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寺院

金沢街道の要所・杉本城

2・古仏像の伝説

伝・行基の像は、覆面観音・下馬観音とも言われている。・・・昔、門前の金沢街道を馬に乗って通ると必ず落馬すると云うので、北条時頼の頃大覚禅師に頼み観音に覆面をしたところ、落馬する事が無くなったそうだ。
参道階段(杉本寺・二階堂)
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また、この観音は鎌倉時代、観音堂が火災になった際に、周囲の者が気がついた時には一人で外に出て、杉の根元に立っていたと言う。杉本寺の名はこの説話に由来するそうだ。

十一面観音は二体あった筈で、もう一体は「吾妻鑑」によれば浄台房(jiyoudaibou)という別当が本尊を救おうと火の中に飛び込み、衆人全てが焼死した思っていた所、別当は悠然と本尊を運び出したと云う。・・・いずれにしても、本尊の霊験とか神秘性を強調する事は、寺院にとっても必要なことだ。


寺の背後の山には、かつて杉本城があった。裏を返すと、神秘的な観音を擁した城の不気味な力を誇示できるわけで、権力者にとって好都合であったに違いない。 観音堂の門前では観音の力で落馬させられる。火災にあっても不思議な霊力で救われる。・・・こうした伝説は、敵味方の士気を左右するのに十分な内容ではなかろうか。

杉本城の基礎を築いたのは、三浦半島に勢力を持っていた三浦一族の総師・三浦大介の長男・杉本太郎義宗といわれる。  頼朝入府以前の平安末期で、三浦氏としては、三浦半島の付け根に当たるこの地に衣笠城(kinugasa)
の支城を築き、守りを固めたのであろう。  背後に山、前に流れる滑川(namerikawa)を濠にみたてた狭隘な地形は要塞の地にふさわしい。

その杉本城だが鎌倉幕府が滅びた後、各地で合戦がかわされ、南北朝の分裂と時代が流れたころに落城している。・・・・・その遺構は開発が進み殆どわからない。  しかし、杉本城の十一面観音は相も変わらず慈愛に満ちた表情で参詣の人達を迎えている。城塞よりも観音の方が強かったのかもしれない。


平成二十五年癸巳・丁巳・乙酉
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城よりも強かった杉本観音

1・鎌倉最古の寺・三体ある十一面観音の意味は?

坂東三十三ヶ所観音札所めぐり第一番の札所として知られる杉本寺は、頼朝が鎌倉に入る前からあった古刹である。縁起によれば、札所一番の霊場となったのは、寛和二年(986)花山法皇の詔によるものだが、開創は天平時代だと言われる。

なんでも名僧・行基が大倉山の霊木を刻んだ十一面観音を祀ったのが始まりだとか、もちろん史実かどうかはわからないが、相当古い事は間違いなさそうだ。
杉本寺本堂(鎌倉・二階堂)
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本尊は十一面観音である。 これが現在三体安置されている。根本本尊と思われるのは、行基(giyouki)作と伝えられるもの。誰の目にも素人の手で作られたものであることが分かる。しかし、技術は劣っていても、この像のひたむきな求道の思いが評価されている。もちろん行基作という証はなく、藤原時代の作と考えられている。

藤原時代のもう一体の立像が杉本寺中興開山の慈覚大師(jikaku・daisi)の作といわれ。等身大のこの二体よりもやや小さい像は、花山天皇の詔で作られたと伝わるが、実際には鎌倉時代の造仏と考えられている。

本尊前に立つもう一体の十一面観音は、頼朝が寄進したもので仏師・運慶作と伝わる。

幕府を開いた頼朝は、すぐに杉本寺を参拝し、修理料や寺領を寄進したと言われ、その後も政子らと度々訪れた記録が残り、実朝が参拝した記録もある。

頼朝らが参拝したのは、藤原時代の作と思われる二体の観音であろう。期待と不安の入り混じった心境の開府当時の頼朝が、この十一面観音の慈顔を拝した時の心境はどの様であったろうか?

平成二十五年癸巳・丁巳・丁未

八百年前の時が残る鎌倉

8・金沢文庫・・・称名寺

弘安二年(1279)北条実時(sanetoki)の後を継いだのは子息の顕時(akitoki)だが、この年に護摩堂が建立され、次第に弥勒堂・西僧坊と建立されて行く、しかしこの年の霜月騒動によって顕時は下総に流される。

*顕時夫人は安達泰盛の娘で、霜月騒動の関係者として下総へ配流された。

北条実時蒐集の文庫・金沢文庫で開催された「運慶展」2011・02
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しかし、下総へ流される時顕時はかなりの土地を寺に寄進していったと言う。その顕時のあとは貞顕が継ぐことになる。

元享三年(1323)称名寺伽藍、浄土式庭園完成、結界う。・・・・・鎌倉幕府滅亡の十年前である。

このころ幕府に対抗する後醍醐天皇がわの動きも活発となり、政情は不安定な時期にありましたが、称名寺は最盛期ともいうべき時代を迎えていた。最盛期を迎えた称名寺であったが、その後まもなく保護者を失うことになる。

