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武家と町屋

鎌倉時代の鎌倉

6・鎌倉人の食生活?

鎌倉時代の人々はどんなものを食していたのであろうか。ある大学の先生が「吾妻鑑」やその他の文献を参考に、鎌倉時代の献立を作成、当時の材料を使って料理し、これを食した事があるそうだ。

その献立とは、玄米のアワ粥、クラゲ、ミョウガの酢漬け、きゅうり酒粕もみ、アユの塩焼き、ゆで茄子などの十四品。デザートは干柿、酒はかわらけで濁り酒を飲んでいたようだ。

鎌倉時代の庶民の食卓がこんなに多彩な献立で飾られていたとは到底思われない。先生達の食した献立はあくまで賞味の為にそろえられたものであろう。

主食ひとつを見ても、武家等の支配階級の場合は、現代の普通のご飯に近い固粥(katagayu)が一般化して来たようだが、まだ主流は薄粥(usugayu)で、これには雑穀や野菜を入れたりしており、米が主食とは言い難い。

恐らく、庶民の主食などは、焼畑などの僅かな耕地で作る麦、アワ、ヒエ、そば、芋位の物だったと思われる。日蓮上人の「立正安国論」にも、荘園領主から搾取されている農民は、天災飢饉に苦しんでいる、と記されている。

支配階級の武士、僧侶と庶民との決定的な違いは、庶民が米を食べていなかった点であろう。鎌倉はコメの産地では無かったとしても、支配階層の人達は東京湾をへだてた下総、上総あたりから舟で米を運ぶことは、難しいことでは無かった。  資料によれば、餅、草もち、栃餅、赤飯、焼き米、ちまきなど、米を加工するようになってくる。

鎌倉時代の食料品の特徴の一つは、加工品が盛んになったことであり、これは重要な意味を持っている。素材をそのまま食べず、加工すると云う事は、あきらかに、空腹を満たす為の食物では無く、味覚を楽しむ食なのだ。しかも、その求める素材は、庶民が日常主食としている雑穀にまで及び始めた。

雑穀から加工した饅頭、ソーメン、アメ、納豆等も、支配階級の人達が贈答用に使っていたふしがある。主食の素材を奪われた庶民の食糧はますます不足する事とになる。  そのせいかどうか、庶民たちは、今日ではとても食べられないキサゴ(カタツムリの一種)等も食べていたようだ。

しかし、海辺に住み、貝類が食べられればまだいいが、多くの海辺で貝類の採取が禁止されてしまった。鎌倉時代は、食物の格差が開き始めた時代ともいえそうだ。
(終り)

平成二十五年癸巳・丙辰・壬辰

都合により、今月の更新(2回)お休みします。
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鎌倉時代の鎌倉

5・扇ヶ谷は工芸村?

扇ヶ谷の寿福寺の門前は、鎌倉仏所などとよばれ、造仏や仏具の制作や修理などをする仏師たちが住んでいたところである。  後藤家、三橋家、伊沢家、狩野家などがそうである。鎌倉彫りが鎌倉仏師によってつくられていたことはよく知られているが、運慶の子孫という後藤家は現在鶴岡八幡宮の門前に、三橋家は由比ヶ浜通りにそれぞれ鎌倉彫の店を開いているが、伊沢、加納家は仏師とは関係が無くなっている。
鎌倉駅近くにある正宗工芸(鎌倉・扇ヶ谷)
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寿福寺門前の鎌倉仏所には、刀工として名高い正宗の屋敷もあった。  ここは今言う芸術家村のような場所だったと言われている。

相州物といわれる刀剣を一派の代表的な人物が五郎正宗である。銘のある作品が少なく、偽物も多く、しかも伝説めいた話が多い人で、実在の人物ではないと云う説もある程である。

正宗が刀鍛冶の代表のように言われるのは、第一に相州伝の創始者であること。 相州伝が最ももてはやされたのは、鎌倉末期から南北朝時代であるが、そうしたころの激しい戦闘を思わせるような豪壮な造りで、皆焼刃であることが特色だ。  もう一つは、正宗十哲などといわれる多くの名工を世に送り出した点である。

