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尼寺

東慶寺の女人救済

3・駆込寺のシステム?(後)

呼び出し状を受けとった名主は、確かに受け取った、本人に伝え差し向けますと云う呼び出し請け書を飛脚に渡した。
やがて夫が呼び出し状を持って出頭してくる。 夫婦で話し合い、離婚に至らず二人で帰っていく場合もあった。 東慶寺では帰縁というのだそうで、この寺が縁切りだけを目的にしていなかったことが覗える話だ。
立秋前後の風物詩「ぼんぼりまつり」の準備をする巫女(鎌倉・鶴岡八幡宮)
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呼び出された夫は、だいたい観念して三行半、つまり離縁状を持参してくるという。離縁に応じない夫も、裁判が始まり、裁判所に当たる寺の高圧的な裁きに離縁状を書かざるを得なかった様だ。

駆け込むのは、夫に苦しめられた女性ばかりでなく、むしろ亭主の方に同情したくなるケースも稀にあったと云う。こうしたケースでも、東慶寺は女性の幸せだけを考えて縁切りさせたと云う。どの様な事情があっても女性の味方であったと云う。

この様に強力な寺法によって守られた女性は、離縁状をもらったからと言ってすぐに寺を出られるわけではない。協議離婚の場合はののまま寺を出る事が出来るが、それ以外の寺法離縁の場合は寺入りしなければならない。寺入りと言っても尼になるわけではなく、一種の年季奉公である。

期間は、鎌倉時代までは三年間だったが、五代目の用堂尼のときから、あしかけ三年の二十四ヵ月に短縮されたと言われている。  今でも東慶寺に参拝して手を合わせて当時の薄幸な女性と、彼女たちを救った女性たちの事を思い浮かべるのも悪くないものである。始末の悪い男性に苦労している女性、男運に恵まれない女性たちのは、もしかするとご利益があるかも知れない。 (終り)

平成二十五年癸巳・乙卯・甲辰
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東慶寺の女人救済

3・駆込寺のシステム?(前)

江戸からだと鎌倉まで十三里。 女の足で、常に追手を気にしながらはるばる辿りついた彼女たちの顔は普通では無かった、顔は蒼白、目もひきつっていたに違いない。    東慶寺を目前にした円覚寺門前で追手に捕まった女性もいたとか。
この冬の時期かまくらの各所に咲くサザンカ(北鎌倉・浄智寺付近)
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東慶寺の総門は、現在道路の面している石の門のある場所にあった。 この門の左手には、通りに面して寺役所の建物があったようだが、その後、門を入った左手に寺役所は移ったようだ。

寺役所とは、駆け込んでくる女性やその関係者を調べる役人のいた場所である。 もちろん普通の寺等には無い。
寺役所は玄関、六畳の次の間、七畳半の内見の間、十畳の吟味の間、四坪程のお白洲からなっている。白洲とは訴訟を裁くところで、裁判所の法廷の様な場所である。同じ敷地内には役人宅も有ったようだ。


女性たちが駆け込んでくる表門は、明け六つから暮れ六つまで開いていたそうだが、ようやく寺の門前まで来ても門が閉まっていて追手に捕まってしまうことのない様に、粋な計らいをしていたようだ。閉門していても、女性が自分のかんざし等を門の中に投げ入れれば、駆け込んだことになったと云う。

東慶寺は、男子禁制、しかも治外法権的な聖域だから、寺に入ってしまえば安心だったが、飛び込んだ女性の問題解決にはいくつかの手順を踏む必要があった。 かんざしを投げ入れた場合も含め、門内に入れば寺入りしたことになるが、実際にはすぐに寺に入るわけではない。  初めに女性の身元を調べ、門前にある御用宿に預けられる。

この御用宿がなかなか重要な存在なのである。宿泊させるだけではなく、駆け込み女が寺を出ていくまでの身元保証人であり、寺役所へ提出する書式の代書もやる。また駆け込み女の夫側との間に入り調停もやる。  江戸・安政期には、柏屋・仙台屋・松本屋の三軒の名が見える。それ以前の御用宿等が整備されていなかった時代には、近くの商い屋が宿の変わりをしたとか。

御用宿に駆け込み女を預けた寺役所では、関係者を呼び出す飛脚を、夫や必要な場合は仲人等にも出した。ただし、直接夫に呼び出し状を渡すのではなく、名主を通じて渡していた。  なにしろ寺格の高い寺だから、身分の低い者の許に直接行くような事は無かった。 それに、名主を中心に共同連帯責任の仕組みが出来ていた江戸時代では、このほうが効果的だった。  飛脚の費用も今でいう着払いだったようだ。夫に支払い能力が無い時は責任上名主の負担となったようだ。  (後編に続く)

