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史料

鎌倉時代前期の幕府法廷

鎌倉幕府の訴訟制度は建長元年(1249)の引付成立以後の鎌倉後期からとの認識であるが、最近の研究から、もはや鎌倉前期の訴訟制度は未熟な段階として退けることは許されない。

鎌倉初期の訴訟制度を特徴づける「御前対決」に手掛かりを求めよう。  これは鎌倉殿の面前で行われる点で、法廷の性格を象徴的に示している。 問状風の裁許状が出される事が知られ、御前対決は明かに鎌倉前期の訴訟制度を特徴づけている。

御前対決は単なる鎌倉殿の面前での対決(口頭弁論)ではなく、鎌倉殿自身の訴訟指揮による対決であった。  従ってそれは一度問注所の対決を経た第二段階の対決であろうと思われる。
問注所跡石塔(鎌倉市・御成町)「後世の場所」s-2010_1112_105313-DSC01170.jpg

この鎌倉殿自身の訴訟指揮を特徴とする訴訟・裁判のあり方を「鎌倉殿沙汰」とよぶならば、頼朝時代の訴訟制度一般についても鎌倉殿沙汰として特徴づけられよう。

少し時代が下って、北条執権体制下で行われた訴訟は、両執権・評定衆が列座し、将軍は簾中にあって行われている。  当初、対決両人の問注があった後、「評定」があり、「衆議」を鎌倉殿に申請したようである。  そこに鎌倉殿自身の訴訟指揮をうかがうのは難しいであろう。この時期の御前対決は評定制を前提としていたのであり、おそらく評定会議での結論が一致をみないような特殊な場合に限って、御前対決に持ち込まれたと考える。

同じ御前対決といっても、段階的変化をしっかりと把握しなければならないことがわかる。そうした段階的変化のあることを踏まえたうえでも、御前対決が行われ続けたことの意味は強調されねばならない。  一部が御前対決に持ち込まれただけ、あるいはまったく形式的な意味しかなかったにしろ、御前対決がおこなわれていたと云う事実は、幕府裁判の中心にあったのが鎌倉殿であることを意味し、鎌倉殿の法廷と云う側面を持って、鎌倉幕府前期の訴訟制度の特徴だと思う。

しかし、鎌倉殿が幼少だった場合、具体的には実朝(sanetomo)や頼経(yoritune)の初期に、御前対決は真に意味を持ちえたのであろうか。  このうち実朝の場合、幼少とはいえ鎌倉殿「関東長者」として宣下があり、政所も開設しているので問題無かったと思われる。(御前対決の例八例がみえる)

しかし、頼経の場合は、嘉禄二年(1226)まで将軍宣下を待たねばならなかった。  この間の御前対決がどのように処理されたのかと見ると、「吾妻鑑」の記事に頼経に代わって二品禅尼(北条政子)が理非を簾中で裁断したようである。 政子が鎌倉殿に代わって裁断したと言えよう。
北条政子・実朝親子の墓(鎌倉・扇ヶ谷、寿福寺)s-2011_0401_101105-DSC01527.jpg

将軍頼経は貞永元年(1232)従三位となり政所開設の資格を得るが、以後発給された将軍家政所下文を見てみると、いずれも所領の補任・安堵のみを内容としており、裁許を内容とするものはなくなる。 実朝の時代、政所家司連署の下知状からさらに政所下文へと、実朝の地位の変化と共に裁許状が変わっていったのと比較すればそこにきわめて大きな違いがある。もはや政所は裁判機構の中心ではなくなってきた。

政所に代わって訴訟機構の中心に据えられたのは嘉禄元年(1225)に設けられた執権主催の「評定」とみられる。  「評定」の裁判機関としての性格については「吾妻鑑」にその具体的活動を追ってみる、評議が評定衆の合議で決断される記述が頻繁に見られる

こうした訴訟機構の中心が、政所から評定へという変化を、実朝期からみると、元久の対決には時政(北条)・広元(大江)の政所別当が祗候(sikou)している。これに対し嘉禎元年(1235)には評定衆が祗候して御前対決が行われている。すなわち実朝期には政所が、頼経期には評定が御前対決を補佐しているのである。
大江広元墓(鎌倉・西御門)
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鎌倉殿による御前対決が行われた頼経の時期、それと併行して執権の面前での御前対決も行われていた。「吾妻鑑」  泰時邸(三代執権)で行われた「直問答(jikimondou))」「計 下知(hakaraigeti)」などであろう。

このように鎌倉殿・執権が併行して御前対決や庭中を処理していた時期を経て、次第に鎌倉殿面前での御前対決が無くなっていったようだ。それは幕府の法廷が鎌倉殿主催から、はっきりと執権主催の法廷へと転換したことを意味しよう。さらに引付へと発展いてゆくのであろう。
平成二十四年壬辰・壬寅・丙戌
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「蒙古・襲来絵詞」・竹崎季長

文永・弘安の役とも呼ばれる、二度のモンゴル襲来は、日本史上の大事件であったが、「蒙古襲来絵詞」は、第一級の資料と言われる。教科書をはじめ、モンゴル襲来を扱う歴史書で、必ずこの絵巻を取り上げる。   その内容は博多湾防衛戦に参加した肥後国の武士・竹崎季長のたてた武功を中心に描かれ、詞書(kotobagaki)もまた季長を主格とし、その立場からの文章となっている。

