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幻の寺

歴史の中で滅びた幻の寺

7・鎌倉尼五山筆頭・太平寺

鎌倉五山にならったのか、鎌倉には尼五山と言うのが。  太平寺、東慶寺、国恩寺、護法寺、禅明寺の五寺で、現在はただ一つ東慶寺のみが残ったが、明治期に尼寺ではなくなっている。
太平寺跡旧蹟・石塔(鎌倉・西御門)
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五山のうち、第一の格式を誇っていたのは太平寺で、東慶寺と共に代々の住持は身分の高い女性に限られていたようだ。開創は妙法尼(miyouhouni)。  相模の豪族の娘で、千葉氏に嫁いだ後、仏門に入った女性である。何時の頃開かれたかははっきりしないが、弘安七年(1282)頃と言われている。

場所は西御門の現在の来迎寺の近く、テニス・コートがあるところだ。近くに太平寺跡の石塔が立っている。これによると、源頼朝が保元の乱で捕えられた時、命を助けられた池禅尼(ikenozenni)(平清盛・義母)の恩に報いる為に、その姪女の願いを聞いてここに寺院を建立したと記述されている。開山の妙法尼がその姪女であるかは不明である。

寺は一時衰えたが、足利基氏夫人(初代鎌倉公方夫人)の清渓尼(seikeini)により中興、その後は足利氏ゆかりの女性が次々と住持となって栄えたが、足利義明の息女・青岳尼(seigakuni)のとき、大変なことが起きたのである。

弘治二年(1556)安房の豪族・里見義弘が、鎌倉に攻め入り、自ら西御門の太平寺を襲い、住持の青岳尼と本尊の木像聖観音菩薩立像を安房え連れ去ってしまった。  当時の鎌倉は小田原北条氏(後北条氏)の管理下にあり、そこに里見氏は攻め入ったのである。

しかし、房総へ連れ去れたはずの青岳尼はさっさと還俗し、里見義弘と婚姻してしまったのである。名門の尼寺を捨て、男を選んだのである。僧籍にあるまじきこと、鎌倉の人々は非難したと云う。しかし、これにはわけがあった。

青岳尼の父は足利義明で、古河公方・足利成氏を継いだ二代目政氏の三男である。戦いに秀でた武将だったようで、永正十四年(1517)小弓城に居を構えていたころは、彼に従う武将達も多く、里見氏が勢力を張っていた房総も支配下にあったようだ。  しかし、下総の国府台で小田原北条氏と戦い、討ち死にしてしまった。

娘の青岳尼が下総ゆかりの千葉氏に嫁いだのも何やら運命を感じるが、結局、不和から仏門に入ったようだ。 一方里見義弘は、先代に続き、里見一族が最も勢力を伸ばしていた時の豪族で、小田原北条氏と争っていた。しばしば海を渡り相模に攻め入っていたようだ。この里見氏が北条氏を敵とする足利義明と通じていた事は当然であろう。 鎌倉で尼僧となっている青岳尼のことも知っていたのでしょう。

里見義弘の太平寺住持の連れ去りは、彼にしてみれば略奪ではなく主君の姫君の救出であったはずだ。彼は寺の堂宇を焼くことなく引き揚げたのも、青岳尼が抵抗も無く義弘についていったのも縁ある者同士の行動であろう。安房に行って青岳尼が義弘の妻となっている事が如実に物語っている。

なお、青岳尼と共に安房に渡った本尊・聖観音は、その後、東慶寺・蔭涼軒の努力で東慶寺に戻り、現在も安置されている。  また、仏殿は円覚寺に移され国宝・舎利殿として存続している。

平成二十五年癸巳・乙卯・戊午
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歴史の中で滅びた幻の寺

6・鎌倉幕府滅亡の地となった東勝寺

鎌倉幕府が滅んだのは、元弘三年(1333)五月二十三日。  稲村ヶ崎から攻め入った新田義貞の軍は、次第に北条軍を追い詰め、あちこちで火の手が上がっていた。時の執権北条高時は、厳しい表情で葛西ヶ谷の東勝寺から戦況を眺めていたが、勇敢に戦っていた北条一族の武士達が、続々と戻ってくると、「もはやこれまでと」と武士達が嗚咽する中、自刃したと云う。一族の者が館に火を放ち、高時に重なる様にして果てた。死骸が誰のものか判別できないようにし、高時の首を取らせまいとしたと云う。  (太平記) 
最後の執権・北条高時腹切りやぐら(鎌倉・小町)
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こうして頼朝以来の鎌倉幕府は滅亡した。  終焉の地、東勝寺とは、どの様な所であったのだろうか。