平成二十五年癸巳・乙卯・壬寅

東慶寺の女人救済

2・東慶寺の歴代住持

開山の覚山尼(kakusanni)は執権夫人(北条時宗)だった女性。夫亡き後、九代執権・貞時は自分の息子であり後ろ盾は申し分ない。
鎌倉尼五山一位・太平寺跡石塔(鎌倉・西御門)
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五代目の用堂尼(youdouni)という女性は、後醍醐天皇の皇女で、護良親王(morinaga)の姉にあたる。 この方が住持になってから東慶寺は御所寺を名乗ることになる。 鎌倉御所・松岡御所といえば東慶寺のことである。 これは大変高い寺格で、東慶寺の飛脚が大名行列に出会っても、「松岡御所御用」の札を立てていれば土下座する必要はなかったと言われる。

二十代目の住持は天秀尼(tensiyuni)。家康に攻められ大坂城で自害した豊臣秀頼の娘である。秀頼の正室は家康の孫娘・千姫だが、この娘は千姫の子ではない。千姫は養母である。   秀頼にはこの娘の上に八歳の国松と云う男子がいたが、後難を恐れた家康に殺されている。 しかし、女子の方は家康もさすがに殺さずにおいた。ただし、男が近寄れぬ東慶寺に入れたのである。そして、養母千姫や周囲の要望によって「権現様御上意」を得たのである。  御上意の威力は大したもので、駆込寺としての東慶寺が存続できたのも、このお墨付きのおかげであったと言われる。

このエピソードとして残る話を一つ、天秀尼が何かのいさかいで、四十万石の大名と張り合い、寺法によって相手を潰している。  この大名は会津若松の加藤式部小輔明成。この人、評判があまり良くなく、これを諌めた家老の堀主水と対立が深まり、ついに、堀は一族を連れ会津を出てしまった。妻子を東慶寺に預け、自分は高野山に入ったが、高野山も彼らを庇い切れずに、一族は殺されてしまう。 明成は更に、東慶寺に居る堀主水の妻子の引き渡しを寺に迫った。  しかし、天秀尼はこの要求をはねつけ、更に会津を取るか東慶寺を取るかと言って将軍家光に訴えたのである。・・・・・
結局幕府は、会津40万石を取り潰し没収してしまった。

強い尼寺、駆込寺の寺法は、明治になって法律が整備された為発展的解消し、男僧が住持となるなど変わってきた。しかし、東慶寺が女性の為に果たしてきた歴史は大きいものがある。「松岡文書八百余通、等の駆け込み記録から推察するに、江戸末期の150年間に東慶寺に駆け込んだ女性は2000人を超えていると推察されています」。

平成二十五年癸巳・乙卯・庚子

東慶寺の女人救済

1・駆込寺、縁切寺と呼ばれる寺院

北鎌倉で女性に人気の寺院といえば東慶寺。東慶寺と言えばその昔尼寺であった事がしのばれる穏やかな雰囲気の寺院である。  梅の花が咲き始める早春などは、一層その感が深い。
現存する鎌倉唯一の尼寺・英勝寺
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東慶寺は駆込寺・縁切寺と呼ばれ、この寺に女性が駆け込めば、夫との縁も切る事が出来ると言われた。江戸時代どの様な事情があっても女性の側から離婚する事は出来なかった。  女性の地位が低かったこうした封建時代に、東慶寺の存在は実にユニークだったと思われる。

東慶寺は、困っている女性を救うと云うのが建前の掛込寺的性格であったが、結果的に縁切りをするケースが多かったが、縁切りだけを目的としていた訳ではなさそうだ。  どちらかといへば駆込寺と言った方が正確の様だ。

もうひとつ縁切寺でよく誤解されている点を知っておきたい、それは縁切りをするためには寺に逃げ込み、尼にならなければならないと信じられている点だ。  尼になるにはどこの尼寺に行ってもなれただろう。しかも尼になれば、当然夫とも別れる事が出来る。最初から尼になるつもりであれば東慶寺のような縁切寺は必要ない。

縁切寺の特色は、尼にならずに縁切りが出来る点にある。という事は一旦縁切りが叶って寺を出れば、堂々と再婚が出来たのである。ただし二度目は受け付けられなかったそうだ。

東慶寺の開山は弘安八年(1285)と言われ、その数年前に筋向いにある円覚寺が建立されていた。  開山は円覚寺をたてた幕府八代執権北条時宗の夫人・覚山志道尼。  時宗は弘安七年(1284)に三十四歳の若さで病死しているが、死の直前、夫人とともに出家している。  そして時宗の死後、開基となった嫡男・北条貞時の援助で、覚山尼が夫の菩提を弔う為に開いたのが東慶寺である。

開山の時から駈込寺としての役目を果たしていたかどうかはよく解っていない。証明する資料が無い為である。江戸時代になるとようやくあらわれる駆込寺の寺法についての史料には、開山・覚山尼が、夫に苦労し、自殺までする女性が多いが、そうした女性を救いたいと記されているそうだ。

記録の無い江戸時代以前の鎌倉・室町期に駆込寺の寺法を持っていた事は充分に考えられる。 というのは、東慶寺の歴代住持がいずれも名門出の女性で、寺格も高かったからである。権力者の後ろ盾も十分であった。 (続)

平成二十五年癸巳・乙卯・戊戌