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禅文化

鎌倉文化と「禅」

*渡来僧の薫陶・・・(つづき)

鎌倉の子弟教育においては、渡来僧が有力な禅寺のトップにいるという状態が、門下生に中国への目を開かせたという点において、大変な役割を果たしました。
毎年7月15日に行われる供養・法会「梶原施餓鬼会」・・・臨済宗・建長寺
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先に触れた南浦紹明は、建長元年(1249)、十五歳で剃髪受戒して、駿河から鎌倉に赴き、開かれたばかりの建長寺で渡来僧・蘭渓道隆(1213~78)に師事した。  そして正元年間(1259~60)に渡宋している。   さらに、約翁徳倹(1245~1320)は、鎌倉郡の生まれで、道端に捨てられたのを、「郡の著姓」に拾われ養育された。  幼くから普通の子供の遊びはせず、僧を見れば必ず敬い、仏を見れば必ず拝んだ。十三歳の時に養父に従って建長寺に参詣り、蘭渓によってその才能を認められ、童子となってその教育を受けることになった。  徳倹もやがて文永年間(1264~74)に渡海することになる。

この様に、東国出身の子弟が、鎌倉の建長寺で、蘭渓の教育によって中国への目を開かれるというコースが定着していったことが解ります。

さらに、蘭渓道隆の影響下に渡海した世代よりも1~2世代遅れる僧たちに、大きな影響を及ぼした渡来僧として、一山一寧(1247~1317)と東明慧日(1272~1340)の二人があげられます。

*一山一寧(itusan・itinei)・・・・・中国浙江省・補陀落山観音寺の住持。  皇帝の使者として来日したが、優れた文化人としての能力を認められ、鎌倉に招かれ建長寺の住持となる。  朱子学・書道・絵画も優れた、多彩な能力の持ち主で、その後の日本で禅宗文化に大きな影響力を与えた。

*東明慧日(toumiyou・eniti)・・・・・中国浙江省定海県の出身。曹洞宗宏智派の僧。 延慶二年(1309)に北条貞時の招きで来日、円覚寺の住持となる。

他に北条時宗の招きで来日し、円覚寺を開いた有名な無学祖元(mugaku・sogen)については、日本での活動期間が短かったことや日本語を習得しなかったこともあって、その影響で渡海を志した人物を見出すことができない。   (終)

平成二十六年甲午・乙巳・己巳
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鎌倉文化と「禅」

*渡来僧の薫陶

鎌倉という都市は。日本で禅宗が早い時期から本格的に定着した処として知られる。  日本の初期禅宗文化は中国直輸入の性格が強いが、才能ある若い僧たちは鎌倉の禅宗世界に於いて、貪欲に禅僧として育ち、やがて中国への渡航参学を志すに至った。
鎌倉五山・第三位・・・臨済宗・壽福寺山門(鎌倉・扇ヶ谷)
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*基礎学としての天台・真言・儒学・算術

禅僧たちによって残された伝記史料を検証してゆくと、いきなり禅宗に接するよりは、その前提として共通の基礎学問があったように思われます。  その核を成すものが、平安初期に成立した天台宗・真言宗です。

全国にネットワークを張り巡らせていた天台・真言系寺院は、仏教の特定宗派の修行場というよりも、この時代の基礎的な教養を身につける場という性格を持っていた。  言い換えれば地方の子弟に初等教育を施す学校として機能していたのである。

鎌倉・扇谷の壽福寺は禅宗寺院であるが、開山の栄西自身が鎌倉ではもっぱら真言僧と見られていたように、純粋な禅宗というよりも密教色が強かった。  子弟が最初壽福寺に入れられる例は、ほかにも見られ、壽福寺の僧童になったことは、純粋な禅宗に触れたというよりは、基礎的な教養としての天台・真言系の文脈で学んだのだと思われます。

*東国出身の禅僧たち・・・・・中厳円月・南浦紹明・直翁智侃・龍山徳見・別源円旨・清渓通徹等々・・・

十三世紀半ばから十四世紀にかけては、日本から中国に渡って、本場の僧侶の元で修業を積む、あるいは中国の各地を遍歴するという動きが、禅僧たちの間でブームとなった時代である。  彼らの事を海を渡った僧、「渡海僧」と呼んでいる。

他方、同じ時代に、中国から日本に渡来して禅寺に所属した僧侶たちが集中的にあらわれる。  これを、「渡来僧」と呼び、確認できるだけでも三十人ほどの名前を見出せる。  この時代の禅宗世界における日中交流は、双方向的であったことが特徴と云えるでしょう。  (続)

