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鎌倉の女性

木曾義高と大姫

*義高処刑の反応

義高は府中から所沢を走り、入間川を渡って鎌倉街道を逃げたという、行く先は、いまだに祖父義賢(yosikata)の遺徳が残る大蔵の館か、それとも父義仲の幼時に情けをかけてくれた畠山重能(sigeyosi)の館だったか。・・・・・
義高も通ったであろう旧鎌倉街道(鎌倉市・大船離山付近)
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入間川の辺に影隠地蔵という地蔵さんがあり、この地蔵を土地の人は身かくし地蔵とも、かくれ地蔵とも呼んでいるが、義高がここまで逃げ延びて、ついに鎌倉方の追手に発見されたが、急いでこの地蔵の陰に隠れ一旦は難を逃れたという。しかし、やがては追手に囲まれて捕われ、入間川の河原で斬殺されてしまう。

義高処刑の報はいち早く信濃、甲斐に伝わって、その報に不穏分子がすぐに反応した。  先に義仲を失い、今また義高が討たれた木曾党は、この際かなわぬまでも一戦をと仲間を集め、秘かに平家に組する者がそれに便乗して、かなりの兵力になっていた。  かくて鎌倉側も無視してはいられず、足利、小笠原の軍を甲斐国へ、小山、宇都宮、川越、豊島氏には信濃へ進発の命が下された。

平氏一門との最後の決戦を前に、すべての反動分子絶滅しておこうとの用心深い頼朝の方針なのであろう。

しかし頼朝が自分の意思で成功したのはここまでで、義高の処刑を恨む政子や大姫の反発は厳しかったようだ。  大姫は早くも水断ちをして父に抵抗する。  生来虚弱な体質が、義高の死を知って以来とみに衰え、涙をたたえ父を見上げる姿には頼朝も閉口したようだ。

少々外れますが「吾妻鑑」に次のような記述がありますので紹介しておきます。  文治二年(1186)、五月、大姫が南御堂(勝長寿院)に静御前を呼んで芸をさせたとあります。  静御前は頼朝の厳しい詮議の目を逃れられず、母磯禅師と供に鎌倉に来て取り調べを受けていた。  この時、静は義経の子を身ごもっており、再び遭うことのない運命の悲しさに泣いていた。  大姫といい、静といい、共に愛する人を失い、何も言わずとも互いに心の底から慰めあった事だろう。

建久六年(1195)の東大寺供養には、政子を始め我が子、家の子を全員引き連れて鎌倉を発った。  平氏が滅亡して十年、ようやく天下は太平となり、頼朝としてはその武威を朝廷にまで示し、同時に彼が反面憧れる京のみやびを家族に見せたかったのだ。  この時後白河法皇の寵妃であった丹後局(高階栄子)を通じて、大姫を後鳥羽天皇の女御(niyogo)として入内させようと画策している。 時に後鳥羽天皇は十六歳、大姫は十八歳である。  頼朝も今度は急くことなく、それとなく大姫の心変わりを待つつもりになっていたようだ。

ところが鎌倉に帰った大姫は以前に増して衰弱が激しくなり、とても頼朝の希望は叶えられそうになくなっていた。  以後大姫の病状は回復することなく、一年を待たずして、義高の面影を忘れ得ぬまま、二十年の生涯を消えるように終えています。  (終)

平成二十六年甲午・壬申・乙未
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歴史の中の女性

3・白拍子・静御前(Ⅱ)

頼朝は激怒した。

「天下の大罪人を慕うとはなんたることか」

怒る頼朝を諌めたのは政子だった。 いかにも女らしい政子の話も有名である。

「君流人として豆州に坐したまうの比、吾においても芳契ありといへども、北条殿、時宣を怖れて、ひそかに引き籠めらる。しかれどもなほ君に和順して、闇夜に迷ひ、深雨を凌ぎ、君が所に到る。また石橋の戦場に出でたまふ時、ひとり伊豆山に残り留まりて、君の存亡を知らず、日夜魂を消す。その愁を論ずれば、今の静が心のごとし。多年の好をを忘れて恋ひ慕わずんば、貞女の姿にあらず」

