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名門・比企氏

譜代の御家人・比企氏

*比企氏の乱は本当にあったのか?

尼御台所・政子としては、病状最悪の頼家には期待が全く持てなくなった以上、やはりもう一人のわが子実朝が大切である。だが、まだ若くて頼りない。  わずか十二歳である。  緊急に政子自身が手を打つ必要があった。躊躇すれば、比企氏に全面的に政権をゆだねる結果になる。・・・頼朝を支え、苦心を重ね営々と築き上げた北条氏の地盤は、たちまち崩壊してしまう。 この際何としても比企能員を討たなければならなかった。その様な時に政子は重大な決意を固めたに違いない、先述した創作劇の事だ、政子から見れば、愛息実朝と愛孫一幡とを差別する必要は全くないが、両者を激しく対立させて考えるのは、やはり一幡の背景を成す比企能員への強烈な意識によるもである。
比企一族が眠る・日蓮宗妙本寺の祖師堂
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北条政子の創作による通報が時政にもたらされると、時政は意外にも取り乱したという。  これは一体どうした事なのだろうか、まず幕府の重鎮大江広元に相談したが、「兵法に関しては、判断できない誅殺すべきか否か、賢慮の上決定なさるように」と広元はきれいに逃げてしまった。

*事件の結末

大江広元が時政邸を辞して、帰宅していった後に、その場で薬師仏の供養が始まった、その仏事には比企能員も招待されており、甲冑も着用しない無防備のまま単身姿を現したのである。   そこで能員は悲惨にも難なく殺害されてしまった。

それに比して、時政の家人たちはすべて甲冑に身を固め、優秀な侍を揃えて待ち受けていたのだから、ずいぶん残酷な話である。 能員は子息の忠告を振り切って、単身無防備のままあえて時政邸に赴き薬師仏の供養に参向したのです。特に注目すべき点は、能員が出発に際して「御譲補等の事に就きて、仰せ合わせらるべき事あらんか」と述べているところです。

つまり、将軍家の権益を二分するという懸案の問題について、何か新しい提案があるのではないかと思ったからである。協議の上、平穏に事を収めたいという能員の柔軟な姿勢が見えます。・・・すなわち、その段階では叛逆の意思など全くなかったのです。 政子の創作による情報のねつ造に躍らされた観がある。

通説である比企氏の反乱という表現は、北条氏による都合のよい方向に沿って記録されたと思われます。 政子自身が十分に覚えがあるはずだが、源家草創の時代以来、比企氏は常に献身的に尽力を惜しまなかった。  夫の頼朝が伊豆で孤独な流人時代を送っていた日々に、比企氏は幾多の危険を冒して援助に駆け付けた。

その様な比企氏滅亡の惨劇は非常に複雑な経過を経て、異変が次々に重なり、極めて錯綜しているように見えるのだが、すべて一日のうちに起こった事件なのである。  「吾妻鑑」の記録によれば、このめまぐるしい変動が、すべて建仁三年9/2日のうちに起こったように記録されています。

こうして観てきますと本当に比企氏による反乱はあったのでしょうか。・・・・やはり北条政子による創作劇が時政に通報され、仏事に招かれ際に殺害されてしまったのでしょうか。・・・・・だが事件はそう単純ではなかったようです。能員殺害計画の背景に身を隠していたのは、時政の後妻牧の方である。  当時の北条氏を表面で牛耳っていたのは北条政子と弟の義時である、二人は共に時政の先妻の子である。 一方裏の実力者は牧の方である、先妻の子二人と後妻の牧の方と馬が合わないのは当然だった。  そうした両者の争いに比企氏は巻き込まれてしまったのではないでしょうか。・・・或は比企氏の乱など本当は無かったのかもしれません。? ・・・  (終)

平成二十六年甲午・壬申・己卯
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譜代の御家人・比企氏

*比企氏の家運

正治元年(1199)、1月頼朝は死んだ。  それによって比企氏の運命は大きく変わり、四年後の建仁三年(1203)9月、一族ことごとく滅亡することになる。 世の無常とはいいながら、あまりの変化に驚くばかり、そこに至る前、比企氏の家運はまず次のようなことから傾き始めるのである。
比企能員一族の墓所(日蓮宗・妙本寺境内)(鎌倉・大町)
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建仁三年8/27条、将軍を継承した源頼家の病気が悪化した時、次期将軍職に目をつけていたものは、比企氏のほかにもいた。 いうまでもなく、実朝(頼家・弟)の背後に控える北条氏である。  時政・政子・義時という強力な陣容である。 それらが比企氏の利害と両立するわけがない。 一方が立てば必ず他方は倒れる。 北条氏としては比企氏の繁栄を許せない。 両立することは不可能な状況だったに違いない。