そもそも相州伝は、北条時頼が鎌倉に呼び寄せた当時の名工が草分けだとされている。 山城国の粟田口国綱(awataguti・kunituna)、備前の国宗、助真等である。しかし、相州伝を完成に近付けたのは、国綱の子・国光であり、その弟子・行光である。そして見事に開花させたのが、行光の子といわれる正宗だ。

寿福寺墓地下から鎌倉駅方面への近道となっている住宅地の中に、正宗を祀ったと云う刃(yaiba)稲荷がある。この辺りが屋敷跡と考えられている。 さてその正宗から九代目・宗右衛門綱広が流れを継いでいた。鎌倉は小田原北条氏の時代、鍛冶師も小田原北条氏のお抱え鍛冶師となって小田原に移っていたが、秀吉に征服され、刀工達も離散を余儀なくされた。

三代目宗右衛門綱広は徳川家康によって召しだされ、正宗ゆかりの扇ヶ谷に屋敷を得た。正宗末孫の誇りを取り戻し、幕末まで御用鍛冶を務めたようだ。

平成二十五年癸巳・丙辰・庚寅

鎌倉時代の鎌倉

4・鎌倉七座

この時代鎌倉には鎌倉七座というものがあったらしい。座とは、ものを置くところ、つまり物を売る店の事なのだが、中世では商工業者の一種の独占組合を意味していた。
下馬四つ角交差点(長谷方面を望む)
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鎌倉七座とは、絹座、炭座、米座、檜物座、千朶積座(sendazumiza)、相物座、馬商座の七つである。さらに、室町期には、材木座、銅座、油座、塩座等の座もあった様だ。

このうち材木座は、現在も地名として残るが他は残らない。なお、檜物座とは檜の薄板を巻いて造った雑器を売っていたところ。千朶積座は薪類などを売る雑貨屋であろうか。相物座は、干魚と鮮魚の中間の生乾しの魚を扱っていた店の事でしょう。

商業地域についての街の様子は詳しくは判っていないが、幕府が度々それぞれの奉行人に指示している内容から判断すると、相当に込み入ってゴミゴミした町を形成していたものと思われる。なにしろ鎌倉は狭い場所だ。人口がどの位いたのかはっきりしたことは判らないが、過密都市であった事は想像できる。

幕府が禁じた項目を拾ってみると、丁々辻々で売買したり、路上芸、相撲などをして道路の通行を妨げてはならないと言っている。車や物を置いたり、牛をつないで道路を狭くしてはいけない。勝手に路を造ってはいけない。家のひさしや荷物を路上に出してみたり、店を張り出してはならない。溝の上に小屋掛けをしてはいけな等々。・・・

建長四年(1252)に幕府は酒の販売を制限し、各民家一軒に一個の酒壺しか持たせなかった。当時鎌倉中の民家の酒壺は合計三万七千個ほどとの記録があり、一件に一個分を残しあとは割ってしまったようだ。酒による弊害を考えてのことだが、特に町屋の密集地帯で喧嘩などが多発したようだ。

こうしてみると、鎌倉時代の町屋も現在の大都会の夜の街も根本的には同じ町だったと思う。狭い場所に雑多な人間が集まり、欲望や夢を追い求め、懸命に生きていた点に於いては少しも変わらない。・・・・・(終り)

平成二十五年癸巳・丙辰・戊子

鎌倉時代の鎌倉

3・実朝・商業地域を限定する

幕府三代将軍・実朝の時に、町人以下鎌倉中の諸商人の員数を定むべきとの下知をだし、その後も、鎌倉に居て何もせずぶらぶらしているような人間は田舎に追いやり農耕に勤めるよう奉行人に指示している。
下馬・下馬四つ角付近(鎌倉・御成町)
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定められた場所以外での商売を禁じたのも重要な施策であった。  「吾妻鑑」建長三年(1251)十二月三日条によると、「鎌倉中の在々處々の小町屋(komatiya)および賣買の設けの事、制禁の加ふべきの由、日来その沙汰あり。今日かの所々に置かる。このほかは一向に停止せらるべきの旨、厳密にこれを觸れ仰せらるるところなり。(略)

