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室町幕府

将軍権力Ⅱ

*足利尊氏・直義兄弟その後

中世都市・鎌倉のリポートは、鎌倉幕府の滅亡をもって一旦終了します。・・・・・ 政治の中心が京都に遷ったわけですから、鎌倉の状況も都・京都から見た鎌倉に成らざるを得ませんが、当mituuroko・リポートはできる限り鎌倉主体のリポートを心がけて行くつもりです。・・・応援よろしくお願いします。

新しい武士の政権を作り上げた足利尊氏と直義は互いに補い合って、幕府政治を推進していきました。しかし、同じ権力機構の中に権限が二分された状態を維持することは、非常に困難をきたしたと思われます。  軍事を優先するか、政務を優先するかの問題に直面して、意見の衝突は避けられないでしょう。


周囲の勢力も次第に色分けされ始めます。大まかに、新興の武士層・武断的な武士たちは尊氏を、由緒を有する保守的な武士・文治を重んじる武士たちは直義を支持したといわれます。

尊氏と直義の対立は、遂に1350年(観応元年)、全国的な争乱に発展してゆきました。  これが「観応の擾乱」(kannou・jiyouran)です。  戦いの中で一旦は直義が優位に立ち、尊氏の腹心の、高師直(kou・moronao)の一族を滅ぼしました。  ところが程なく形勢は逆転し、直義は京都をくだり、鎌倉に落ち延びました、おそらくは鎌倉で理想の政権を打ち立てるつもりで、・・・しかし、師直の死から一年後に直義がこの世を去ったとの記録が残される。  どのような状況で死亡したのかは全く分からない。

おそらくは、尊氏によって殺害されたのは間違いでしょう。多くの研究者も同じ解釈だ。・・・・この後も争乱は続き、この争いの中で主従的支配権と統治的支配権は、室町将軍一人に集約されるようになってゆきます。それに伴い、中央政権の支配圏は、徐々に狭められてゆきました。

足利尊氏・直義の兄弟についてリポートを追加しました。日本の中心が京都に遷ってこれからの鎌倉がどの様に発展して行くのか新たにリポートしてゆきます、どのような方向に進展するかは現時点では解りませんが、まずは江戸時代までのリポートを続けます。  次回更新は12月7日(土)の予定。


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室町期の将軍権力

*二つの要素を持つ将軍権力

初期の室町幕府における足利尊氏と直義(tadayosi)兄弟の関係は、「両大将」とか、「尊氏が将軍」・「直義が副将軍」等と呼ばれ、将軍権力を分掌していました。いわゆる二頭政治が展開されていました。

二人の権限を分析してみると、尊氏は軍事活動のリーダーでした。京都では侍所(samuraidokoro)(武士を統括する役所)、地方では各国の守護を通じて武士を従属させ、全国の武士の主人、武家の棟梁として君臨しました。ここで全国の武士、といったときに、かつての御家人だけではなく、新興の非御家人勢力をも取り込んだ点は新しい。

武士たちに合戦への参加を命じ、命がけの働きに対する恩賞として土地を与える。源頼朝以来の「本領安堵」と「新恩給与」(honriyou・ando)と(sinon・kiyuyo)の権限を行使したのです。

一方で、直義は行政のリーダーでした。 鎌倉幕府以来の政治的機構である評定衆や引付衆(hikitukesiyu)をまとめ上げ、政治や裁判を施行していました。税収の確保も彼の仕事でした。 以前にもリポートしましたが、彼の主張は、武士は鎌倉に戻り武家政権を再生することにありましたので、朝廷勢力とは迂闊にかかわるべきではない、という考え方が直義の主張でした。

しかし、現実はその様にはいきませんでした、その朝廷や荘園本所との交渉も、直義の職務に分類され、兄の付託に従い、誠実に天皇・貴族との折衝に当たり、その姿勢は伝統勢力からも好感をもって迎えられていました。

