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鶴岡八幡宮

甲午年・初詣り

*鎌倉・鶴岡八幡宮に初詣り

ここ数年、初詣りはウオーキングを兼ねて約一時間、車の走らない鎌倉街道を歩いて行くことが恒例となっています。昨年は三日に鶴岡八幡宮・荏柄天神に参ってきました。・・・孫の合格祈願で荏柄天神を追加。

甲午年の今年は元旦から出かけてみました。  大船までは普通に渋滞していた道路も鎌倉の入口、小袋谷交差点でストップです、鎌倉署の警察官による迂回措置が取られていました。要領のよい人たちは車の走らない鎌倉街道をのんびりサイクリングを楽しんでいる様でした?普段では見ることのできない光景です。・・・北鎌倉駅を過ぎると間もなく円覚寺の山門が見えてきます今日は簡単に挨拶して素通りです、東慶寺・浄智寺・建長寺・円応寺さんも同じくです。例年舞殿前のロープ規制で、数回待ちでしたが、元旦のせいか約一時間位並んでようやく参拝することが出来ました。

新年早々のんびりした話題で申し訳ありません。改めまして、新年おめでとうございます。・・・・・穏やかな新年です、皆様におかれましてもこの様に穏やかな年でありますようにお祈りいたします。      mituuroko

平成二十六年甲午・丙寅・癸酉
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流鏑馬神事

1・八幡宮は武芸鍛錬の場?

凛々しい鎌倉武者をほうふつさせる行事に鶴岡八幡宮の流鏑馬神事(yabusamesinji)がある。

源平池の太鼓橋を渡って参道をしばらく行くと、東西に交わる一直線の道がある。この道が流鏑馬道と呼ばれる馬場で、鎌倉時代に全国に通じていた旧鎌倉街道の起点といわれる。  文治三年(1187)、頼朝がこの馬場で流鏑馬を行って以来、途中衰微した時代はあったものの今日まで続いている神事である。
鶴岡八幡宮・流鏑馬神事
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流鏑馬とは、華麗な狩装束の武士が疾走する馬上から、鏑矢(kauraya)で次々に的を射ていく神事。起源ははっきりしないが、十世紀ごろに始まったと言われる。一説によれば、大和朝廷の欽明天皇の時代にさか上ると云う。百済、任那(mimana)の救援の為、九州から出兵したとき、戦況がよくないので欽明天皇が豊前宇佐の地で、神功皇后(sinkou・kougou)、応神天皇を祀り、その神前で天下平定、五穀成就を祈願し、馬上で三韓になぞらえて三つの的を射た「矢馳馬」(yabaseme)が起源という。

頼朝が、何故八幡宮で流鏑馬をするようになったかは良くわかりませんが、推測するに頼朝は京に詳しい大江広元や大庭景親から進言され、弓に長けた武将の経験を聞いたのかもしれない。  いずれにしても、頼朝の目的は、平氏が武士でありながら詩歌、管弦、といった女性的で、軟弱な遊戯にふけって滅びた二の舞を踏まないよう、鎌倉武士に武芸の奨励をしたのである。

文治三年(1187)八月十五日、流鏑馬馬場には、頼朝以下大勢の武将たちが集まった。弓の師範級である下河辺行平(simokoube・yukihira)、三浦義村ら名人たちの模範演技が披露され、奉納が行われた。

同じ日の記述に、囚われの身であった諏訪盛澄(suwa・morizumi)の流鏑馬も行われた。弓の達人ということで付け加えられたが、彼には特に荒馬を与えられた。盛澄は見事に的を射抜き、さらに小さな土器の的を的中させ居並ぶ武士達を驚かせ、盛澄の腕前をほめたたえた。(吾妻鑑)

これが縁で、罪を許され、晴れて彼は頼朝の御家人になったと云う。

当時は、弓に長ずることが、武士道の規範とされ、重用されたのである。先祖伝来の所領に執着していた武道として「弓矢の習い」は必須であったのかもしれません。

平成二十五年癸巳・戊午・癸未

幕府が置かれていた頃の鎌倉

2・頼朝時代の八幡宮(Ⅱ)

