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武家文化

中世都市・鎌倉

*都市鎌倉の形成と御家人たち

中世の鎌倉については、案外良くわかっていない、例えばば御家人たちはどこに屋敷を構えていたのか、どのような住居に住んだのか具体的には解っていません。

そこで比較的史料が多く残されている、将軍の邸宅である御所と鎌倉・北条氏の邸宅を中心に、それぞれの位置の特定や位置関係を検討し政治との関係を考えながら北条氏が鎌倉の郊外へと展開してゆく様子をリポートする予定です。    さらに、鎌倉の御家人たちがどの様な形態で居住していたのかをも探りたいと考えています。

*将軍御所と北条氏の邸宅

将軍の住んだ御所についてはこれまでの研究で具体的に特定出来ている、源頼朝が鎌倉に入って最初に御所を構えたのは、大倉と呼ばれる地域です。  大倉御所と呼ぶ。
大蔵幕府跡・石塔(現・清泉小学校敷地内)
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その後、源氏将軍が途絶え、京都から新たに将軍を迎えると、北条泰時の時期の嘉禄元年(1225)には宇津宮辻子へと移転します。   宇津宮辻子御所と呼ぶ。・・・この御所は、若宮大路の東側で、若宮大路には面していない地域、現在の若宮大路東側にある宇都宮稲荷の周辺と推定されている。

さらに泰時は、嘉禎二年(1236)になると、若宮大路の東側の別区画へと御所を移転させます。  若宮大路御所と呼ぶ。・・・この御所は若宮大路に面しており、鎌倉幕府滅亡までこの位置にあったと考えられています。     (続)

平成二十六年甲午・己巳・乙巳
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武家文化の影響

1・鎌倉武家文化・その後への影響

鎌倉の武家政権がその後の日本の政治に多くの影響を与えた事が考えられ、鎌倉で政治的な訓練を積んだ武士達の多くは、鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏に従って京都に進出し、室町幕府の武家政権を樹立しました。
足利尊氏の遺髪を祀る五輪塔・・・尊氏開基の北鎌倉・長寿寺
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その室町幕府が衰退すると、各地に成長した戦国大名たちは、鎌倉幕府に倣って大名権力を築くようになり、さらに戦国大名の分権的権力を統一して生れた江戸幕府も、鎌倉幕府に倣ってその政治を展開しました。  徳川家康は、「吾妻鑑」を愛読し、出版させています。  鎌倉の武家政権はそのあとに続く700年にに及ぶ武家政権の基礎を築いたと言えるでしょう。

武家政権を担った武士達は、政治的な訓練を積んで官僚となって政治を動かしてゆくようになり、合戦の作法や主従関係に基ずく倫理や、禅による精神修養などによって独自の生き方や作法を身につけました。それは戦国時代の戦乱の時代を経て、「武士道」と称されるまで高められ、日本の近代化を進める上での人的資源となり、さらにその「侍」の精神が積極的に西洋の近代の文物を取り入れていったのです。

鎌倉で成長した武家文化については、幕府の滅亡前から京都や各地に大きな影響を与えてゆきました。禅宗寺院における五山文化は、京都五山の成立やその文化を生み出し、五山の宗教と文芸に於いて多方面に展開してゆき、その庭園や建築にも大きな影響を与えました。  庭園では、瑞泉寺の庭園に見られる禅の境地を表現するまでになり、建築では円覚寺の舎利殿に認められる禅宗様(zensiyuyou)という建築形式が広まった。

最後に、鎌倉の武家文化の中の庶民の暮らしはどの様に影響していったのか、前近代の人々の暮らしは単調なものであるが、しかし遊びや賭け事、まじないといった遊興、信仰に関する文化の痕跡は比較的残され、発掘された遺物から現代に通ずるものがある。手足が動く操り人形、竹トンボ、サイコロ、双六、将棋の駒などが見える。こうした素朴な遊び道具は現代にも残され興味深い。

平成二十五年癸巳・庚申・戊辰