*詳しい事は訳せませんが、静の心情を政子が理解し同情を表したと云うことでしょう。

さすがの頼朝も怒りをとき、卯の花重の衣を与えて報いたそうだ。  それから、静は再び舞を披露したと云う。  頼朝の所望は頑なに拒み続けた彼女だったが、この時は喜んで舞ったようだ。 舞を頼んだのは、大姫(頼朝・娘)だったからである。
祀りの準備をする鶴岡八幡宮の巫女
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病弱な大姫は、許嫁の中であった木曽義高を父・頼朝に殺された事もあって、鬱となっていたようだ。  義高は言うまでも無く、木曽義仲の子。人質として鎌倉に送られたが、大姫との婚儀が決まっていた。義仲を討って源氏の嫡流の地位を不動のものとした頼朝は、父の敵として義高に狙われる事を恐れ将来の危惧を断ちきったのであろう。 義高十二歳、大姫六歳の時と言われる。

病気治癒を祈願して大姫は勝長寿院に参籠していたが、八幡宮での静の舞の噂を聞いて、静の舞を見たくなった。と言うよりも、静に逢いたくなったと云うことかもしれない。  静が舞ったのは、大姫が満願を迎える前日であったと言われている。

この二人の女性は、愛する男性を奪われ、源氏の血筋に関わりがある為に、権力者の都合で人生を翻弄されてしまった悲劇の女たちであった。・・・静はその年に義経の子(男児)を出産、たちまちその子を取り上げられ殺されてしまった。これも後難を恐れての冷酷な処置であった。

悲しみを背負った静は、母と共に都に戻っていった。政子と大姫は静を憐れんで多くの重宝を与えたと云う。京に戻った静のその後の生活はまったく不明であるが、静御前の墓と称するものが、淡路島の津名町にある。その他、利根川のほとり、栗橋駅の近くに静御前の墓がある。平泉の義経の元に向かう途中、病で倒れたと云うが、確かなことは解らない。   完

平成二十五年癸巳・乙卯・甲子

歴史の中の女性たち

2・白拍子・静御前

平家を壇ノ浦に沈め鎌倉に凱旋したものの、義経は兄・頼朝の勘気に触れて鎌倉入り出来ないまま京に戻ったころ、義経の心の傷を癒したのが、京に並ぶものが無いといわれた白拍子の「静御前」と言われる。

白拍子とは、白の水干(suikan)に緋の袴をつけ、立烏帽子、白鞘巻の太刀をさすといった男装で舞う遊女のことで、卑しい身分の女と思われていた。  義経はこの静に参ってしまった。美貌と舞上手に加えて、純情でしっかりした性格の静に、他の女性に無いものを見つけたのだろうか。
頼朝・政子の前で「静御前」が舞ったと言われる八幡宮・舞殿(鎌倉・雪の下)
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その時、義経にはすでに正妻の他にも大勢の女性が存在した。十人から二十人ともいわれる。当時京・六条堀川の館に住んでいたが、頼朝の追っ手がここまで手を伸ばし、土佐坊が堀川館を夜討した事件が起きている。

義経記」によれば、この夜討事件は、かねてから土佐坊の動きを警戒していた静の機転よって、無事にきり抜けたようだ。静の冷静な処置で、逆に土佐坊を討つ事が出来たが、もはや京には居られなくなっていた。

都をはなれ、吉野に静と共に向ったが頼朝の追手は厳しく、苦しい長旅は無理だったようで静を都の母・磯禅尼の元に返したが、途中追手に捕えられ母と共に鎌倉へ送られた。

吉野山での別れが、義経との永遠の別れとなった。すでに子を身籠っていたが、義経と過ごした日々は短かったと言われる。鎌倉に来た静は、鶴岡八幡宮で頼朝・政子や重臣らの前で舞を披露する事になる。

舞を見たいと云う頼朝の所望を拒み続けていた静だが、八幡大菩薩の御前に供するといわれ拒めなくなっていた。この時文治二年(1186)ところは八幡宮若宮の回廊。    (この時代には舞殿はまだなかったようだ)