せっかく建立した若宮は、十年後の建久二年(1191)三月、小町大路付近で発生した火災が延焼し、ことごとく灰燼に帰してしまった。礎石だけが残る焼け跡を前に頼朝は涙を流したと云う。

しかし、彼はすぐに再建を命じている、今度は、若宮の裏山に以前からあった稲荷神社をやや西の丸山に移し、山を削り、そのあとに本宮を構えた。現在の上宮のある場所で、石段や下宮もこの時に造られたようだ。本宮を更に山側に移したのは類焼の危険を回避したのであろう。  完成は同じ年の十一月のことで、遷宮の儀式も無事行われた。その二年後に下拝殿(舞殿)も完成している。
昨年解体修理が行われ新しく再建した下拝殿(舞殿)
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そのあと薬師堂が現在の白旗神社の場所に、五重塔が今の若宮の手前に建つなど、堂宇が整ってくる。江戸時代の絵図などを見ると、神仏混淆をうかがわせる多くの建物が目につく。例えば流鏑馬道を横切って進むと舞殿のある場所が一段高くなっている。その石段の所に仁王門があり、その東に大塔(当初は五重塔)、その東に鐘楼が、梵鐘は徳川家光の寄進による名鐘だったが明治・廃仏毀釈で鋳つぶされている。

*仁王門に鎮座した仁王様は現在扇ヶ谷・寿福寺に安置されている。

頼朝が父・義朝の霊を祀って建てた白旗宮(白旗神社)は、当初石段の上、上宮の西にあった。後に実朝も祭神として、ここに祀られるが、気の毒にも頼家は全く無視されている。  白旗神社が現在の場所に移されたのは、明治二十年になってからである。  上宮の造営で移された古社、丸山稲荷は、当初と殆ど場所が変わっていないようだ。

次に現在の社殿について少しリポートしておきます。   
上宮。本宮ともいう。徳川家斉が文政十一年(1828)に再建した。朱塗りの権現造り。下宮(若宮)も朱塗りの権現造りで寛永三年(1626)の造替え、舞殿は新しく、関東大震災以後のもの。(最近・解体修理が行われた)  少し変わっている社殿は白旗神社。油分を含まずに作った漆を塗り、表面を磨くと云う蝋色(roiro)塗りを施した御霊屋(mitamaya)造りの社殿だ。明治三十年の改築。最も古いのは、文政四年の火災を免れた丸山稲荷の社殿で、室町中期の建物とされる。

平成二十五年癸巳・戊午・辛巳

幕府が置かれていた頃の鎌倉

1・頼朝時代の八幡宮(Ⅰ)

鎌倉といえば八幡様、今日でも参拝客が絶えない。明るく整然とした神域は、頼朝在世のころと違っていない。  建物自体は、徳川家斉(ienari)等が再建した本宮など、江戸時代のものだが、その配置や池、参道などは、鎌倉時代と変わらない。ただし、当時は神仏混淆の時代で、鶴岡山八幡宮寺と呼んでいたが、明治期の神仏分離令で、仏教関係の薬師堂、鐘楼、仁王門、護摩堂等の宝物と一緒に除かれた。
鶴岡八幡宮・若宮(本殿階段下)(徳川秀忠によって修復造営されたもの)
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現在とほぼ同じといわれる頼朝造営時の神域は東西三町、南北二町といわれる。そして南側と東西の三方に堀があったらしく、その内側が境内と言われた。

「吾妻鏡」の記録から、現在の石段下に最初の社(若宮)があったころのことである。頼朝は参拝を済ませたあと、境内に雑草が茂っているのを見つけ、掃除を指示している。 八幡宮に対し、頼朝が細かな所まで気を使っている様が判るし、恐縮した供僧たちたちが草をむしっている逸話である。