嘉暦元年(1326)、北条高時は執権職を辞職し、金沢貞顕がその職に就いた。しかし、貞顕は即日これを辞したと云われている。討幕の動きが急な折から若い高時には執権職は重荷であったようだ。  逆にいえば討幕運動の中心地京都の事情にも精通している知識人・貞顕の実力が求められたといえる。

北条氏の分家に当たる金沢氏は、貞顕の父・顕時が本家から下総へ流された経緯があるが、幕府の要職について実力もあったのである。貞顕が執権職を即日辞したのは、討幕と言う時代の流れをもはや止める事が出来ない状況と読んだ判断だったと思われる。

結局、貞顕はわが子、貞將らとともに高時に従って新田義貞の軍を鎌倉に迎え討ち、幕府軍は敗れ、高時ら北条一族とともに東勝寺で自刃、金沢貞顕五十六歳の最期であった。

金沢文庫北方の中腹に顕時・貞顕の墓、釈迦堂背後の山の実時の墓などは往時の姿を残すようだ。この金沢・称名寺、光明院から近年素晴らしい発見がありました。将来は国宝間違いなしの「大威徳明王像」・「大仏師・運慶」作です。
運慶作・大威徳明王像(横浜市・金沢文庫)
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平成二十五年癸巳・丙辰・庚辰

八百年前の時が残る鎌倉

7・六浦・称名寺

鎌倉に通じる重要な出入り口には大寺院がある。山之内の円覚寺・建長寺、その山之内に至る手前の大船には常楽寺が建てられている。  極楽寺坂切通しの入口には極楽寺、朝比奈切通しの入口にあたる金沢・六浦荘は安房や関東への海路、陸路の重要な場所であったが、ここに称名寺がある。
六浦・称名寺・・唐橋・本堂(横浜市・金沢区)
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これらの寺院はいずれも大きく、北条氏によって建立されている。幕府本拠地防衛の戦略上重要な場所を北条一族がすべて領有していたわけであり、大寺院はいざという時の砦の役割を持っていたと考えられている。おそらく称名寺もそうであったのであろう。

朝比奈切通しは、六浦の塩などを運ぶ経済ルートとして知られているが、同時にこの道は、いざという時に六浦港から海上に脱出する緊急ルートと見られ、海辺にある称名寺の裏山は東京湾の船の動きを察知する絶好の物見だと考えられている。

六浦は北条泰時の弟の実泰(saneyasu)に与えられて以来、その子実時(sanetoki)、顕時(akitoki)、貞顕(sadaaki)へと継承され、貞顕のときに金沢氏を名乗り、この一族は金沢北条氏と呼ばれる。

六浦・称名寺を創建したのは北条実時である。創建当初は持仏堂だけの質素な寺であったといわれているが、文応元年(1260)に実時の亡母の七回忌を行ったころから次第に寺容が整ってきたようである。  最初は念仏寺であったが、奈良西大寺の叡尊(eison)の鎌倉への下向によって真言律宗に改められた。

大きな変革と北条一族への影響をもたらして叡尊が鎌倉を去った後、称名寺は審海(sinkai)を開山に迎え新しく歩み出す。  建治元年(1275)北条実時は金沢の別邸に隠退し、金沢文庫を創る。

建治二年(1276)本尊の木像弥勒菩薩立像が造られ、この年の十月に実時は五十三歳の生涯を閉じる。

平成二十五年癸巳・丙辰・戊寅

八百年前の時が残る鎌倉

6・山之内・建長寺(Ⅱ)

総門・方丈などは昭和十八年に京都の般舟三味院(hansiyu・sanmaiin)から移築したもの。 三門は安永四年(1775)の再建。  仏殿は正保四年(1647)に芝増上寺の御霊屋を譲り受けたもので、本尊地蔵菩薩が安置されている。  方丈前の唐門もやはり芝増上寺にあったものですが、昨年新しく造りかえられました。

創建当初のものが一つだけ残る、三門脇の鐘楼に下がっている大洪鐘である。  総高208㎝、口径124㎝。国宝で平安期の作風が残るそうだ。
国宝・洪鐘(鎌倉・建長寺)
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蘭渓道隆が撰した長文の銘には、執権・北条時頼の発願で一千人が勧進して鋳造したことなどが刻まれていて、最後には  「建長七年二月二十一日 本寺大檀那平朝臣時頼 建長禅寺住持宋沙門道隆題」・「大工大和権守物部重光」とある。

物部氏は、中世に活躍した鋳物師の一族で、その初期の棟梁・物部重光(mononobe・sigemitu)は鎌倉大仏を手がけた人物と考えられている。建長寺洪鐘の銘に大工大和権守なる肩書きを記しているのは、大仏鋳造に功績があった為に得た称号ではないかと言われている。

洪鐘はさすがに美しい出来栄えで、鎌倉に現存する鎌倉時代の洪鐘は、建長寺の他に円覚寺・常楽寺・長谷寺にあるが、建長寺の古鐘、大きさで円覚寺のそれに及ばないものの関東一との評判が高い。 しかし、この古鐘もさすがに傷みが見え始め除夜の鐘の時等も形式だけになっているそうだ。

変転し続けてきた歴史を眺めながら、数百年の人の煩悩を洗い流してきた鐘の音は今も変わらないようだ。堂宇を震わせ、谷に反響する様は本当に素晴らしいと私は思います。

平成二十五年癸巳・丙辰・丙子