北条氏側としては是が非でも頼家の嫡子・一幡の権限を消滅しなければならなかった。 頼家の病状がいよいよ切迫すると、いきなり天下を実朝と一幡とで二分させたのだが、まだ生ぬるかったようだ、そのすべてを一幡から奪取するに越したことはないと考えたに違いない。  そのことに関して奇妙な記録に気付かされる。

「吾妻鑑」建仁三年9/2条、比企」能員が娘を通じて夫の頼家に訴えたことに、「北条殿を早急に追討する必要があるようです。 凡そ家督相続人以外の者に地頭職を分割するような事をすれば、権威が分割され、互いに挑み争うことは疑う余地がありません。」

「一方は将軍の子であり、他方は弟、一見穏健な措置のように見えますが、かえって国を乱す原因になりかねません。時政の一族に権力が分散されれば、家督相続人(一幡)が生きる道を失うことは、異議を挟む余地がないでしょう。」

将軍(頼家)はこの意見を聞いて驚愕し、能員を呼び、談合に及んだところ、時政追討の件、将軍は一応承諾したという。ところがこの情報、尼御台所を通じて時政に早々密告されてしまった。

北条氏と比企氏との立場はいよいよ抜き差しならない処に至り、激突寸前になっていた。 能員の意見に刺激されて、頼家は北条氏の追討を決意する。 しかし一方でその時の密談の内容をを政子はどのようにして得たのだろうか、あるいは密談などなかったのかもしれません、政子による創作劇のような気がする。  時政を刺激して、奮起させるには有効な創作劇である。

頼朝亡き後の政治の行方は、政子にとっても重大事であったでしょう。  刻々緊迫の度を増す事態に心を病んでいたと察せられる。  頼家といっても大切なわが子であり、一幡は愛らしい初孫である。それらを共に窮地に追いやる計画を実践するのですから、政子の気持が動揺しないはずがない。   (続)

平成二十六年甲午・壬申・丙子

頼朝譜代の御家人・比企氏

*源家と比企氏

比企氏は武蔵国比企郡を本拠とする家門で、源頼朝の挙兵以前から、引き続いて源家の為に献身的に尽力した。  比企禅尼は義朝(頼朝・父)に従って上洛し、頼朝の乳母となる。  平治の乱後は比企郡に戻り、伊豆に配流となった頼朝を支援した。  比企禅尼の養子となった能員(yosikazu)もよく頼朝に仕え、御家人の上席として幕政に関与。
比企能員邸・旧跡(日蓮宗・妙本寺)  鎌倉・大町
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能員(yosikazu)の娘、若狭局は源頼家の子一幡(itiman)を生んだ。 能員は将軍頼家の外戚として、家運の隆盛を計ったが、やがて北条氏と対立、関係が冷却し、深刻な問題を抱えるようになった。  まずは初めに、源家と比企氏との間の強いきずなを示す記録から見てみよう。

「吾妻鑑」・寿永元年(1182)7/12条、御台所(北条政子)御産の気によって、比企谷殿(比企能員邸)に移られた。  御輿が用いられた、予めその場所が選定されており、千葉胤正・同胤頼・梶原景季がお供に祇侯した。更に梶原景時が御産の間の雑事を指図した。

能員の養母比企禅尼が頼朝の乳母だったので、自然にこの様な因縁が発生した。  実際、禅尼は能員の伯母なのだが、後に養母となったのである。  やがて能員の妻が若君(頼家)の乳母となり、また、娘の若狭局が頼家の正室となって一幡を生むことになる。 このような経緯を見てもわかるように、源家と比企氏とは家庭的には切っても切れない深い関係を持っていた。  見方によっては癒着状態にあったともいえる。 他の有力御家人たちから批判される一面が有ったかも知れません。 それがのちの比企氏滅亡に連なる一因ともいえますが・・・。

更に「吾妻鑑」同年10/17条、永暦元年、頼朝が伊豆国に遠流となっていたときに、比企禅尼は忠節を尽くそうと、武蔵国比企郡の自邸を請所とし、夫の掃部允(kamonnojiyou)を伴って参向した。 掃部允は伊豆国に下向し、治承四年の秋に至るまで二十年の間、世継ぎの世話をした。  将軍・頼朝が繁栄の時を迎え、何かにつけて昔の奉公に報いるため、比企禅尼に甥の能員を養子にさせて、その能員を挙用した結果、前述したように結束を強めて行ったのでしょう。 (続)

平成二十六年甲午・壬申・癸酉