*伝えたいことは、頼朝が由比にあった若宮を、最初に石段下に移したと云うことです。

八幡宮の参詣は、三の鳥居をくぐり、源平池を渡らなければならない。  現在は左右に赤い橋が、中央に石の太鼓橋が架かっている。当初は中央の橋だけだったようで「赤橋」と呼ばれていた。

社殿に向かって右側の池が源氏池、左が平家池と呼ばれている。  源氏池には源氏の白旗になぞらえて白い蓮を、平家池には平氏の赤旗に因んで赤い蓮を植え、しかも源氏池には三(産)っの島、平家には四(死)っの島を配し、源氏の繁栄と平氏の滅亡を祈願したと云う。

太鼓橋からつづく参道をしばらく歩き、流鏑馬道を横切ると舞殿に出る。  鎌倉入りした頼朝が由比の郷から移した若宮はこの舞殿のあたりに(石段下)建てられた。そして、翌年、浅草の大工を招き、本格的な社に建て替えられたのである。材木などは由比浦に着く云々・・・・。の記述が「吾妻鑑」に見られるので鎌倉以外から調達したものと思われる。

この時に出来た社を鶴岡若宮といい、現在の場所付近と思われる、他に若宮をとりまく回廊があった。有名な静御前が舞ったのはこの回廊である。現在舞などが舞われる舞殿は当時はまだなかったのである。

平成二十五年癸巳・戊午・己卯

若宮大路と段葛

2・段葛は海上脱出の緊急ルート>?


現在、段葛は、二の鳥居と三の鳥居の間だけしか見る事は出来ないが、以前はどこまで延びていたのだろうか・・・・。古い地図などを見ても色々あって判断しにくい。伝承では由比ヶ浜まで続いていたと言われている。
海岸通り付近より一の鳥居~八幡宮本殿を望む(鎌倉・由比ヶ浜)
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江戸時代の絵図では、海岸まで段葛が描かれているものもある(水戸光圀銘の絵図)。東海道名所図絵では、社頭からやはり大鳥居(一の鳥居)までだ。 確たる証拠はないが、かなり水際に近い所まで造られていたと考えられている。

当時の海岸線はかなり入り組んでいたようだし、滑川の河口には砂州が出来たりして、海岸付近は、高波や滑川の氾濫でたびたび水害が起こる場所だった。だからこそ葛石を積み上げた参道が必要だったのではあるまいか。

海岸付近に限らず、湿潤地対策として段葛が造られた事は確かなようだ。考えられることは、大路付近はじめじめした土地で、雨が降れば水が出るような所で、通行の便を考えての築造であると思われる。軍事的な面からみても重要な存在だと思われる。

段葛は、そこに立てば、山腹の鶴岡八幡宮が望めるように一直線に出来ているが、海上からも遥拝出来るような配慮もあったのではないか。風任せの不安な航海をする船が航海の安全を願ってから船出したのではあるまいか・・・・・。

段葛が港湾施設の一部であったとも考えられる、由比ヶ浜に多くの船が浮かぶ様子は「吾妻鑑」にもよく記述されている。頼朝が、三浦義村の領地、三浦半島の三崎などに遊びに出かけているが、この時鎌倉から船ででかけている。船中で宴を開いた記録などもあるので、おそらく小さな船ではない筈であるが、由比ヶ浜に港についての記録が殆どないのである。  後年、執権・北条泰時の時代になって和賀江嶋(材木座)が造られましたが、それまではどこから船が出ていたのだろうか・・・。想像力をたくましく推定すれば前述したような説も考えられると思いますがどうでしょうか。

もう少し大胆な推測をすれば、段葛は頼朝の緊急脱出ルートでは無かったと考えています。石橋山から海路脱出した体験から、いざという時に直線的に船着き場まで行けるルートとして、用心深い頼朝が考えたのではないか。若宮大路の近くに重臣たちの屋敷を構えさせているのも、軍事面からも重用視していたのでしょう。

平成二十五年癸巳・戉午・丁丑