宝戒寺の南東、滑川(namerikawa)にかかる東勝寺橋を渡ると、緩やかな斜面に住宅地が広がる。この葛西ヶ谷(kasaigayatu))の一帯に東勝寺があったようだ。  東勝寺橋から坂道をのぼれば高時の腹切りやぐらがある。 高時は、もちろん、このやぐらで腹を切ったのではなく、後世に高時をはじめ、八百七十余名の一門の供養のために造られたと思われます。
宝戒寺方面から東勝寺橋を望む・・・(鎌倉・小町)
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東勝寺は、三代執権・北条泰時が、退耕行勇(taikou・giyouyuu)を開基として創建した北条氏歴代の菩提所である。しかし、寺院とは言え、城郭のような作りをしていたらしい。

近年の発掘で、坂道に鎌倉石を敷き、それに沿って鎌倉石を五段積み上げた石垣が築かれていることがわかった。同様の石垣が名越の山城でも発見されており、東勝寺の石垣も他の寺院では見られない防御のためのものと考えられている。執権として、あるいは権力闘争のために恨みをかうことの多かった北条氏としては、自己防衛のための施設が必要だったのではなかろうか。それが東勝寺と考えられる。

東勝寺が焼失した後、室町期に何度か建物が建てられた様子がうかがえる。  今後の発掘でさらに新しい発見があるかも知れませんが、北条氏一門の凄惨な血を流したこの地も、今は完全に住宅地に変貌しておりそれも難しいかと思われるが、鎌倉幕府滅亡の地を偲びたい。

なお、足利尊氏は、北条氏の屋敷跡に、北条氏を弔う為の寺を建てている。それが今日「萩の寺」として知られる宝戒寺である。

平成二十五年癸巳・乙卯・丙辰

歴史の中で滅びた幻の寺

5・幻の大寺・永福寺(Ⅲ)

次に永福寺の建物はどのようなものだったのだろうか。?  (配置は前回を参照してください)
今は荒れ野の永福寺跡地(鎌倉・二階堂)
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中心的存在は、やはり二階堂と呼ばれた建物で、二重の櫓を持っていた。  南側には阿弥陀堂、北側には薬師堂があり、回廊で結ばれていたようだ。この薬師堂は北条政子の発願で建久四年(1193)十一月に供養が執り行われているが、約一年後には、今度は頼朝が何故か新しい薬師堂を建てている。これが北側のはずれにある薬師堂である。
  *復元図にある薬師堂のさらに北のはずれ、三重塔の近くに新薬師堂が建てられたのである。

その他、多宝塔、三重塔、鐘楼等の位置も、山を削り取った平地から出てきた瓦片などから推定したものだ。  南門、総門は瓦片、砂利、礎石などからほぼ間違いのない場所と考えられている。

僧たちのいた僧坊は、二階堂から西北の方向に西ヶ谷に軒を並べていたと思われる。 現在の西ヶ谷は、住宅が立ち並んでいるが、以前は狭い谷であったらしいが、中央に路と溝が通じていて、左右には畑や林となっている平地があり瓦片、の他陶器のかけら等の日用品が発掘された事から、僧坊の跡と推定された。

永福寺・別当の居住区は、西ヶ谷の最奥の平地辺りと推定されるが、はっきりした場所はわからない。

平泉文化の模倣とはいえ、このように永福寺のスケールは相当なものであったし、極楽浄土を表現した浄土庭園の荘厳なたたずまいは、鎌倉幕府のお膝元寺院にふさわしいものであったろう。

体験談を一つ、昨年の晩秋、紅葉には遅いが鎌倉宮から覚園寺を詣で、手前からハイキング・コースに入り瑞泉寺付近の紅葉谷に下るコースを行ったつもりが、下り道を間違えてしまった。ただ、幸か不幸か下ったところが永福寺の裏手、山の上から見れば何やら出来ているらしい、建物の基壇だ。それが三基ある、まだ工事中で詳しくは解らなかったがおそらくは、中央が二階堂、南に阿弥陀堂、北側に薬師堂の基壇だと考えられます。  

一緒に歩いた仲間とたまには道を間違える事も必要か。(笑い)・・・・・?  詳しくは今後の取材にて。

平成二十五年癸巳・乙卯・甲寅

歴史の中で滅びた幻の寺

4・幻の大寺・永福寺(Ⅱ)

永福寺の寺域は、二階堂の四川石、三堂、西ヶ谷、亀ヶ淵とよばれる一帯に及んでいたと思われる。特色としては南北に長く、東西が狭い谷である。二階堂、三堂などは、永福寺の堂塔による地名だ。
永福寺跡地・調査絵図
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昭和六年、永福寺跡に商業施設を建設しようとした人から、水田の下から古い瓦片、杭などが出てきたとの知らせを受け、地元考古学関係者、赤星博士らの調査が一年数カ月にわたり、連日調査された。その結果ようやく永福寺の概要が始めて明かにされた。