鎌倉中小町屋の事定め置かるる處々。

大町 小町 米町 亀谷の辻 和賀江 大倉の辻 気和飛 坂山上

牛を小路に繋ぐべからざる事

小路掃除を致すべき事           建長三年十二月三日」

と、定められた地以外は商売地域と認めないと言っている。 米町、現在この地名は見当たらない、具体的な場所も判っていない。亀ヶ谷(kamegayatu)とは扇ヶ谷・和賀江(wagae)とは材木座・大倉の辻とは最初に幕府が置かれた場所、大蔵の地である。また気和飛とは化粧坂の事であろう。 坂山上とは、気和飛坂山上と続けて読み、化粧坂の上と解した。いずれにしても、町屋と呼ばれるこうした商業地域が指定されていたわけだが、大町、小町、米町、和賀江といった場所が中心的存在だったと考えられている。

そこでは、どの様な商いが行われていたのだろうか。衣食住関係はもちろんだが、武具、武器、馬具等を造る職人もいただろう、土器、鍋、包丁、傘、草履といった日用品、祭祀具関係、あるいはこれらを商う労働に従事する者もいたであろう。

ことに、日常の必需品である炭、薪、萱木、藁、糠といったものは、価格が不当に上がるのを防ぐため幕府が公定価格を示したほどだから、こうした商品を売る店は客が絶えなかった様だ。   (続)

平成二十五年癸巳・丙辰・丙戌

鎌倉時代の鎌倉

2・鎌倉時代の繁華街は小町大路

町屋の様子をイメージする具体的なものは、一遍上人を描いた「一遍聖絵」に描かれている建物。ここには一遍上人一行が鎌倉に入った様子が描かれているが、町屋らしき建物も見える。  これが半地下の竪穴をスペース分だけ堀り、周囲に板材を立てる。そして土を穴に戻すと壁となった板材はしっかり固定できる。内部の土の上に角材などを置けば板床になる。

*具体的な史料をリポートする事が出来ません。あしからず・・・

要するに、寸法にあったしっかりした材料など無くても簡単にできる、造り直しのできる小屋のようなものと思われる、耐用年数は少ないが、壊れればすぐに建てなおせばよかったのである。
現在の小町通り(鎌倉駅付近)
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鎌倉で今、もっとも賑やかな通りといえば小町通りであろう。鎌倉駅前の広場から八幡宮前の通りまでの僅かな距離ではあるが、いつの間にか観光客相手の店舗が立ち並んでしまった。

では、鎌倉時代はどうだったのでしょうか、恐らく小町大路か、大町大路ではないだろうか。なかでも、大町大路が若宮大路と交差する下馬付近、大町小路と交差する大町四つ角付近は当時の最大の繁華街と言われている。

小町大路は、若宮大路をはさんで現在の小町通りと反対側に平行に通る住宅地の中の道だ。鎌倉時代はここ八幡宮寄りは武家の町南寄りは商人の町をつなぐ道として、人どうりも多かったと云う。日蓮上人が辻説法をしたと云う碑もこの通りにあることも、その賑いぶりを覗わせる。

大町大路とは、甘縄あたりから現在の由比ヶ浜大通りをへて若宮大路を横切り、名越から長勝寺付近までの道筋を言ったものと思われる。ここは箱根(足柄)を越えて相模に入り、藤沢・片瀬・腰越を通って極楽寺坂から鎌倉に入り、横須賀の走水まで続いている古東海道の道筋である。

若宮大路と交わる下馬、小町大路と交わる大町四つ角付近が賑やかだったわけは、当時の主要道路が交わっていたこともあるが、大町・材木座などの商業地域を控えていたからだ。  鎌倉幕府は、各地から大勢の人が移り住むようになるにつれ、ある種の規制が必要になり、これを実践した。・・・・(続)

平成二十五年癸巳・丙辰・甲申