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神社

後・北条氏の盛衰

6・鶴岡八幡宮の再興・・・(後北条氏)

関東武士の心の拠り所・鶴岡八幡宮の再建工事が天文元年(1532)から約八年の年月をかけて始まった。北条家挙げての大工事であった。北条氏綱(後北条氏当主)は相模守護職として、鶴岡八幡宮が源頼朝の東国統治における守護神であり、関東武士の信仰の心の拠り所である神社と捉え、また鎌倉北条家を政治的に継承する立場として、その再建には全勢力を投入して工事を貫徹させた。
鶴岡八幡宮参ノ鳥居より本殿を望む(鎌倉・雪の下)
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鶴岡八幡宮の修造・造営工事を約十一年間にわたってその進捗状況を記録した「快元僧都記」の存在が大きく、貴重な史料であると言われる。  この史料は書名のごとく、鶴岡八幡宮の二十五坊の一つであった相承院(soujiyouin)の供僧である快元僧都(kaigensouzu)が享禄五年(1253)から約十一年にわたって書き記したもので、神社造営の進捗状況を記録した第一級の史料であると言われています。

この「快元僧都記」には、鶴岡八幡宮の造営に関する記事はもとより、工事に参加した職人と人足などの現場監督の奉行である侍衆、実際に工事を行った職人衆や人夫などの状況が詳しく記録されており、戦国時代の職人の様子などに詳しい。

その内容であるが、天文元年(1532)に鎌倉代官の大道寺盛昌(daidouji・morimasa)と小机城主の笠原信為(kasahara・nobutame)を使者として鎌倉に派遣し、八幡宮の古木の状況と、どの程度の修築・造営を必要とするかを調査させる事から記述が始まっている。 次に当時の関東の職人集団の有様や京都・奈良の職人とその周囲の状況、また、北条氏を取り巻く周囲の政治状況も記述されていた。
* 建築用材の手当て・修・造営の大まかな予算・それに携わる職人の確保等々であろう。

鎌倉は相模・東部にあることから鶴岡八幡宮の造営でも玉縄城の管轄になり、その為に河越衆と玉縄衆は、主力として働かざるを得なかったのである。後に編纂される「北条氏所領役帳」の中に、この時の造営工事に参加した為に、諸役を免除された侍もいたようだが。玉縄衆の北条為昌や河越衆の北条綱成(tunasige)にとってこの造営工事は大変な負担だったに違いない。

なぜ北条氏綱は、この様な激動の最中に鶴岡八幡宮の再建工事を強行したのであろうか。「快元僧都記」には、氏綱は工事費用の募禄(boroku)と称して、関東中の武士にその可否の調査をさせている記事が有る。  これは募禄に名を借りて北条方と上杉方との色分けを武士達に嫁したのである。つまり武士達にとって工事への参画は合戦に出陣したのと同じ軍役責務の奉公になったのである。

氏綱はこの造営事業には大きな意欲を示し、完成間近い回廊西門の柱の朱を自ら塗ったと伝わる、この気の入れようは、父早雲からの継承事業であったためと思われるが、鎌倉の復興が関東勇飛の必須条件であった為であろう。
* 北条早雲の遺言の中にもあったと考えています。(私見)

快元僧都記」には北条家の侍の他に、数多くの職人集団が登場している。  その主なものは、小田原城の北条氏綱直轄の大工の他、鎌倉大工、伊豆大工、玉縄大工、奈良大工、京大工、白壁師、檜皮師(hiwadasi),大鋸引(ogabiki),塗り師、石切、瓦師、炭焼きなどの集団と鍛冶職人、金細工の職人もいた。

お詫び・・・・・zataro50様・booken様その他、当ブログにコメントを寄せていただいた皆さま、昨日までコメントの存在に気が付きませんでした、誠に申し訳ありません、また返信の方法もパソコン不慣れの為に出来ずにいます。勉強します。   自由気ままなリポートを続けています、多くの皆さまの訪問をお待ちしています。

平成二十四年壬辰・癸丑・庚申
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鶴岡八幡宮の大銀杏

源実朝・暗殺
実朝暗殺の折には実行犯・公暁が身を隠したと伝えられる銀杏である。
その大銀杏が三月十日(2010)に倒れた。・・・・との報道に、樹齢一千年以上とされる大銀杏がなぜ今倒れるのか、信じられませんでした。  
 
しかし、最近の研究で樹齢500年位だと云う説が有力である。すると鎌倉時代にはあの銀杏はなかつたことになる。    公暁があの銀杏の木の陰に隠れていたとする俗説は、史実である可能性は低いと思われる。
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在りし日の大銀杏(大注連縄掛換)
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その大銀杏の前には、義経の愛妾であった静御前が舞ったと言われる「舞殿」がある。しかし吾妻鑑によれば、静御前が舞ったのは鶴岡八幡宮の回廊であったようだ、いまはその回廊も残らない。

七夕の舞殿
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本殿の七夕飾りs-2010_1201_123644-DSC01251.jpg

甘縄神明神社(+4

安達盛長邸址 (29)   大正14年3月   鎌倉町青年団     甘縄神明社
源頼朝が伊豆で旗揚げしたときに協力した。その後石橋山の戦いで敗れ頼朝と共に房総にのがれ、軍の建て直し計画を練りました。 その功により重要な地位に就き、子盛景・孫の義景(秋田城介)と家を継ぎ、安達泰盛が有力御家人として北条氏との結びつきを強め、妹(後の覚山尼)を北条時宗に嫁がせた。 その後内管領・平頼綱との争いに敗れ一族もろとも滅ぼされた。s-2010_1119_122925-DSC01197.jpg

甘縄神明神社  和銅三年  染谷太郎大夫時忠の創建

永保元年源義家(八幡太郎)社殿を再建する。以来源頼朝、政子の方・実朝など武家の崇敬が篤く、古来伊勢別館と尊称されている。鎌倉で最も古い神社です。
安達盛長一族の屋敷はこの辺りにあったと云う。
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染谷太郎太夫時忠邸址 (19)  大正14年3月   鎌倉町青年団   文学館近く
藤原鎌足の四代目の子孫、父は奈良・東大寺の僧良弁(りょうべん)、文武天皇~聖武天皇の時代に鎌倉に住み東八カ国の総追捕使(そうついぶし)。由比長者と言われたそうです。甘縄神明宮は時忠の建立と伝えられる。s-2010_1124_112427-DSC01214.jpg



長谷寺   江ノ電長谷   天平8年(736)の創建
本尊の十一面観音菩薩像は、奈良の長谷寺の尊像と同じ一本の楠の木より彫られたといわれ、木造では日本最大級s-2010_1119_120954-DSC01190.jpg


宿屋光則屋敷跡 (75) 昭和    15年3月    鎌倉市青年団    光則寺                   文永十一年(1274) 光則寺の開山は日蓮の弟子日朗。開基の宿屋光則は、北条時頼の家臣 日蓮が迫害を受け佐渡流罪になると日朗も捕えられ、自宅にて監視の任についた。弟子の身を案ずる日蓮に心打たれ、後に帰依して自宅を寺にした。  裏山に日朗が幽閉された土牢が残る。
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