地形が南北に細長い谷である事は前述したが、池は三堂と呼ばれる場所一帯に掘られていた。西側の山裾に建物を配し、その前池、東側の山は低く、そのまま築山としたようだ。 細長い地形の為につきものの築山を造る余裕が無い為だと云うが、中心の建物から見ると本物の山がおあつらえ向きに調和して見えるようになっている。一種の借景だろう。

東側の山裾には小川が流れているので、池との間に堤を築き隠すようになっている。周囲の山には当時は趣のある樹木も茂っていたようで、「吾妻鑑」建久三年(1192)八月条にも、「二階堂の地に始めて池を掘らる。地形もとより水木相応のところなり」と記している。  「海道記」は次のように記している「山に曲木あり庭に怪石あり。地形の勝れたる、仏室と言うべし」・・・・・。

当時の調査によれば、お堂のあった西側の池の岸には、畳一畳ほどの平石が点々と並べられ、その間には同質の小さな平石を配してあったと云う。西側もほぼ同じよう造られており「吾妻鑑」に記されている[汀野の理石]に当たるものと考えられている。 岸には砂利が敷かれていて、これまた「吾妻鑑」の記す[汀野の筋]の通りに当たるものだろう。池底は頁岩塊(ketugankai)でつき固められ、その間には同質の小さな平石を配してあり、砂利を敷き詰めて、池の中心に向かってゆるやかな傾斜を見せていた。 浅い池なのである。

池底に大平石を敷き、その上に奇妙な形の大石を置くもの、同質の大平石を積み重ねて何かの形をあらわしたもの、伊豆石の高さ四尺の大石等が見つかった。  積み重ねた石は、恐らく「吾妻鑑」に記された[鵜曾石]で、畠山重忠が運んだと云う伝説がある。

平成二十五年癸巳・乙卯・壬子

歴史の中で滅びた幻の寺

3・幻の大寺・永福寺(youfukuji)

鎌倉宮から瑞泉寺へ向かう途中の左手、紅葉谷との別れ道辺りに永福寺跡の石塔が建っている。  この幻の寺の発掘調査(整備)も終り跡地の公開が待たれる。
永福寺跡・石塔(鎌倉・二階堂)
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永福寺は、スケールの大きい荘厳な寺院で、頼朝の創建。  鎌倉時代の記録にもしばしばその名が出てくる寺であったが、室町時代以降全く消え失せ、幻の寺となってしまった。

頼朝が永福寺を建立するきっかけは、奥州藤原氏討伐の奥州遠征であった。 栄華を誇る奥州平泉の藤原秀衛(fujiwara・hidehira)のもとに逃げ込んだ源義経は、秀衛が死んだあとはその子泰衡に謀殺され、その首は頼朝の許に届けられていた。頼朝はそれでも飽き足らず泰衡を討つべく自らも出陣したのである。

泰衡は父、秀衛より「義経を大将軍にたてて結束せよ」と遺言されていながら、父ほどの器量が無く、義経の首を差し出したものの結局自ら墓穴を掘ることになった。  頼朝は義経の首もさることながら、奥州で独立国のような勢力を持つ藤原一族を滅ぼさなければ天下統一とは言えず、その総仕上げに大軍を率いて出陣したわけだ。

噂に聞く平泉の藤原文化というものを自分の目で確かめておきたかったのではなかろうか。藤原文化の高さは、頼朝が想像する以上のものであったようです。 中尊寺は、堂宇の数が四十余り、禅房は三百、清衡(kiyohira)、基衛(motohira)の二代、十六年の歳月をかけて造ったと言われている。 現存する金色堂を見ても、堂の内外はもちろん、床の板にまで金箔を施した壮観なものだった。

秀衛の父に当たる基衛の建立した毛越寺(moutuji)になると、堂塔四十余、僧房五百余と伝えられて、中尊寺以上の華麗な世界をつくり上げていたと伝わる。毛越寺の中心的なお堂「円隆寺」は、十円銅貨のデザイン・宇治の平等院・鳳凰堂を模して造られた寝殿造りで、前の池は東西60メートル、南北150メートルという巨大な池には島や、石組まで造られていた。

勝長寿院という父の菩提寺を意気込んで建てたばかりというのに、頼朝がまた永福寺を建立する気になったのは、こうした背景があったのである。  鎌倉に帰った頼朝は、すぐさま永福寺建立を命じたが、それは、この藤原文化の粋と言うべき、寺院を手本とし、その本堂は中尊寺二階大堂(大長寿院)を模し、二階堂としている。
*二階大堂・・・・・鎌倉市・二階堂の町名ははこの大堂が基と考えられている。

戦には勝ったが、東北の金と馬によって築きあげた藤原文化には大きなショックをうけたのであろう。

平成二十五年癸巳・乙卯・庚戌