文永十一年(1274)対馬・壱岐を攻略したモンゴル軍は、ついに博多湾内に侵入し上陸を始めた。迎え撃つ日本軍は鎌倉幕府の九州出先機関である鎮西奉行・武藤(小弐)・大友両氏の指揮下に編成された九州各地の地頭御家人、すなわち幕府支配下の武士達である。  詞書の主人公・竹崎季長もその一人だった。(二十九歳)

モンゴル軍の上陸の報を聞き、迎え撃つ態勢をとり、季長は戦場で互いに「見継ぐ」ために、かねてより約束のあった江田又太郎秀家と兜を交換した。「見継ぐ」とは、戦闘終了後、武功を申告して恩賞を請求する際、互いに証人に立ったり、戦闘の時助け合うことで、目印の為に兜を交換し相手の兜をかぶったのだ。

その日の大将・武藤景資(鎮西奉行の弟)の指令は迎撃であったが、戦場での一番乗りにはやる季長は、前線へと志した。しかし多勢に無勢、たちまち痛手を負ってしまう、折しも肥前の武士白石通泰・百騎がモンゴル軍に討ち入ったので、危機を脱した。戦後通泰と互いに証人に立ち、軍功を記録する引付(帳面)に一番駈けとして記入される栄誉に輝いた。

文永の役で、一番駈けの功を認知された季長だが、鎮西奉行・武藤経資から幕府に上申されなければ、一番駈けの名誉も公認されず、恩賞を受けることもできないのである。  その後の書き下しの感状には、一番駈けの戦功が記載されていなかった。働きが戦功に反映されず、納得のいかない季長は、鎌倉まで行き直訴するのである。

絵詞第二の部分である鎌倉での訴訟の物語は、こうして始められる。
文永の役の翌年、建治元年(1275)季長は一族・知人の反対を押し切り、郎党二人を連れ故郷を後にした。絵巻の「奥書」(okugaki)によれば、出発前に甲佐大明神に祈願している、これによって反対をおしての鎌倉出訴の決意を固めたことは間違いないであろう。

東海道を東に下った季長は、伊豆の三島大明神、箱根権現に祈りを込めた後、鎌倉に到着した。直ちに方々の奉行を歴訪したが、なかなか取り上げる奉行がなく失望していたが、ようやく御恩奉行安達泰盛の面前で自らの主張を述べる機会をつかんだ。

季長の必死の嘆願に泰盛もその情熱にほだされたのか、将軍への取り次ぎを確約した。かくて、勲功の賞として肥後国・海東郷の地頭に任ずる旨の将軍家下文(kudasibun)を直接手渡された。さらに泰盛から「馬具付きの馬を」進呈された、破格の待遇である。一族の反対を押し切って鎌倉に出訴した季長の苦労は報いられた。

弘安四年(1281)我が国は再度モンゴル軍の来襲を受けるが、絵詞の第三の部分はこの弘安の役における季長の活躍を主題としている。  文永の攻撃に失敗した、モンゴル軍は数年に及ぶ準備の後、朝鮮半島を南下するモンゴル・高麗連合の東路軍二万五千、と中国本土から直接渡海する江南軍十万の二方向から侵攻した。

対馬・壱岐を攻略した東路軍は博多湾に侵入し、志賀島から上陸を企てる。対する日本側は前回の経験から博多湾岸に急遽築造された石塁、石築地が蜿蜒と続き、九州各国の武士は分担の部署について戦闘が始まった。季長もこの志賀島攻撃の一員に加わっていた。

志賀島を巡る攻防は、数日にわたったがモンゴル東路軍は遂に占領を諦め、江南軍と合流するため壱岐まで退いた。日本軍はこれを追撃し、季長もこの戦闘に参加している。  江南軍と合流したモンゴル軍は再び博多湾を目指して攻撃を開始した。しかし、かの有名な暴風雨が博多湾を襲い、モンゴル軍は殆ど壊滅してしまった。あとは残敵の掃討に向かい、季長も加わっている。

以上が「蒙古襲来絵詞」が伝える、鎌倉幕府・御家人、肥後国の武士・竹崎季長の物語である。

中世鎌倉往還(+2

「いざ鎌倉」に代表されるように、鎌倉へ向かう道として整備されたと言われる。 吾妻鑑には鎌倉往還とあり、源頼朝は、鎌倉と京都の間に新しい駅制「駅路の法」を制定したという。「新編相模国風土記」には鎌倉郡には小往還が七つあり、そのうち五つを鎌倉道と呼び鶴岡八幡宮へ参詣する道であつたと記されている。 南北朝時代の「太平記」、「梅松論」にある上の道仲の道下の道の三つが、後世鎌倉街道と呼ばれる主要路となった。

「上の道」・鎌倉・化粧坂~洲崎~渡内(藤沢)~柄沢~飯田(横浜)~瀬谷~鶴間~多摩川~分陪~府中~国分寺~狭山~小川~碓氷峠で、信濃路・上州路・武蔵道に分かれる。 新田義貞の鎌倉攻めはこのルートによる。
「中の道」・鎌倉・巨福呂坂(こぶくろざか)~大船~笠間(よこはま)~永谷~二俣川~中山~府中で上の道と合流する。
「下の道」とは、途中まで中の道と同じであり、その後、鶴見(よこはま)~丸子~渋谷~鳩ヶ谷~与野~岩槻~古河~結城~宇都宮へ至る道とされた。下の道は、現在の川崎市丸子で暴走路と常陸路に分かれ、房総路は木更津まで、常陸路は北茨城市、石岡まで通じている。