きりりと身にまとった白拍子の衣装で現れた静の美しさに、観衆からため息がもれたという。純白の袖を振り、静は舞、歌い始めた。

「吉野山峯の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ恋しき、しづやしづ賎のをだまきくりかえし、昔を今になすよしもがな」

見物人の中に一瞬驚きの声が上がったが、静の澄んだ美声は、凛々しくあたりを震わせていた。  場所柄、幕府を讃える歌を歌うものと思っていたが、今や大罪人となった愛する義経を恋い慕う歌を頼朝の前で披露したのである。死を覚悟の舞であったろう。

この時の様子を「吾妻鑑」は名文を残している。

「まことにこれ社壇の壮観、梁塵(riyoujin)ほとほと動きつべし。上下皆興感を催す」・・・・・ 鶴岡八幡宮の社殿にて、まことに美しい舞と歌声を聴かせてもらい、上下なく皆感激したようだ。・・・

平成二十五年・癸巳・乙卯・壬戌

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1・大姫悲話

大姫は頼朝と政子の間に生まれた最初の子である。  鎌倉入りした頼朝を追って駆けつけた政子は、大姫を伴い、親子三人の対面をしている。この時の大姫は未だ二、三歳であったが、すでに冷酷な運命が大姫に忍び寄っていた。

頼朝挙兵に応呼するかのように、同じ源氏の木曽義仲は平氏討伐の旗を挙げた。甲斐源氏も動き出していた。常陸国では、頼朝の叔父・義弘(佐竹)が侮りがたい力を蓄えていた。佐竹義弘は頼朝に反抗したが敗れ、義仲のもとに逃げ込んだ。

頼朝・義仲の対立はこれで決定的になり、あわや武力衝突も起きかねない状況だった。だが、義仲の嫡子・僅か十一歳の義高を頼朝の娘大姫の許婚として鎌倉に送ることで、和解した。実質は人質だ。
木曽冠者・義高石塔(鎌倉大船・常楽寺裏手)
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十一歳の許婚を迎えた大姫は、五・六歳であったと思われる。親たちの政争の道具として使われているのも知らず、二人は兄・妹のように仲良くなった。ことに大姫は、身近に遊び相手が出来たのだから大喜びだった。

しかし、翌年には、京にいた義仲を範頼、義経らの軍を派遣して攻撃し、北陸方面に逃走したが結局、寿永三年(1184)近江粟津で討たれた。義仲三十一歳であった。後難を恐れた頼朝は義仲に続いて、娘の婚約者・幼い義高まで殺してしまった。 いくら幼少とはいえ、父の敵として打たれるかもしれないと云う不安から、義高を生かしておくわけにはいかなかったのであろう。

それを知った大姫の悲しみは大きかった。自分の兄を父に殺されたような仕打ちだったに違いない。熱を出したり、うわごとを言ったり、日増しに衰弱していった。頼朝は義高を殺害した者を処罰したりするが、その様なことでは収まらず、病弱となった大姫の体は生涯治らなかったようだ。

頼朝、政子は、相模・伊勢原にある日向薬師(hinatayakusi)に何度も詣で、病気治癒を祈願している。日向薬師とは、日本三大薬師の一つと言われ、今日でも信仰に熱い。・・・(鉈彫りの薬師如来)。

年頃になった大姫に婿を、と勧めるが頑なに拒んでいる、この頃には、一種の欝(utu)になっていたようだ。困惑と焦りから、後鳥羽上皇の后なら承知するだろうと、京に上り画策するが、大姫の死で徒労に終わる。

大姫が死んだのは、建久八年(1197)で、二十歳の若さであった。  心の傷は癒えることがないままの短い生涯であった。  「承久記}によれば、不憫な娘の死を悲しんだ政子は、死を決意した程だと云う。  恐らく大姫は勝長寿院に葬られたのであろうが、今は墓標を捜すすべがない。彼女もまた幕府成立の一人の犠牲者と言えるだろう。因みに扇ヶ谷から亀ヶ谷に抜ける辺りに岩船地蔵が祀られていますが、源・大姫の守り本尊だと言われている。

平成二十五年癸巳・乙卯・庚申