以上、二人の権限分割を簡単に観てきましたが、将軍権力は二つの要素から成り立っています。一つは、「主従制的支配権」です。全国の武士と主従の関係を結ぶ。土地を「御恩」として与え、戦場での働きに代表される「奉公」を求める。 奉公は、非常時には戦闘への参加という形をとるが、普段は将軍・天皇の警護や、現在の警察機能を行うなど治安の維持を担う。

もう一つは、「統治権的支配権」です。時局に対応する法を作成し、人々に示す。  税を徴収し、適正な運用を試みる。  御家人・貴族・寺社勢力などの利害調整を図り、公平な裁判を行う。  全国の武士のみならず、民衆までを視野に入れ、その生活を守る。

以上、日本の将軍権力は主従制的支配権と統治権的支配権から構成されるもので、鎌倉から江戸に至る700年の長きにわたり、日本の武士の世を支えることになります。  (続)

*次回の更新、都合により12月7日の予定です

平成二十五年癸巳・甲子・庚子

南北朝の時代

鎌倉か京都か?・・・・・

後醍醐天皇の派遣した討伐軍を箱根で破った、足利尊氏は新しい武士の基盤をどこに置くべきか検討しています。尊氏の同母弟で、足利軍の副将の地位のある直義(tadayosi)は、有能な軍政官として知られており、鎌倉幕府の再興を念願していた。この時も京都進出に反対だったと思われます。

自分たち、武士の基盤は東国であって、西の朝廷とは一線を画するべきだ。前代の鎌倉と京都の関係を復元しようと主張した。ところが、事態はその様に進展しなかった。

足利勢は全軍を挙げて、京を目指したのです。副将である直義の意見は採用されなかったのです。京都への進軍を主張したのは他ならぬ大将尊氏自身であったと考えられています。 では何故彼は、頼朝とは反対に京への道を選択したのでしょうか?。残された資料からは不明ですが、尊氏の狙いは京都の経済力だったと考えています。

鎌倉後期のある皇室領の収支決算資料によれば、四十余ヵ国の所領が上納する年貢高は、合計で五〇〇〇貫に達している。一貫が10万円として五億円程と言われる。当時皇室が二つに分かれていましたが、このうちの大覚寺統(後醍醐天皇の系統で南朝になる)の主要財源である八条院領が二二〇ヵ所、持明院統領(北朝・現在の皇統)の長講堂領は百八十ヵ所と称されますので、この皇室領を基準にすると、天皇家の豊かさを窺い知ることができます。 さらに貴族や大社寺など多くの荘園領主が居住する京都には、膨大な額の銭、または物品が集積されていたと思われます。

京都への進軍を決定した足利軍は、一旦は朝廷軍に敗れ九州に落ち延びますが、直ちに軍勢を建て直し、勢いを回復して再入京。  1336年(建武三年)尊氏の奉じる持明院統の光明天皇が即位(北朝の成立)し、新しい幕府が機能し始めます。 比叡山に立て籠もる後醍醐天皇が一旦は降伏するが、再度、吉野に居を定めて正当な天皇であることを宣言、北朝と幕府の打倒を全国に呼びかけました。以後60年にわたって天皇家が分裂する。いわゆる南北朝の時代が幕を開けます。

*南北朝の争乱

争乱といっても、両者がまともに戦ったのは数年のことで、組織的な戦闘は終わり、小規模な局地戦が継続していくのです。

この時期には天皇の人格を貴ばない、さらには蔑ろにする行動が、しばしば見受けられたようです。  高師直(kou・moronao)は「バサラ大名」として有名です。豪華な衣装を身に着け、王朝の風とは異なる新しい美意識を誇示するのが「バサラ」です。この時代を代表する価値観でしたが、それは伝統的な権威を維持する天皇家に対する挑戦を意味したのではあるまいか。さらに言えばこの時代、天皇家の権威が最も低下した時代とも言えます。…(続)

平成二十五年癸巳・甲子・戊戌