平成二十六年甲午・乙巳・丙寅

都市鎌倉・文化的整備

北条泰時・時頼の時代に都市としての鎌倉は大いに整備された。  泰時は鎌倉から東の六浦(mutura)に通じる道路を開き、房総地方との交通を便利になった。商業の発展に伴い、時頼の時代には商業地域が指定された。

鎌倉の海は大船(daisenn)は入港できない、泰時は勧進僧を支援し和賀江島(wakaesima)を築港させ大船の寄港を可能にした。こうして大陸文化輸入の窓口である北九州と鎌倉とは水路で結ばれ、中国南部を中心とする東アジア通商圏の一環に組み入れられ、中国文化は京都を経由せず、直接鎌倉に入るようになった。

幕府は政治的に優位に立っても、文化面で京都を超えるのは簡単ではない。京都の模倣ではなく、鎌倉独自の文化を高めるためには、中国文化を輸入するのが有効であった。

寛元四年(1246)北条時頼は、宋の臨済僧・蘭渓道隆(rankeidouriuu)を鎌倉に招き、大船の常楽寺の迎え入れた。政務の余暇に通い、教えを請うた。建長元年(1249)には道隆のために建長寺を創建した。道隆の臨済宗は妥協することなく、厳しく、純粋な禅を説く。  その後も中国から禅僧が渡来し、幕府の保護を受けることになる。

幕府が禅を保護するのは、単に宗教的な動機からではなく禅宗様文化、すなわち、禅に伴う種々の中国文化を摂取し、公家文化に対抗して、独自の武家古典文化を築いていった。  儒学(朱子学)、詩文、禅宗様建築、頂相(tinzou)、水墨画から、喫茶などの生活様式にいたるまで、禅と共に伝えられた文化は多い。

建長寺は日本の禅の中心となり、これを模範として各地に禅寺が建てられた。  渡来僧たちは、都に招かれて、朝廷や貴族に帰依され、都にも中国風の禅が伝わった。鎌倉が京都と並ぶ文化の中心となり、京都が鎌倉から学ぶ現象さえ見られた。

東大寺大仏が日本国の本尊であるのに対して、鎌倉大仏は東国の本尊なのである。  それは日本国の律令と関東の「御成敗式目」との関係と同じである。鎌倉幕府の支配する東国が、朝廷の支配する日本国の中で独立を進める姿がそこにうかがわれる。

蘭渓道隆・忍性・叡尊・日蓮が活躍し、大仏が造られた鎌倉は活気に満ちている。時頼の時代には、頼朝の時代とは異なる新たな鎌倉の街造りが行われ、後世に多くの影響を及ぼしたのは、時頼の時代かもしれない。

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鎌倉と禅文化(+4

栄西(ようさい)日本臨済宗の祖。二代将軍・源頼家や北条政子の帰依を受け、幕府や朝廷の保護のもと、禅宗の振興に努めた。正冶二年・扇ヶ谷に壽福寺を建て、建仁二年・京都に建仁寺(開基・源頼家)を建てた。栄西の弟子明全(みょうぜん)に師事した道元は曹洞宗を日本に伝え、日本の開祖となり、越前に永平寺を建て修業に専念。臨済宗が貴族や武士階級に広まったのに対し曹洞宗は庶民の間に浸透した。  臨済僧・蘭渓道隆により建長寺開山(建長五年)  開基・執権北条時頼。建長寺が鎌倉に建立されたことによって、日本全国に禅宗が流布する源が出来た。その後北条時宗により、南宋の臨済僧・無学祖元を開山に招き(弘安五年)円覚寺を建てた。  禅宗は自力本願であり、坐禅により自ら悟りを開くことを重んじる。 常に戦場にあった武士は、人生の無常観と罪の意識に目覚めるにつれ、自らの生き方を問うため禅の教えを学び、実践した。  建長寺や円覚寺では、現在も雲水が托鉢を行い、一般家庭を訪ねている。  不殺生戒の教えから魚や肉を使わず、旬の素材を無駄なく使う精進料理(けんちん汁)は建長汁がなまって呼ばれるようになったと言われている。 室町幕府の三代将軍・足利義満は鎌倉五山を建長寺・円覚寺・壽福寺・浄智寺・浄妙寺の順で定めた。  五山文学が生まれ、建築・彫刻・造園などにも影響を与えた。  建築では、鎌倉円覚寺の舎利殿が国宝に、絵画では建長寺・蘭渓道隆像を代表とする頂相(ちんぞう)(禅僧の肖像画)も国宝に指定されている
五山第一位・建長寺

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五山第五位・浄妙寺s-2010_1201_095223-DSC01243.jpg