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土肥一族

海辺の雄族・土肥一族

*土肥実平の決断

梶原景時の父景長(kagenaga)は、大庭景義・景親の父景忠(kagetada)と兄弟の関係で、頼朝方には、景時にとって従弟にあたる景親の兄景義(kageyosi)が付いていた。  縁者同士の争いを避けて通りたい心情は理解できる。
鎌倉・建長寺で行われる施餓鬼に参加される梶原氏の末裔の方々    (鎌倉・山之内)
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箱根山中に潜んでいる頼朝に危機が迫っている予感を憂慮した実平は、味方の兵たちに別行動を提案した、山中での多人数の行動は目立ちすぎる。  実平のその時の冷静な状況判断というか、決断力に優れた先見の明がある考察は、沈着冷静、優れた武将に共通した不屈の精神力と先を見越し得る百戦錬磨の体験によるものと思われます。

*この行動によって頼朝は実平に命を救われ、再び挙兵して、源氏の勝利へと導かれたと云えよう。

平家方の探索の動きが遠ざかった事を見極めて、頼朝主従は椙山を脱出。そかから南に下って真鶴半島へと向かった。そのころ平家方の伊藤祐親(itou・suketuneの軍勢が、土肥館を襲撃していたが、こと既に遅かった。  

真鶴に出た実平は、予め配下に用意させておいた船に乗り込み、岩浦から安房国へ向けて船出した。 房総には頼朝に加勢した三浦氏とは同族に当たる先祖を持つ千葉氏がいます。  頼朝一行は豪族千葉氏を頼って房総に渡り、再起を計ったのです。

房総に渡った頼朝は、北条時政・三浦義澄(yosizumi)らと合流し、上総介広常(kazusanosuke・hirotune)・千葉常胤(tiba・hirotune)らの協力を得て、上総、下総から武蔵に入った。  さらに、畠山氏、河越氏・江戸氏などの多くの武士が配下に加わり、勢力を盛り返して鎌倉に入ったのです。

実平の活躍はその後も続き、元暦元年(1184)の木曾義仲追討参戦。 さらに、源範頼(minamoto・noiyori)・義経の軍に加わり「一の谷」でも活躍した。 作戦評定にも参加、平重衛(taira・sigehira)を捕虜にした時の尋問と調書を鎌倉に送付している。  その後、備前国、備後国、の守護として任ぜられ、播磨国、美作国の守護となった梶原景時と共に、頼朝の信任が厚かったと思われます。

所領していた本拠・相模国土肥郷は無論の事、早川荘と早川北岸の小早川荘(小田原市板橋付近)と呼んでいた地域も、新たに息子の遠平(touhira)に与えられ、そのころの親子の事を早川次郎とか、小早川遠平などの呼称があったのは、それ故だったと考えられる。

小早川遠平の子惟平(korehia)は鎌倉幕府を開設できた功労よりも、頼朝の妻雅子側の北条一族に対して不満を持つようになっていた。  執権の地位を得た北条氏に批判的な三浦一族や大庭景義に、土肥・土屋・中村氏等も同調するような状況の中、三浦義明(miura・yosiaki)の孫にあたる和田義盛(wada・yosimori)が北条氏に対し、戦を仕掛けた。  (和田合戦)

実平の子で惟平の父、小早川遠平は、和田合戦には参加しておらず、存命していた。  かつて源氏に味方し戦功があった遠平は、頼朝から西国安芸国(広島県)沼田本荘・新庄の地頭職を与えられ移り住んでいました。  遠平の養子・景平(kagehira)の子孫が継承された小早川家は、一族の中でもっとも繁栄したと思われます。   (終)

平成二十六年甲午・癸酉・丁巳
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湯河原の土肥一族

*海辺の雄族

相模国湯河原の土肥(足柄下郡湯河原町・真鶴町)に本拠を持っていた土肥次郎実平(doijirou・sanehira)は、三浦一族に劣らず頼朝の平家打倒の旗揚げを助けた主要人物である。  もし土肥実平はじめその一族がいなかったら、その後の頼朝の勝利はなく、鎌倉に幕府を設立した頼朝が建久三年に征夷大将軍の地位につけなかったといってもよい存在だった。
鎌倉幕府最初の御所・大蔵幕府跡旧蹟(鎌倉・雪ノ下)
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湯河原の御庭平(oniwadaira)と呼んでいる場所が土肥氏の居館が鎌倉時代にはあったと推定されている、後に土肥城が築城されるが室町期から戦国期に築城されたものと伝えられ、城からは房総半島、三浦半島、その手前には大磯、二宮、国府津(kouzu)、小田原の海岸線から真鶴半島。 南には伊豆半島、伊豆大島といった展望があった。

城址城山の尾根は箱根の大観山に連なる狭い尾根状の道で要害な地形である。 実平は、ここを館の詰めの城、城は砦と考えていたのであろう。  湯河原は、気候温暖な肥沃な地、土肥郷と呼ばれていた頃から、地域住民は安定した穏やかな暮らしをしていたことが覗える。

伊豆の韮山で挙兵した頼朝が、平家討伐の陣を構えようとした地点は、早川荘早川尻であったが、背後が海になる地形の為不利になると進言したのは、実平の嫡男・小早川遠平(kobayakawa・touhira)・(土肥遠平)であった。地理的条件を知り尽くした遠平の見解を頼朝は採用し、石橋山に変えたと云う。

攻め寄せる平家方軍勢は、大庭景親(ooba・kagetika)を大将として三千余騎。  それに比べて頼朝方は三百余騎にすぎない兵力であった。  この合戦で、岡崎義実(okazaki・yosizane)の嫡男・真田与一義忠(sanadayoiti・yositada)は討死した。

*真田与一義忠・・・・・石橋山合戦で先陣を任され戦死。 頼朝はその死を悼み証菩提寺(横浜市・栄区)を建立。

石橋山合戦で平家方に敗れた頼朝勢は、実平の案内で山続きに土肥の椙山(sugiyama)へと逃げ込んだ。 土地勘のある実平に導かれた頼朝は大杉と呼ばれる洞穴に身をひそめた。 次に身を寄せたのが箱根権現、しかし、権現従業者の中には敵方平氏へ心寄せる者がいることを知って身の危険を感じ、再び椙山に戻った。 逃亡中の頼朝主従の食物はどうしていたのかというと、実平の妻たちが運び続けたという。 地元の実平関係者や寺社勢力、山伏たちのサポートが有ったことは充分に考えられる。

椙山の大杉の洞穴に頼朝が潜んでいた時に、大庭景親と行動を共にしていた梶原景時(kajiwara・kagetoki)が付近を捜索、景時の予測は的中し潜んでた洞穴を探し当てられた。  しかし景時は自ら進んで洞窟を捜索「あるのは蜘蛛の巣ばかりだ」と言って同行した侍達を油断させ別の山に向かったという。  その時の景時の行動は、頼朝に対し好意を寄せていたような節があり、意識的に見逃そうとしていたと考えられている。  (続)

平成二十六年甲午・癸酉・甲寅