱万丈の五十三年の生涯であった。  (完)

平成二十五年癸巳・甲寅・壬申

後・北条氏の盛衰

新年明けましておめでとう御座います・・・昨年は多くの方々の訪問有難う御座いました。今年も皆さまが訪問してくださる事を励みに「鎌倉の石塔・周辺の風景」のリポートを続けたいと思います。   また新しい年を元気に迎える事が出来ましたことに感謝します。 早々に新年の激励を頂いた皆さま有難うございます。   ご意見・御感想等有難うございます。 mituuroko    

10・第六代玉縄城主・北条氏勝(ujikatu)・・・・・(最後の城主)

織田・徳川の連合軍が武田勝頼を破り、織田信長の天下統一が見えてきた時に、京都・本能寺に於いて家臣・明智光秀の謀反により殺害され、政局は一気に羽柴秀吉の天下統一に向かう。
玉縄城・築城500年祭が十一月に開催されました(鎌倉市・玉縄城址)
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北条氏勝は日本の諸情勢、関東の情勢が大きく変化してきたこの様な時期に城主に就いたのである。
天正十二年(1584)になると羽柴秀吉・石田三成(isida・mitunari)は越後・上杉景勝(謙信・養子)、常陸・佐竹義重らと誼(yosimi)を通じるようになる。

翌年(1585)になると秀吉は、北条氏の宿敵・佐竹義重に北条方との戦いを励まし援護するようになる。以降秀吉と関東諸氏との通好が進展し、関東出陣の意志も伝えられるようになる。  この年秀吉は従一位関白となり天下統一が加速する。

天正十五年(1587)関白・豊臣秀吉は「関東奥両国惣無事令」を発令した。  これは関東・奥州における大名領主間の交戦からの農民間の喧嘩刃傷沙汰に至るまでの抗争を厳禁する「平和令」であった。  その目的は各地大名の領地拡大を阻止し豊臣政権が全領土を掌握する事にあり、紛争は関白の名の下に全て秀吉が裁定を下すシステムであった。  従わぬ者は朝敵として討伐の対象となる法律であった。

中央で豊臣政権が強化され、諸大名が続々と臣従を誓う中で、玉縄北条氏の本家である小田原北条氏の北条氏政(ujimasa)・氏直(ujinao)父子はこれに応じず、秀吉は北条氏を敵対者とみなす、これによって北条氏は孤立の道を進むことになる。

豊臣秀吉による二回目の関東・奥羽の諸大名に惣無事令が発せられて以降、秀吉は完全に北条氏を敵対者とみなす。  小田原城主北条氏直は、秀吉の九州平定後の次の目標は関東である旨を見抜き、緊張の極みに達する。

天正十七年の名胡桃城(nakurumi・jiyou)奪取事件で合戦必至の状況となり、総動員令がしかれる。同年十一月に秀吉は北条氏直に対し宣戦布告を出し、全国の大名に出陣命令を出す。

一方、北条方では秀吉軍の侵攻に対する防衛策として、箱根外輪山山麓の山中に、北条流築城術で新たに城を構え、小田原北条宗家の戦いの、常に最前線にあった六代鎌倉・玉縄城主北条氏勝が守備に就いた。総勢四千人の城兵とともに「山中城」籠城戦の為の準備と城普請にあたった。

平成二十五年癸巳・甲寅・戊辰

後・北条氏の盛衰

9・第五代玉縄城主・北条氏舜(ujitosi)

北条氏舜については文書の残存率が低く、不明な点が多い。  父の4代氏繁は玉縄衆として北条宗家の領土拡張政策の先兵として活躍し、岩附城(現在の岩槻)領支配を行ったり、下総飯沼城(茨城県猿島郡)を築城している。常陸の佐竹氏に対する最前線基地として対峙した。
  この飯沼城普請には藤沢の大鋸引衆(oogabiki・siyuu)が呼び寄せられた。
玉縄城・大手門付近の石積(当時のものではありません)
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佐竹十九代義重(yosisige)は下総岩井で北条軍二万の兵を僅か五千の兵で退け「鬼佐竹」・「坂東太郎」と周辺の諸将に恐れられた武将である。  (佐竹氏は源氏の流れを汲む一族)

天正五年(1577)小田原本城・北条氏政(ujimasa)が出陣し佐竹軍と合戦するが勝負は付かず、二カ月あまり膠着する。翌年には越後の上杉謙信が佐竹氏に応呼出陣命令を下すが、同年春日山城にて四十九歳で死去する。その三ヶ月後北条氏繁も四十三歳で病没した。

これまで父氏繁を補佐していた嫡男氏舜(ujitosi)、祖父綱成(tunasige)が健在であった為飯沼城主に据え置かれる。氏舜には後の六代城主氏勝(ujikatu)、と直重、直胤、繁広という4人の弟がいたが、玉縄城主も氏舜が継ぎ、武蔵岩槻城の城代にも就任した。

北条氏舜文書は天正五年~八年に限られ、この四年間が氏舜の玉縄城主時代と考えられている。  次の玉縄城主となる北条氏勝の初見文書は天正十一年からであり、この間に氏舜は弟の氏勝に家督を譲り隠居もしくは病没したものと推定されている。  氏舜死去の日付け、墓所、戒名等は確認されず玉縄北条一族の中でも不明な点が多く、子供の存在も不明である。

第六代玉縄城主北条氏勝(ujikatu)は、永禄元年(1558)四代城主氏繁(ujisige)の次男として出生。氏勝が玉縄城主の官名である左衛門太夫(saemonntayuu)を名乗ったのは天正十年頃、兄氏舜から家督を譲られたと思われる。

永年の宿敵・佐竹氏が当主義重の嫡男義宣が元服式を行い常陸国統一に近づく絶頂期を迎えている。また織田信長が信濃から、徳川家康が駿河からそれぞれ甲斐に侵攻し武田勝頼と対峙、これに敗れ武田家は滅亡。・・・・・愈々戦国時代のハイライトを迎えようとしています

今年も最後まで訪問していただき有難うございました。  まとまりの無い文章を根気よく理解していただき感謝、感謝です。   来年の「周辺の風景」はどの様な方向に進むかは、まだ未定です。  取敢えずは「後・北条氏」を進めますので、来年も宜しくお願いします。

平成二十四年壬辰・癸丑・丙寅

後・北条氏の盛衰

8・第四代玉縄城主・北条氏繁(ujisige)

三代城主北条綱成・嫡男として、天文五年(1536)に生まれる。幼名善九朗と言い、後に三代小田原城主北条氏康の「康」の一字をもらい康成(yasusige)を名乗る。  綱成同様剛勇の将として各地を転戦、氏康に従って16歳で出陣、先陣をきり敵を討ちとったと云う。また、父綱成と共に常陸下野方面にも出陣。綱成の補佐役として職務を代行する。
玉縄北条氏菩提寺・曹洞宗・龍寶寺(鎌倉・植木)
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北条氏康(小田原本城)の元に越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が武蔵・相模方面に出陣との情報が入り、各地の北条勢に防戦の準備が命じられた。  玉縄城の綱成は下総方面の備えとして有吉城に着陣した。この時に本城の氏康は26歳の泰成(yasusige)(氏繁)を玉縄城代とした。

長尾景虎(nagao・kagetora)はこの頃上杉氏の名跡を受け継ぎ、上杉政虎と名を改め、関東管領の地位と職務を名実共に実行せんと北条攻略を開始した。  小田原城を囲んだが、簡単に引き上げている。今回の相模攻撃は牽制で実のところ、鎌倉八幡宮社頭での関東管領就任拝賀式を行うことが目的でなかろうかと考えています。

鎌倉での拝賀式を済ませた長尾景虎は玉縄城・長尾砦を本陣とし、玉縄城攻撃を開始した。
 (もうお気付きの方もいると思いますが、この「長尾砦」は上杉謙信先祖の地、長尾氏の本貫地です)



玉縄城は大規模な外郭や各砦に囲まれた防塁の守りの固さを生かし、北条康成は玉縄城代として父の留守を預かり防ぎ切った。これには越後からの遠征による兵士の疲労や食糧の問題でも有るが、先にも述べたように決戦には出ず、越後・春日山に帰還している。

元亀二年(1571)に北条氏康(小田原本城)が没すると玉縄の北条綱成も家督を康成に譲った、氏繁(ujisige)と改名。四代玉縄城主となった氏繁の活動はこれ以降拡大し、四代小田原城主北条氏政(ujimasa)を援け、下総飯沼城を佐竹氏への備えとして築城。

北条氏繁は剛勇の人として知られるが、教養人でもあった、特に絵画では松の木の古木にとまる鷹の図が有名。しかし、下総飯沼城で病の為に四十三歳で没した。父綱成が63歳で健在である中でした。

平成二十四年壬辰・癸丑・甲子